「手を出すな、去れ!」
全身からさーっと潮のように血の気が引いていくのを感じる。ハッフルパフの2年生、フィンチ−フレッチリーが憤慨して大広間を飛び出してからようやく我に返り、が杖を振るとドラコの出した蛇はポッと黒い煙を上げて消え去った。しばらくハリーを見ていたセブルスの鋭い眼がこちらを向いて眉を顰める。その場にいるほとんど全員がハリーを遠巻きに見つめて不吉そうにひそひそ囁き合った。学生時代ダンブルドアに諭された言葉を思い出す。
『人とは異なる強い力というものは…あまり、喜ばれん』
あの時周りの友人たちに蛇語の能力のことを知られていたら、自分も同じような目で見られていたのだろう。
ウィーズリーに連れられてハリーやグレンジャーが大広間を出て行くと、わっと恐怖の声があがって大混乱が起こった。ロックハートの「お静かに!皆さんお静かに!」もまったく効果を為さない。は去年のハロウィンパーティのダンブルドアのように紫の爆竹を数発鳴らしてやっと生徒たちを黙らせた。
「落ち着きなさい!決闘クラブは中断します!下らない噂話を広めて余計な不安を煽らないように!各自寮に戻って今日は早く寝なさい、以上」
はきびきびとそれだけを言って、おろおろと辺りを見回すばかりで動かないロックハートやざわつく生徒たちを置き去りにしてセブルスと大広間を後にした。ハリーが、パーセルマウスだった。
「…確かに、蛇語だったのか」
ダンブルドアの部屋の前、ガーゴイル像に差し掛かった頃セブルスがほとんど吐息のような声で囁いた。は僅かに顎を引いただけで詳しくは語らず、レモンキャンディーと唱えて現れた螺旋階段の上に足を乗せる。セブルスもすぐさまそれに倣い、後ろで壁がドシンと閉じると2人はクルクルと螺旋状に上へ上へと運ばれていった。
「どういうことでしょう。スリザリンの最後の子孫は私です。もちろん彼は私と血の繋がりはありません。ですが彼は確かに…」
ダンブルドアは僅かに目を開いたがそこまで意外だった風でもない。そのことに拍子抜けしながら彼の言葉を待った。セブルスはいつものようにに足りないものを補うだけだ。
「これは、わしの推測じゃが。あやつがハリーにあの額の傷を負わせた夜、あやつは自分の力の一部をあの子に移してしまったのじゃろう。その一つが蛇語を話す能力ではないかと思う。それならば例の晩、彼だけが聞いたという不吉な声の話も説明がつく」
「つまり秘密の部屋の怪物は…蛇の類、と?」
「ああ…考えが足りんかったのじゃ。サラザール・スリザリンの後継者だけが操れる怪物…ともなればパーセルマウスだけが語りかけられるものじゃと思いつくのが自然だというのに!」
ダンブルドアは合わせた手のひらに額を押し当てて疲れたように首を振る。それを遮る風にしてセブルスは自らの頭の中にあるページを慎重に捲っていく。蛇であるが蛇でない、生き物を石化させる能力を持った怪物…。
「メデューサ…バジリスク…」
「メデューサは創始者が生まれるよりずっと昔に殺されたという。可能性として残るのは、バジリスクじゃのう」
「…バジリスク。ですがバジリスクは、かなりの大蛇なのでは?そんなものが城内を這っていれば既に目撃されているはずです。それにバジリスクの一睨みは、どんな生き物をも殺します。猫もグリフィンドール生も、死んではいません。彼らは回復します」
手のひらから顔を上げ、鋭い眼差しで机上を見つめていたダンブルドアがを見上げて静かに問う。
「先日、ハグリッドの鶏が殺されたと言っておったのう?」
「は…?あ、はい」
意図が分からず眉を顰めたが、その直後に理解しては小さく声をあげる。そうか、バジリスクの致命的な欠点は、…。
浅く頷いて、ダンブルドアは続ける。
「そう考えると、いくつかの説明はつく。そのような怪物がこの城の一体どこに潜んでいるのか、あやつがどうやってそれを操っておるのか…分からぬことはまだ多い。じゃがもしも我々の推測が正しければ…早急に、策を講じる必要がある」
「どうすれば…良い、でしょう」
縋るように言ったのは間違いだったろうと思う。分かりきっているのだ。ダンブルドアの青い瞳が瞬きもせずにを見る。セブルスの熱を持たない視線までもがこちらを向くのを感じた。
「、君しか頼みの綱はない。君のパーセルマウスとしての能力で、一刻も早く秘密の部屋を見つけ出して欲しい」
『お前なら、秘密の部屋を開けることが出来たかもしれないな』
帝王の冷え切った残忍さを帯びた声が、重なる。思わず塞いだ視界を押し広げて、はふらつく頭を軽く振ってから小さく頷いた。秘密の部屋を開けた張本人が、私にならそれが可能だろうと言ったのだ。それこそがきっと最も確実な根拠になる。
ダンブルドアの眼が僅かに不安げに揺れた。
「但し、もしも怪物のものらしき声を聞けば…その時はすぐに、足元を見るように。君に頼むのは秘密の部屋の場所を突き止めること、だけじゃ。必要以上に怪物には近付かぬよう。そして一刻も早くわしに報告すること。いいかね、約束しておくれ」
「…ニック」
グリフィンドール塔に住むゴーストの石化は生徒ばかりでなく教職員の不安も殊更に煽った。ゴーストに危害を加えることができる何かなんて容易に考え付くまい。バジリスクはそれすらも可能なのだとは黒く煤けたほとんど首なしニックを見つめて身震いした。そっと伸ばした手はやはり彼に触れることはなく突き抜けたが、ただ通り抜ける時のそれよりも随分と冷え切っているように思う。フィンチ−フレッチリーは医務室に運ばれたがクリービーと同じように石になったまま動かない。
ほとんど全ての生徒たちはハリーをスリザリンの継承者だと信じ込んでいるようだった。まず最初に、彼の嫌うフィルチの猫が襲われた(尤も、フィルチやミセス・ノリスが大好きなどという人間はこの城にはあまりいないだろう)。そして追っかけのクリービー。次は決闘クラブで揉め事のあったフィンチ−フレッチリーだ。まるで彼を犯人に仕立て上げるかのように事は進んでいく。もしも本当にそうだとすれば次の犠牲者の目星をつけることは可能だろうが、今のところ思い当たる人物は浮かばない。
早く、秘密の部屋を見つけなければ。だが一体、どうやって。はハリーの聞いたと思われる声を、一度も聞いたことがない。
はニックが煽り上げられた最上階の階段にしばらくそうして黙って座り込んでいた。カーテンのようなものを周囲に張って生徒たちが立ち入らないようにしてある。ニックの首は半分ほど落ちかけ、その顔には凍りつくような恐怖の表情が浮かんでいた。
「…ねえ、何を見たの。本当に…バジリスク、なの?それはどっちに…行った?」
答えなど返ってくるはずもなく、はニックの虚ろな眼から視線を外して深く息を吐く。彼は必要とされる時にはどこからともなく現れるという思いやりを持ち、遠ざけておきたいと思う時には決して近付かないという配慮を持っている。だからこそこの10年、彼は一度もに近付いてこなかった。グリフィンドールの思い出は極力忘れたかったのだ。ニックはそれを感じ取って彼女に声をかけることすらしない。自身もそれには気が付いた。
(…まったく、どうしてグリフィンドール生はどいつもこいつも、こういう…)
嘲るように唇の端を持ち上げてみせたが、零れ落ちたのは意に反して一筋の涙だ。座り込んだ膝を抱えてきつく瞼を閉じるが眼の奥は熱く焼け付いて思考を鈍らせる。
『あなたは確かに、生きているのですよ』
分かってる。分かってるよ。私は 死ねない。
帝王の息の根を止めるまでは、どうしても死ねない。
「…私が見つけないと、ね」
言い聞かせるように呟いて、重たい腰を上げる。薄暗いカーテンはニックを隠すばかりではない。自分の涙を見ればきっと生徒たちは引っ繰り返るだろうと喉の奥で自嘲気味に笑ってみせた。クリスマスは、近い。