何か怪しげな闇の道具でも置き去りにされているのかもしれない。実際のところそれは大いに有り得ることで、主人を失ったクィリナスのオフィスは夏季休暇に入って生徒が全員帰宅してからが整理と片付けとを済ませた。
けれど彼の部屋に残されていたのは大量の蔵書(とは言っても一教師の所有物など高が知れているが)と、おおよそ闇の魔術に対する防衛術の教授としては不自然でない程度の道具だけだ。セブルスにも頼んでそれら全てを念入りにチェックし蔵書はそのまま図書館に寄贈、異常の出なかった闇魔法探知の道具は専門の店に引き取ってもらった。
それ以外の私物はほとんど全て森の外れで処分した。それらを貰い受ける身内や恋人はクィリナスにはいなかったのだ。尤も、そんなものがいたとすれば彼が身も心も帝王に明け渡してしまうことはなかったろうと思う。
ほとんど全て、というのはそのごく一部をが私室に持ち帰ったせいだ。何のためにとセブルスは訝ったが、口出しをしないで欲しいとだけ言って彼に背を向けた。持ち帰ったのは引き出しの奥底で埃を被っていた何枚かの写真だ。研修旅行中のものと思われる風景写真が十数枚と、学生時代の彼が友人たちとこちらに向かって手を振るものが数枚。概して人気者だったクィリナスだが、本当に仲の良い友人は少なかったようだ。
もしも私が、そのうちの一人になってあげられていたら。きっと引き戻すことができたはずだ。もっと早くに、気付いてあげられていたら。
過去を悔やむためではない。この先揺らぎそうになった決意を再び固めるためのそれだ。は比較的新しい写真と随分古びたものとを鏡台についた引き出しの底に仕舞った。
ギルデロイ・ロックハートという名を知っていること自体には何ら落ち度はないだろう。つまらない雑誌でも発行部数の多いものの表紙を飾れば少なからず話題にはなるし、片田舎の本屋にすら数冊はその著書がある。そうそう古いものでもないのにビアズリーズの棚に並んでいるのを見て、は話題の書籍を読むのも無駄ではなかろうと数ヶ月前に『バンパイアとバッチリ船旅』を購入した。
物語としては面白い部類に入ると思う。文章の書き方もそう下手ではない。だが表紙を飾る魔法使いの無駄に輝く白い歯を見ると少なからず寒気を覚えたので表紙はブックカバーで隠した。ハンサムな異性を見て胸をときめかせるような年代はとっくに通り越したのだ。もしくは自分の心が感動を忘れたのかもしれない。そんなものは必要ないと自分に言い聞かせるように呟いて、はさっさとその本をビアズリーズに売り直した。自分で売ったものを再び売り返されても素直にそれを引き取ったのはきっと今を時めくロックハートの著書だったせいだろう。がその後彼の本を買うことはなかった。
そのロックハートがクィリナスの後任になるという手紙をダンブルドアから受け取ったのは、セブルスと隠れ家に戻って僅か2日後のことだ。セブルスを自分の懐で不機嫌にさせたくないのかもしれないとは喉の奥で笑ったが、彼はクィリナスが闇の魔術に対する防衛術の教官に就いた時よりも随分と落ち着いた調子で小馬鹿にするように(尤もこれはセブルスお得意の表情なわけだが)鼻を鳴らした。
「あんな人間を雇うとは…ダンブルドアはいよいよ俺をあの科目に就かせたくないらしい」
ホグワーツからの長い道のりをきっと休みも挟まずに飛んできたのだろう。ダンブルドアが送りつけてくるこのふくろうにはそういった生真面目さがあるように思われる。くたびれた様子で窓枠にしがみ付いたふくろうに水と餌を少しやってからはセブルスの向かいに腰を下ろした。ソファの上でうとうとしていたは突然の来訪者にカチカチと嘴を鳴らして威嚇するように飛び跳ねる。
「そんなこと、とっくの昔に分かってるでしょう。それとも10年くらいじゃまだ気付いてなかったわけ?」
セブルスは答えずにダンブルドアからの手紙をテーブルの上に放り出す。
「それにロックハートなら、まあ許容範囲内の人選なんじゃない?この10年…いえ、20年って言ってもいいわね。ともかく使えそうな人間はほとんどいなかった」
学生時代に闇の魔術に対する防衛術の教授を使えない≠ニ思ったことはない。だが卒業してから直に闇の魔術に触れて、思考は一気に塗り替えられた。あんなもの、いくらメモを取ってみたところでほとんど意味などない。ただ試験を乗り越えるためだけの勉強だと気付いたのだ。実際その現場に直面して使えなければ無意味だというのに、この10年改善される兆しすら見えなかった。
セブルスの乾いた唇が呆れたように歪む。
「ではお前は、あのロックハートとかいう男が少しは使えそうな人間だとでも言うのか」
「『少しは』、ね。彼の著書を読む限りでは」
「…世間で謳われる数々の業績を、あのような男が為し得たと?」
「私は『少しは』と言ったはずよ」
ゆっくりと繰り返し、は手招きでこの20年ほど生活を共にしてきたふくろうを呼んだ。窓辺で休息するふくろうを攻撃するでもないが疎ましげに睨みながら近付いていったのだ。はまだ恨みがましくもう1羽のふくろうを見ていたが、大人しく主人の指示に従っての腕に飛び乗る。
魔法界の生物はありとあらゆるものが概してマグル界と比べると長生きだ。何度かの死を危惧したこともあるが、その都度体調を崩しただけだと分かった。そしてそれはいつもセブルスの調合した薬ですっかり良くなってしまう。獣医要らずは素直に有り難い。だがさすがにこれだけ一緒にいればあと何回冬を越せるだろうと考えてしまうのだった。きっとそれは自然なことだろう。
愛していると言えるのは、今となってはこのふくろうだけだ。
「ドキュメンタリーとしては怪しいけど、物語としては適度に楽しめるわ。そして虚構だとあっさり切り捨てるにはあまりに具体的すぎる。素敵なお友達≠ェいるのだと考えればただ書物だけを頼りにしてきた数々の教師に比べればまだましだと思うけど」
セブルスは鼻で笑い、から視線を外して窓の方を見る。腹ごしらえを済ませてしばらく羽を休めたふくろうは礼でも言うように軽く頭を下げて開け放った窓から飛んでいった。はまた嘴を鳴らして先ほどのふくろうがいなくなった窓枠に飛び移る。それからあのふくろうが残していった固形フーズを忌々しげに突いた。
「…まあ、この男が少しはましな教師になるかどうかはいずれ分かることだ。尤も、我輩には関係のない話だがな」
「そうかしら。ロックハートが少しは使える教師になればますますあなたのDADA就任は遠ざかるでしょう」
「ダンブルドアがいる限り、叶うとは思っていない」
さすがに10年も経てばセブルスでも諦めるのか。いや、『でも』、というのはおかしい。セブルスはそれを知っていて、かつても嫌というほど味わったのだ。だからこそ胸の深いところで共感できるのを感じる。きっとセブルスも同じことだ。
選び取り、諦め、そしてどちらも永遠に失ってしまった。
忘れていた夏の夜の熱気が、今更の熱を鬱陶しく駆り立てる。ソファの背凭れに身体を預けたセブルスはくすんだ天井を見上げて気だるげに瞼を閉じた。
実体を持たない帝王は自分の手足となる人間がいなければ動けないほどに弱っているということが知れた。そして実体を持たないが故に見つけ出したところで止めを刺すこともできないという。それならばその瞬間を待つしかない。どれだけ歯痒く思ってもそれしか為す術がないのだ。
だがあの予言が為された限り、帝王はいずれ必ずハリーを狙ってやって来る。職もあり当てもなくただ世界中を回ることなど出来るはずもない自分たちは静かにその時を待つ。そして確実に 仕留める。
どうか私たちを、見守っていて下さい。
ハリー・ポッターのホグワーツ2年目が、始まる。