クリスマス休暇に城に残る生徒はほとんどいなかった。誰もがスリザリンの継承者から逃れようと雪崩のようにホグワーツ特急に乗り込んだのだ。そしては休暇の夜を全て城中を隈なく歩いて回るのに使った。お陰で随分と寝不足だったがそれもセブルスの調合してくれた薬で補う。

 だがバジリスクは、堅い沈黙を守っていた。一つ一つ丁寧に回った教室、階段、廊下、隠し部屋…。時には蛇語を呟いて呼びかけてみたりもした。だが秘密の部屋が開くことは、なかった。

「どうして!どこにあるの…秘密の部屋は、一体どこに!」

 私には開くことが出来るだろうと、確かにそう言ったのに。叩きつけた拳は壁を軋ませただけで在りもしない部屋を思ってはその場に崩れ落ちる。最後の、隠された小部屋だった。行き詰って、蹲って。杖先に灯した明かりを消すと辺りはすぐに真っ暗になった。

 薬学のことは、全てセブルスに任せていた。休暇が明ければ嫌でもまた教職に戻らねばならない。せめて離れられるうちに秘密の部屋への糸口を見つけだしておく必要があったのだ。それなのに、何一つ掴めないままに。

 何を試みたのかは結局分からず仕舞いだが、数日前からはグレンジャーが医務室に入院している。ポンフリーによればポリジュース薬を動物の毛に使ったようで回復まではしばらくかかるということだった。そこまでの過程はうまくいったのかと訊ねると、失敗は猫の毛を使ったというところだけという話だ。まったくとんでもない2年生だと肩を竦めてみせた。条件をつけてあの材料を渡したのも、まさか調合に成功するとは思っていなかったからだ。ハリーとウィーズリーが医務室に運び込まれなかったということは2人の変身は成功したのだろう。材料は3人分だった。

「…申し訳ありません。休暇中には、部屋を見つけることは出来ませんでした」

 休みが明けるとはダンブルドアにひとまずクリスマス休暇の成果を報告したが、ダンブルドアは静かに「これからも授業の合間を縫って引き続き調査を進めて欲しい」と言っただけだった。もそれ以上は何も言わず、黙って校長室を後にする。それから何の成果もあげられないまま月日は流れ、淡い陽光がホグワーツを照らす季節が巡ってきた。2月だ。フィンチ−フレッチリーとほとんど首なしニックの事件以来城では誰も襲われていなかったが、だからといって調査の手を緩めるわけにはいかない。はそれこそ毎晩のように何度も何度も城中を歩き回った。それなのにまだ、一度も怪物の声すら聞いていない。もう秘密の部屋は完全に沈黙してしまったのだろうか?まさか。帝王がこんなところで立ち止まったりするものか。必ず、この先も動きがあるはずだ。

 スプラウトはマンドレイクが思春期に入ったといって大喜びだった。も手伝いたいのは山々だが秘密の部屋の探索で手一杯だったので可能な範囲でセブルスが手を貸している。こうして魔法薬学と薬草学は互いに関わり合い、それは互いの利益のためだ。

 ただでさえ疲れ切ったの身体を殊更疲弊させるのは、訳知り顔のロックハートだった。

先生、きっともう厄介なことは起こらないでしょうね。犯人は私に捕まるのは時間の問題だと観念したのでしょう。私にコテンパンにやられる前にきっぱりやめたというのは、なかなか利口ですな!」

 いい加減にしろ、と鼻面を殴らないのは大人としての理性が働いているからだ。感情をそのまま拳に込めるのは子供のすることだと知っている。だからこそセブルスとジェームズたちの争いは止まなかったのだ。

「今学校に必要なのは気分を盛り上げることですよ。先学期の嫌な思い出を一掃しましょう!今はこれ以上申し上げませんが、まさにこれだ、という考えがあるんですよ…」

 ロックハートの言う気分の盛り上げ方≠ヘ2月14日の朝食時に明らかになった。いつものようにセブルスと上がった大広間は壁という壁がけばけばしい大きなピンクの花で覆われ、おまけに淡いブルーの天井からはハート型の紙吹雪が舞っている。あからさまに吐き気を催したような顔をしたセブルスの隣で唖然と口を開くに、部屋の飾りにマッチしたピンク色のローブを着たロックハートが上座のテーブルからやって来てその右手を差し出してきた。わけが分からずは瞬き、それぞれの長テーブルに着いたまま僻むようにこちらを見ている女子生徒に気付いて睨み返すと生徒たちは呆気なく目を逸らす。

「スネイプ先生、先生!ハッピーバレンタイン!さあ、先生、お席までご一緒させて頂けますか。お手をどうぞ」

「…はい?」

 思い切り顔を顰めてはセブルスを見たが、彼は付き合いきれないとばかりに鼻を鳴らしてさっさと一人で行ってしまった。薄情者と言ってみたところで彼に情を求めるのがそもそも間違っているのだろう。

「結構です」

 あっさりと言い放ちはロックハートの脇を通り抜けてテーブルに着こうとしたが、すぐさま進路を塞がれて相手の白い歯が閃く。滲み出る嫌悪感はきっと隠し切れまい。また斜め前へと足を踏み出してもその先に移動されて堂々巡りだ。自分よりも若い同僚がいれば押し付けるのだがこれでも年齢からすれば最年少だったので(無論ロックハートよりは年上だ)たとえ経歴から言えば後輩だとしても年上にこんなものを押し付けるわけにはいかない。うんざりと息を吐き、はまた斜め前に足を進める。誰も助けてはくれない。セブルスなど既に食事を進めているほどだ。

「…いい加減にして頂けますか。朝食くらい、自由にゆっくり食べさせて下さい」

「まあ、先生。そう仰らずにこんな日くらいは素直になってみては如何ですか」

「…はい?」

 勘違いも大概にしてくれ。深く溜め息を吐きさらに一歩踏み出したの腕を、ロックハートの右手が掴んだ。

 全身をほんの一瞬で駆け巡ったもの。例えるならば、燃え盛る蛇。それでいて一切の熱を持たない。は異常とも言えるほど過剰にその手を払い除けて後ずさった。ぱしんと乾いた音がして、ただでさえ興味深そうに見ていた生徒たちの目が釘付けになる。無関心を装って黙々と朝食を口に運んでいた教師たちも驚いた風に顔を上げた。ロックハートまでも唖然としてを見ている。彼女はふいを顔を逸らして今度こそ彼の脇をすり抜けて自分の席に着いた。セブルスが咎めるようにして少しだけ首を傾けてみせる。

 ロックハートの手を凄まじい勢いで弾いた訳は自分でよく分かっていた。左腕だったのだ。目には見えないとしてもそれはいつだって自分の皮膚に刻み込まれて決して消えやしない。誓ったのだ、永遠の忠誠を。それがどういうことなのか、気付くのには時間を要した。

(決して消えない。決して…)

 ロックハートが気を取り直した風に元気よく生徒たちに呼びかけるのを遠くに聞いたような気がした。愛の妙薬…魅惑の呪文…そんなものはもう、この世から一切合切消えてしまえばいい。







 ロックハートの準備したという小人は一日中教室に乱入して生徒にバレンタインカードを配ろうとしたので、その都度とセブルスは杖を振って完全に小人を教室から追い出し、内側から鍵をかけた。それでもしつこくドンドンと扉を叩く小人などもいたため入り口には防音の魔法をかけ、そわそわした様子の女子生徒には容赦なく減点通告を与える。やっと全ての授業を終えた頃にはくたくたで、スプラウトのオフィスに向かう足取りは随分と重い。目の前に立ち塞がったのは、そうした張本人であるロックハートだ。は溜め息を吐くのも気だるく唇を歪めてみせる。

「…御機嫌よう、ロックハート先生」

 階段の途中だったは見上げる形でロックハートを見るが、彼は顎を引いて誇らしげに微笑みながら上目遣いにへと右手を伸ばす。意味を量りかねるとばかりに小さく首を傾げてみせ、両手は胸元の書類を抱え込んだままさらりをかわして階段を上がった。上の廊下に足を乗せたはロックハートの横に並び軽く首を捻って相手を見据える。彼もまた余裕すら感じさせる笑みでを見返した。腹の探り合いとも取れるが別段ロックハートの心中を思いたいわけでもない。早くスプラウトのオフィスで仕事を終わらせて休みたいのだ。今夜もまた秘密の部屋を探して城内を一から辿り直す。部屋は、必ずあるのだ。それならば見つけなければならない。私にしか出来ないのだから。

「ずっと考えていたのですよ。先生、あなたのことを」

 ロックハートの声はいつもの調子だ。自らの武勇伝を語る時のそれと何ら変わりはない。それがたとえ真実だろうとそんなことは関係ない。私が、信じないのだから。

 呆れて息を吐いたの視線の先にロックハートの腕が伸びてきて壁に手のひらをつく。そこに重心を預けるように身体を傾けていく。必然的にまた彼の姿を見ることになった。は眉根を寄せてそれを疎ましげに見る。

「初めて出会った時の、そう、あなたの瞳の色を覚えていますよ。とても、美しかった。それが今では私をまともに見ても下さらない…随分と考えましたよ。ですがそれは、分かってしまえば呆気ないものです。あなたはセブルスと噂されているようですが、生徒たちの目を気にしてのことでしょう、私を避けるようになさるのは。分かりますよ、私はセブルスとは違う。私にはこの城の外にも五万と愛すべきファンがいますからね」

 言いながら嘆かわしそうに、それでいて恍惚とした表情を浮かべてロックハートが頭を振る。私とセブルスとは、違う、だって?

 ロックハートは自分に酔い痴れたように滑らかに言葉を続けていく。

「ですが先生、あなたのお気持ちはよく分かりました。それならば私にも用意がありますよ。如何ですか、今日くらいは二人で職務を全て忘れてしまってもダンブルドアならお許し下さることでしょう。何しろ彼は時に随分と粋なことをなさいますからね」

「これからスプラウト教授と仕事がありますので。失礼します」

 この程度で限界を迎えるほどは自制が効かない人間ではない。だが間違いにこんな現場を生徒にでも見られたらばつが悪いし不本意だ。ロックハートの腕を払い除けてスプラウトのオフィスへと足を進めたが、彼はしつこく傍にぴたりと張り付いてあなたの本心は分かっているのだとか、今日という日は神が与え給うた年に一度の素晴らしい日なのだとか、そういった下らない話を繰り返した。スプラウトのオフィスまではもう少しだ。とうとう辿り着いた扉の前で、ぴたりと足を止めたはふうと息を吐いて物憂げにロックハートを見る。彼の表情は変わらず自信に満ちている。そうまるで、思い込んだ子供のよう。

「あなたとセブルスが、違うですって?」

 思いの外、喉から飛び出した声は低かった。それを感じ取ったらしいロックハートも笑みを薄めて僅かに開いた目でを見る。きつく握り締めたドアノブは無機質に冷たいばかりだ。それなのになぜか手のひらは不快に汗ばむ。

「当たり前でしょう。あなたにセブルスの何が分かるの。私の何が分かるというの。訳知り顔のあなたを見ているとそれだけで反吐が出るわ」

 扉に向き直ってドアノブを回したに彼の顔は見えなかったが、瞼の裏で想像できるその間抜けな顔は自慢げなそれよりはまだ好感が持てる。

「私は誰も、愛さない」

 疼いたのは左腕ばかりではない。あの冬の日の薔薇を思って唇を噛んだ。ノックもせずに入ってきたをデスクに着いたスプラウトは咎める風に見上げたが、すぐに気を取り直したように立ち上がって快く彼女を受け入れた。後ろ手にドアを閉め、は手元の書類をひとまずスプラウトに渡す。それから彼女の手にあるそれの二枚目を捲って頼みたい薬草を一つずつ並べていく。

「ところで今、ロックハート先生の声がしたように思いましたけど。まさか付き纏われているのではないでしょうね」

 三枚目を捲ったは少しだけ首を傾けてスプラウトの訝しげな顔を見た。唇の端を持ち上げて鼻の奥から抜けるような音を出す。

「そんなものに動じるような可愛らしい年齢ではありませんよ」

 スプラウトも呆れたように笑い材料リストに視線を戻したが、やはりその笑みの作り方は自分のそれとは随分違う。彼女は快活な女性だった。年をとれば自分もこう在りたいなどと思えるほど、先のことに期待はしていない。は意味もなく喉の奥で密やかに笑った。