月日にすれば一体どれほどのものだったのか、には分からなかった。分かるはずもなかった。それほどに時間の感覚を狂わせるほどアズカバンは恐ろしい場所だった。今でも思い出すだけでぞっと寒気がする。ハグリッドもそれは同じようで、時々深刻そうな顔をしてはぶるっと身震いしたものだ。城に戻ってからやっと、自分がここを離れてから2月が経ったのだと知った。
「あ、あの…先生」
学年末の最終日、研究室に戻る途中だったは呼びかけられて振り向いた。この2ヶ月ですっかり体重も落ちて頬の肉は削げ落ちているが、それでも今までと変わりない生活を送れる程には健康だ。はポンフリーが特別に考えてくれた食事を摂ることで順調に回復している。戻ってきたその晩には大量のチョコレートを口に詰め込まれて逆に吐きそうになった。
今回の一件でルシウスが理事を辞めさせられて以来消沈したように歩いているドラコが、不安げに瞬きながら駆け寄ってきた。珍しく一人だ。は足を止めて彼がやって来るのを待つ。
「どうかしたの?」
「あの…その、まさかとは思うんですが、その…」
ドラコが明らかにその先を口にすることを躊躇っているようで、は急かしもせず彼が言う気になるまで待った。看守に囲まれて過ごすのに比べれば生徒の言葉を待つことくらい容易い。やっと意を固めたらしいドラコは顔を上げて唾を飲んでからやっと口を開いた。
「まさか先生は…マグル生まれですか」
は隠しもせずに吹き出した。くすくす笑うを見て、ドラコは惚けたようにポカンとする。何のことはないと言わんばかりには穏やかに彼を見返して笑った。
「私が襲われたとかいう馬鹿げた噂を信じてるの?スネイプ先生の説明を聞いたでしょう。実験に失敗しただけよ。情けない話だけどね」
どこか安心したように頬を緩めるドラコを見て、は肩を竦めてみせる。私の父がマグルだと知ればあなたは私までも蔑むのかしら?それとも祖父の正体を知れば縮み上がる?
ドラコはつまらないことを訊きましたと言って去っていったが、はふうと息を吐いてまた研究室への道をゆっくりと辿る。嘘は、ついていない。大きな嘘は。ロックハートは聖マンゴに送られてもう戻らないという。ホグワーツに戻ってきたダンブルドアは新聞に求人広告を出したが大よその目星はつけていると言った。
扉の前で立ち止まり、ドアノブに手を掛けたはふとアズカバンを思った。四六時中、ぞっとするような冷気に囲まれて過ごした。夜には何度も監獄の囚人たちの狂ったような叫びを聞いた。確かに皮膚の下には言いようのない寒気が潜り込んだが、それでも自分を失う程ではなかった。幸せなど、なかったからだ。あるのはただ妄執だけだった。ホグワーツに戻らねばという思いはあったが、それは希望ではない。ハグリッドの奇声は、暗闇の中で一度だけ聞いたように思う。
それこそあの裁判と同じように、両手を繋がれて吸魂鬼に引き渡された。ファッジは終始後味の悪そうな顔付きをしていたが、だが同時にやり遂げたような色を浮かべていたことも間違いなかろう。真冬の雪山に放り込まれたのかと思うほど、看守の集まる監獄は冷気がひどい。ハグリッドが厚手のオーバーを着てきた理由が、ここでやっと分かった。
少し前を、項垂れて小さくなったハグリッドがトボトボと歩いていく。その後ろ姿さえも視界には曖昧に映る。薄暗い監獄の通路は静かに歩を進める二人の足音すらひっそりと響かせた。格子のついた高窓から差し込む星明りだけが頼りだ。は黙って吸魂鬼に両脇を固められて歩く。ハグリッドの後を追うようにただ歩いた。
何度も思い出させられた。両親、そして親友たちの死を。そうさせたのは自分だという事実を。最愛の人の裏切り、彼もまた生きているのならばこの監獄にいるのだということ…。その度に発狂しそうな程胸は激しく掻き乱されたが、は自分の責を思うことでそれに耐えてきた。希望ではなく、重荷でしかない、だがどうしても手放すわけにはいかないそれを。
「…お前は」
声が、した。意味のない叫びや呻きではなく、そう、まさに自分に向けられたであろうその呼びかけ。思わず足を止めて振り向いたが、看守が手首に枷せた鎖を引いて先に進むよう促す。何を言っても聞き入れられる相手ではないと分かっているものだからも大人しくそれに従うも自分を呼び止めた人影を格子の向こうに見て目を細める。
「、だろう…お前、今頃どうした!ぬくぬくとダンブルドアの下で可愛がられていたんだろう!今頃こんな所でどうした!え!」
遠ざかるその影を判別することは出来ない。だが今でも時折思い出すその声は随分と掠れたが十分に聞き取れた。ベラトリクスだ。
「…生きてたの、ね」
前方に向き直り、力なく歩くは呟いたがそれが彼女の耳に届いたとも思えない。ベラトリクスの叫びに覆い被せるようにして別の方向からまた声がしたが、それがどこから響くものなのかも分からない。何もかもが、曖昧になっていく。確かなのはどうしようもない寒気が両側から挟み込むように押し寄せてくることだけだ。意識が途切れそうになる。
「、なのか!何があった…!」
ロドルファスだ。アズカバン暮らしが続くと監獄で息絶える囚人も多いと聞くが、ただの噂なのかもしれない。だがロドルファスの声はベラトリクスのそれとは違って随分と病んでいるように聞こえた。それも他の囚人の奇声に掻き消されて遠ざかる。そこからさらにしばらく歩き、空いている牢に押し込まれた。ガチャンと無機質な音が響き、吸魂鬼がすっかり鍵をかけてしまう。氷のように冷たい床にどさりと身体を倒して、は視線の先に一つだけついた小さな高窓を見た。雲は晴れてまた明るい星空が覗く。
この10年、希望などというものはなかった。それは今も同じことだ。吸い取られるものなど何も持っていない。ただ押し寄せる絶望感に耐え、背中を丸めて寒さを忘れようとした。その夜はとても、眠れなかった。時折格子の向こうを看守が巡回しては目を閉じて背を向ける。それでも虚無感に満ちたこの空間はどうしようもない。
彼はまだ生きているだろうかと、頭の片隅で思った。だが胸の奥に芽生えた感情に気付いて慌ててそれを閉じ込める。
希望を、抱きかけたのだ。
だから、忘れようとした。
だがそんな些細なことにすら看守は気付くようだ。貪るように何体もの吸魂鬼がやって来ての身体から確かに何かを吸い取っていった。狂ったような悲鳴をあげたことはぼんやりと覚えている。何人もの叫びを聞いた。緑色の…閃光…。
だから、忘れようとした。死んだんだ。彼は、この冷え切った監獄で死んでしまった。そう思うことでしか、自分を護れなかった。
「すまなかった、本当にすまなかった。だがお陰で無事犯人は判明した…」
数ヵ月後慌てた様子でやって来たファッジの言葉など、の耳には届かなかった。忘れてしまった、何もかも。
そうしては、ホグワーツに舞い戻った。