ルシウスからの一通の手紙は、とセブルスを不安にさせるに十分だった。いつものようにつらつらと屋敷への誘いを認めた後、さり気ない一文で、こうある。
『今年はきっと、退屈しないだろう』
何か意図をこめてのことなのか、それとも無意味な極り文句の一つか。それにしてはこの10年で初めて見る文章であり、とセブルスはしばらくその手紙を挟んでじっと頭を捻っていたが、それだけで結論が出るはずもなくようやく諦めてセブルスがそれを仕舞った。
「去年も十分退屈はしなかったけどね」
皮肉雑じりのの呟きを、セブルスはコーヒーを口に運ぶことで無視した。
今年は退屈しまい≠ニいうルシウスの言葉を体現したように、事は新学期初日から始まった。まさかこのような事態をルシウスが予測していたとは思えないが、恐らく彼は喜んでこの事件を取り上げるだろう。何しろマグル寄りの純血で、おまけに噂によるとここのところかつての闇の魔法使いの家々を抜き打ち調査している、つまりルシウスの天敵、アーサー・ウィーズリーの息子がどこぞの誰かが♂造した車に乗ってハリー・ポッターと一緒に派手にホグワーツへご登場してくれたわけなのだから。
その日、は夕刊に気になる記事を見つけた。だがまさかホグワーツ生が関わっていようなどと考えもつかない。白昼堂々マグルの街で車を飛ばすなんて馬鹿な魔法使いがいるものだと、他人事のように思ってすぐに新聞を閉じた。
ハリーとウィーズリーがホグワーツ特急に乗っていなかったと聞いたのは、宴会前にハグリッドの口からだ。とセブルスは玄関ホールで足を止め、ハグリッドを先に大広間に行かせてから城の外に出た。ハリーとウィーズリーの不在と、空飛ぶフォード・アングリアを即座に結びつけたセブルスには感心する。
「ハリーとウィーズリーが空飛ぶ車で?まさか」
は訝しげに眉を顰めてみせたが、セブルスは断固とした口調で言ってのける。頑なな彼の様子はやはりジェームズの息子に対するそれだ。
「何しろご立派なあの男の息子だ。その程度のことはしかねん」
「…思い込みが過ぎるわよ。第一そんなもの、あの子がどこで手に入れるというの」
「本人に訊けばはっきりするだろう。奴らがフォード・アングリアを飛ばしてきたということは、敷地内にそれが残されている可能性がある。手分けをして探すぞ。お前は向こうに行け。俺はあっちを探す」
「…そんな、無茶苦茶な」
は大袈裟に息を吐いてみせるが、こうなったセブルスには従うしかない。どうせ組み分けの儀式などつまらないものだ。時間潰しには夜の散歩くらいがちょうどいいと呟いて、はセブルスに示された方角へと気だるげに足を進めた。月はまだ、随分と細い。
懐から取り出した杖を軽く振り、先に明るい光を灯して足元を照らした。草の茂った傾斜の緩い坂を下り、遠い昔に辿った道のりを思い出す。暴れ柳へ続く長い道だった。この道を歩くリーマスの足取りはどれだけ重かったろうと考えたところで所詮は推測に過ぎない。私は、リーマスじゃ、ない。
自分たちの入学とともに植えられた、いわば同期生の暴れ柳を少し離れたところから見上げては目を開いた。大抵は近付いたり攻撃してきたりする何かがない限り、柳は大人しくしているものだ。シリウスの悪戯心が誘い込んだここでセブルスが死に掛けたという事件は私たちの心に大きな影を落とし、そして同時にそれを乗り越えた時にこそ本当の幸せを見つけたように思った。
(…本当の、幸せ、…)
今となってはそんなもの、ただの幻にしか過ぎなかったわけだが。
その巨木が、威嚇するように太い枝を振り回している。はルーモス呪文の効果をさらに上げて周囲を広く見渡したが、それらしい何かは見当たらない。何が起こったのかとは少しずつ暴れ柳へと近付いていったが、そこで足元に残るタイヤの跡に気付いてはっとした。それは延々と、禁じられた森の方へと続いている。
疲れたように息を吐き、は杖を置いて蛇の姿に身を落とす。それから暴れ回る柳の枝を掻い潜って根元まで這い、そこにある大きなコブを顔で突いた。一瞬で、スイッチでも切れたかのように暴れ柳は大人しく枝を垂れる。その間に人間の姿に戻って大急ぎで巨木の細部をチェックして回った。太い幹には抉れたような傷があり、枝も折れているものが多い。フォード・アングリアはこの木に突っ込んでそのまま森へと逃げたようだ。それならばきっと乗り手はもう城に向かっているだろう。はまた溜め息を吐いてからきびきびと元来た道を引き返した。それから玄関ホールを横切って真っ直ぐに地下へ戻る。案の定、研究室の中からはセブルスの苛立たしい声が聞こえた。
「黙れ!」
取っ手にかけた手をそのままに、はセブルスの説教をドア越しに傾聴する。彼の鼻息までも鮮明に聞き取れるように感じたのはそれほど地下が静かだったせいだ。
「あの車はどう片付けた」
ウィーズリーが息を飲むように聞こえたのは恐らく想像の中だけに違いない。が扉の前でじっとしている間に、セブルスは朗々と夕刊の一面記事を読み上げた。
「空飛ぶフォード・アングリア、訝るマグル ロンドンで2人のマグルが郵便局のタワー上を中古のアングリアが飛んでいるのを見たと断言した…今日の昼頃、ノーフォークのヘティ・ベイリス夫人は洗濯物を干している時…ピーブルズのアンガス・フリート氏は警察に通報した…全部で6、7人のマグルが…ほう、ほう、確か、君の父親はマグル製品不正使用取締局にお勤めでしたな?」
今度こそウィーズリーがヒッと小さく悲鳴をあげるのが聞こえた。ふうと息を吐き、ようやくはドアを押し開けて研究室の中へと足を踏み入れる。セブルスは僅かに顔を上げて彼女を見たが、ウィーズリーもハリーも恐れのあまりか硬直したままこちらを振り向きもしなかった。
「教授、中庭の調査が終了しました。お探しのフォード・アングリアですが、タイヤ痕から察するに禁じられた森の方へと逃げたようですね」
「ほう…なるほど。ご苦労でしたな、助教授。他に何か気になる点は」
「ええ、私の調査によりますと、非常に貴重な暴れ柳が相当な被害を受けた様子です」
「あの木より、僕らの方がもっと被害を受けました 」
ウィーズリーが思わずといった調子で声をあげたが、セブルスは憤りも極まったように「黙れ!」と怒鳴りつけて勢いよく立ち上がった。握り締めた夕刊をデスクに叩きつけ、イライラと続ける。
「まことに残念至極だがお前たちは我輩の寮でないからして、2人の退校処分は我輩の決定するところではない。これからその幸運な決定権を持つ人物を連れてくる故ここで大人しく待つように」
「教授、それなら私が」
「いや…我輩が行く。お前はここに残っていろ」
が動きかけたが、ハリーとウィーズリーの脇を通って大股で歩いてきたセブルスはそれを遮って首を振る。大人しく従って彼を送り出してから、は後ろの壁に軽く凭れ掛かって2人のグリフィンドール生の後ろ姿を冷ややかに見つめた。
どこで空飛ぶ車を手に入れたかは知らないが、これだけのことを仕出かしたのだから処分は免れまい。ここまでの愚か者だとは露も思わずひどく落胆した。ジェームズも派手なことをするのは好きだったが、それにしても越えてはならない一線というものがある。この2人はそれを呆気なく破った。退学処分…それも、いいかもしれない。護りの魔法に囲まれてマグルとして生きる方が彼にとってもひょっとして。
ふと振り向いたハリーの眼が、探るようにを見て細くなった。眉を顰め、は組んだ腕を解いて壁から背を浮かす。
「何か言いたいことでもあるの?」
「…いいえ」
すぐさま視線を逸らしてまた前を向く彼の態度は随分と挑戦的だ。気に入らない。嫌味の一つでも言ってやろうと口を開いた時、ちょうど研究室のドアが開いてマクゴナガルが一人で戻ってきた。
かつての寮監がここまで怒っているのをは見たことがなかった。フィルチに叩き起こされた時も、懲りずに悪戯を繰り返すジェームズたちを叱る時もここまで唇を引き結んだことはないし、がダンブルドアに杖を向けた時は憤りというよりも衝撃の方がひどくて随分と青ざめていたのを覚えている。マクゴナガルはドアを閉めるなり取り出した杖を振り上げたが、冷え切った暖炉に火を入れただけだった。
「お掛けなさい」
をちらりと見てから、マクゴナガルはハリーとウィーズリーに傍のソファに座るよう促した。2人は後ずさって腰掛け、説明なさいとマクゴナガルは眼鏡を押し上げて厳しく問い詰める。ウィーズリーは項垂れて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「…だから僕たち、他に方法がありませんでした。先生、僕たち汽車に乗れなかったんです」
「それならばなぜふくろう便を送らなかったのですか。あなたはふくろうをお持ちでしょう」
マクゴナガルがハリーに向けて冷たく問い掛けると、彼はポカンと口を開けて茫然とマクゴナガルを見た。それから慌てた様子でぼそぼそと言う。
「ぼ、僕…思いつきもしなくて…」
「考えることもしなかったでしょうとも」
マクゴナガルの言葉に覆い被せるようにして、もまた冷ややかに言いやる。
「柵があなたたちを跳ね飛ばしたというのも…何しろ、前例がありませんからね」
信用できない≠ニ鼻を鳴らすをぱっと顔を上げてハリーとウィーズリーは憎々しげに見たが、ちょうどその時ドアをノックしてセブルスとダンブルドアが現れた。さすがのダンブルドアもこの時ばかりは深刻な表情で、随分と長い沈黙を挟んでからやっと徐に口を開いた。
「どうしてこんなことをしたのか、説明してくれるかのう」
ハリーが話し出すまでもまた、長い時間がかかった。ダンブルドアの失望に似た声は向けられた人間を十分に落ち込ませる。それだけで立派な罰なのかもしれないとは頭の隅でぼんやりと思った。死喰い人になったが自分のところに戻ってきた時も彼女に死の呪いを向けられようとした時もダンブルドアがこんな眼をしなかったのはきっと、母に対する罪の意識にずっと苛まれていたせいだろう。彼の失望を買わずに済んだのは幸運といえるかもしれないが、手放しで喜ぶわけにはいかない。
話を全て聞き終えたダンブルドアは、彼らを退校処分にはしないと告げた。クリスマスがお預けにでもなったかのような顔をしたセブルスが(彼がクリスマスを心待ちにするような人間でないということは百も承知だ)不満げに反論しようとしたものの、結局のところ彼らの処分を決めるのは寮監のマクゴナガルだ。とセブルスはダンブルドアに連れられて歓迎会へと上がったが、セブルスは終始不機嫌だった。ハリーを退校処分にできると期待していたのだから当然だ。そしてもまた肩を落とす自分に気付く。
あの子の顔を見ないで済む日々が近付いた気がしたのに。そうそううまくはいかないということか。やはり陽気に自らの武勇伝を語るロックハートを陰険な一瞥で黙らせ、セブルスは刺々しい雰囲気で残り少ない食事を口に運んでいた。ロックハートを熱い眼差しで見つめていた女子生徒たちが信じられないといった様子でセブルスを睨み付けているのはきっと気のせいではなかろう。
宴会を終えて戻った研究室には、デスクの上に大きな皿が一つとゴブレットが二つ、かぼちゃジュースのボトルがあるばかりで暖炉の火も消えている。絶好の機会を逃したものだと舌打ちしたセブルスが、杖を一振りしてあのグリフィンドール生が食べたと思われる残骸をあっという間に消し去った。
もしもこの日マクゴナガルが2人を退学処分にしてくれていたら、私の、いやここにいるあらゆる人間の人生も大きく変わっていたのだろうと思う。けれど私は彼女がそうしないことを知っているし、きっとダンブルドアも同じようにしたに違いない。