クィリナスの後を追ったハリーは数々の trap を突破して、とうとう最奥の部屋でクィリナスと対面したという。ダンブルドアにふくろう便を送ったのはクィリナス自身で、魔法省に着いた途端それに気付いたダンブルドアが何とか間に合ってハリーを救い出した。あと少し遅ければ、とダンブルドアは身震いしたようだ。
そして、最も驚いたのは。
「…帝王が、クィリナスに寄生してた…?」
「ああ。あのターバンの下に帝王が潜んでいたというわけだ。ダンブルドアの登場で帝王はすぐさま逃亡し、もう何ヶ月も帝王と肉体を共有していたクィレルの身体は分離に耐えられず…奴は、死んだ」
「…死…」
漣のように身体中に鳥肌が立っていくのが分かる。ベッドの中、上半身を起こしたは傍らに腰掛けたセブルスを茫然と見る。寝室のランプは灯っていたがその光量は微かなものだ。セブルスの表情はカーテンのように彼の顔にかかった長い黒髪に隠れて窺えない。
ハリーが殺されかけた。クィリナスが、死んだ。帝王は文字通り自分の目と鼻の先にいたというのに。私は結局、また自分では何もできないまま。
「思い出せ」
物憂げに立ち上がり、セブルスが言った。
「どうしたところで俺たちは完全に向こうの世界から抜け出すことなんてできない。あの頃を思い出せ。こんなことで倒れるようなお前ではなかったはずだ」
それでは果たせるものも果たせなくなる。そう言って部屋を出て行くセブルスの背中がやけに無機質に見えては目を細めた。背筋が、凍りつきそうだ。それを奮い立たせてベッドから起き上がり、傍らのテーブルに置いた分厚い本を手に取った。それから杖を振ってランプの光量を上げ、静かにページを捲る。『吸血鬼の牙の毒性』。
思い出した。初めて出会った時の、彼の笑顔。寮も違うし学年だって違う、私の名前を覚えてくれていた。君のことは誰だって知ってるさ≠ニジェームズはよく笑ったが、それでもあんな風に気持ちよく声をかけてくれた誰かなんて他にはいなかった。
大好きな先輩だった。彼がホグワーツに戻ってきてからも、何かと声をかけてくれた。学生時代のことも、卒業してからのことも面白おかしく語って聞かせてくれた。
この城で唯一の、友人のような存在だったのだ。
それなのに、彼が闇に堕ちるのを止められなかった。帝王のことにもっと早く気付けていたなら、取り返しのつかないことになる前に彼と帝王を引き離せていたかもしれないのに。
クィリナスを死なせた。ハリーの命を危険に晒した。帝王を逃がした。
この1年、どれだけ奮闘してきたことか。それが全て、無に終わった。結局何も、できなかった。
開いたページに、大粒の涙が零れ落ちた。ごめん、ごめんなさい、クィリナス。ごめんなさい、ジェームズ、リリー。次こそは、もうあの子を危険に晒したりは、しないから。
…ごめんなさい。
そして一人でいる時くらいは、涙を流すことを、赦して。
最初マダム・ポンフリーは渋っていたが、彼の無事な姿を見るだけだと言って何とか医務室に入れてもらった。周りを囲んだ白いカーテンをそっと開けて中を覗くと、死んだように眠り続けているハリーが時折布団の中で身じろぐ。顔中至る所に生傷はあったもののそれ以外はいたって元気そうだ。マダムの偉大さを思ってはホッと胸を撫で下ろした。
…この子が、いくら弱っているとはいえ帝王と対決して、そしてまた生き残った…。
3年も死喰い人として帝王の下にいた私は、身動き一つとれなかったというのに。こんな、子供が。
同じ年のジェームズよりも顔立ちは少し幼いように思う。ひょっとしてそれはリリーの瞳だからか。いずれにしても闇の帝王と戦ったこの少年はまだほんの11歳だった。
伸ばしかけた手を、慌てて引っ込める。この手で2人の息子に、触れてはいけない。
マダム・ポンフリーに短く礼を告げて、すぐに医務室を出た。するとそこには中を窺うように覗き込んでいたウィーズリーとグレンジャーがいて、の姿を認めると一瞬で顔を真っ青にして後ずさった。すぐさま逃げ出そうとしたウィーズリーをグレンジャーが引き戻して「こ、こんにちは…先生」と引き攣った愛想笑いをこちらに向けてみせる。
だがは作り笑いすら浮かべず、つかつかと2人の目の前まで歩いていき冷え切った眼差しで彼らを見下ろした。こもった声で、ゆっくりと突き刺すように告げる。
「あなたたちは一体何を考えているの。信じられないわ…どうして我々教員に何の相談もなくあんな危険な真似を。自分たちの力を過剰に評価し過ぎているようね。グリフィンドールは50点減点」
ウィーズリーはガツンと頭を鈍器で殴られたかのような悲惨な顔をしたが、グレンジャーは項垂れて大人しく「…すみませんでした」と呟いた。
「一人50点ずつじゃないことに感謝しなさい。ポッターなら面会謝絶よ。今すぐ寮にお戻りなさい」
ピシャリと言い放ち、2人の脇を通り抜けてはそのまま校長室に向かった。たとえ自分の不甲斐なさが原因の一つだとしても、一言言っておかなければ気がすまない。ダンブルドアは彼女が来ることを予測していたのだろう、穏やかな表情でを迎え入れた。
「先生。今でもあの子に透明マントを渡したことは間違っていなかったとお考えですか」
ダンブルドアは机を挟んで彼女にも椅子を勧めたが、それをあっさりと断って彼に詰め寄る。ダンブルドアは目を細め、静かにの瞳を見返す。その落ち着きが、今はどうしようもなく憎かった。あの子が、死に掛けたというのに。クィリナスが、死んでしまったというのに。
「あんな…危険な状況だったのに。もう少しで彼は死ぬところだったんですよ!もしもクィリナスが彼を殺してしまっていたら…私はリリーに、何と言えば良かったんですか!」
かつての親友の顔が脳裏に浮かび上がり、は溢れそうになった涙を喉の奥で飲み込む。泣かないと、少なくとも誰かの前では泣かないと決めたのだから。自分の言葉すらも守れないのなら、何も護ることなんてできない。
ダンブルドアは初めて、瞼を伏せて机の上で徐に手を組んだ。
「…確かに、わしのしたことはあの子を危険に晒したかもしれぬ。じゃが、望むならばあの子には、あやつと対決する機会を与えたいと思ったのも事実じゃ。そしてあの子はやり遂げた。あやつを挫くことができたのじゃ」
「そんな…それじゃあ先生は、全て分かっていてあの子を導いたと仰るんですか!そんな…ジェームズが、リリーが…命を懸けて護ったあの子を…」
2人は、あの子を護って死んでいったのに。もしもあの子が帝王に殺されてしまったら、2人の命が無駄になる。
立ち上がったダンブルドアが、そっと手を伸ばしての頬に触れる。
「…あの2人の、息子じゃ。逃げることよりも、立ち向かうことを選んだ。それがあの子の誇りでもあり、あの2人の誇りでもあるじゃろうと、わしは思う」
耐え切れなくなった涙が、伏せた瞼を伝って零れ落ちる。
彼の指先から熱を吸い取られ、逃げた過去を咎められているかのように思った。無論彼にはそんな意図は微塵もなかったのだが。
写真を、とハグリッドから頼まれた。ジェームズとリリーの写真を譲ってくれないかと。
「ハリーにアルバムでもプレゼントしてやりたいんだ」
「…写真は全部、家に置いてあるの。手元には1枚もないわ」
力になれなくてごめんなさい、と言ってすぐに別れた。無論彼らとの思い出の写真を渡すつもりは端からなかった。それらは全て自分も一緒に映っているものばかりだ。ジェームズやリリーとの関係はどうしても、ハリーには知られたくない。
賢者の石はダンブルドアが砕いてしまった。1年も護り続けてきたものは呆気なく散った。クィリナスは死んでしまったし、得られたものは何もない。
あまりに色々なことがありすぎた。そしてそれは嵐のように突然去っていく。精神的ストレスによる軽い頭痛を薬で抑え込んで、はセブルスと共に学年度末パーティへと向かった。あれ以来、彼とは石や帝王の話はまったくしていない。あまりに弱くなった自分に失望したのか、何か思うところでもあるのか。
度重なる大量失点が祟ってグリフィンドールはハッフルパフをも下回る最下位に留まった。寮杯獲得は7年連続でスリザリン。だがしかし駆け込みといってダンブルドアがウィーズリーに50点を加点したことは誰にとっても大いなる衝撃だった。スリザリンからはブーイングの嵐だ。それがやっと納まってから、ダンブルドアは続けた。
「次に…ミス・ハーマイオニー・グレンジャーに。火に囲まれながら、冷静な論理を用いて対処したことを称え、グリフィンドールに50点」
チラリと傍らのセブルスを見たが、不満げに顔を顰めてどこを見るでもなく前を向いている。この調子でいけばダンブルドアはハリーにも加点するだろう。着実にスリザリンの得点に近付いてきている。そして自分たちの trap をたった10歳ばかりの子供に突破されたということもまた不快感を増す要因の一つになった。
「3番目は、ミスター・ハリー・ポッター。その完璧な精神力と並外れた勇気を称え、グリフィンドールに60点を与える」
耳を劈く大騒音がスリザリン以外のテーブルから湧き起こった。グリフィンドールとスリザリンがまったくの同点で並んだ。セブルスは忌々しげに小さく舌打ちしたし、ドラコたちが茫然とした表情でポカンと口を開けているのが見える。あまりに口を大きく開けすぎて顎が外れそうになっているものだからは唇に薄く苦笑いを浮かべた。
完璧な精神力と、並外れた勇気…か。どちらも、確かに彼の両親が兼ね備えていたものだ。片手を挙げたダンブルドアが続けて口を開いた。
「勇気にも色々ある。敵に立ち向かっていくのにも大いなる勇気が必要じゃ。しかし、味方の友人に立ち向かっていくにも同じくらいの勇気が要る。そこでわしはミスター・ネビル・ロングボトムに10点を与えたい」
こんなにも大きな歓声があがるのをはホグワーツに就職してから一度も聞いたことがなかった。耳がキンキンと痛くなり、こめかみを押さえて眉根を寄せる。こんな大逆転劇も初めてだ。驚きのあまり青白くなったネビルは周りのグリフィンドール生に抱きつかれて埋もれ、すぐに姿が見えなくなった。
友人に立ち向かう勇気。
そういう意味ではひょっとして、ネビルは私よりも勇敢なグリフィンドール生に相応しいのかもしれないとは思った。
「したがって、飾り付けをちょいと変えねばならんのう」
ダンブルドアが手を叩くと、大広間中のグリーンの垂れ幕が真紅に、銀色が金色へと変化した。巨大なスリザリンの蛇が消え、グリフィンドールのライオンが現れる。今度こそ決定的なセブルスの舌打ちが聞こえてきた。蛇が、いなくなった。
立ち上がったマクゴナガルが寮杯を受け取って厳格さの中にも綻びを作って微笑む。そしてトップから滑り落ちたスリザリンのセブルスと握手してもう一度寮杯を掲げてみせた。グリフィンドール、レイブンクロー、そしてハッフルパフから歓声があがってマクゴナガルは嬉しそうに席に着く。セブルスは苦々しげな作り笑いをあっという間に顔から消し去って苛々と椅子に腰を戻した。
本当に、賑やかな1年だった。ひょっとしてあの子が卒業するまで延々とこんな日々が続くのだとしたら、それはきっと疎ましいには違いないが不幸ではないのだろう。
あの子が無事に、卒業してくれるのならば。
グリフィンドールの寮旗が閃くのを見ているのは、少なくとも不快ではない。やはり私は腐っても獅子寮生なのだとは自嘲気味に笑った。