口で言うのは簡単だが、自分がどれほどに無力なのかを知って愕然とする。一人でふらふらと地下の研究室へと戻ったはそこで彼女を待っていたセブルスを見た途端、あまりに情けなくなって静かに涙を落とした。

「…見つかったのか」

 訝しげに眉を顰めながらもそう問い掛けるセブルスに、何も言えないまま俯いた。ソファにやや弛んだ恰好で座り込んでいたセブルスが立ち上がって歩み寄ってくるのを片手だけで制して首を振る。「どうした」、セブルスが訊いたがそれは答えを期待してのものではない。

 彼女が涙を流すのは疎ましい過去にきつくしがみ付かれている時ばかりだ。彼女はよく分からないタイミングで時々泣いた。

「…何も」

 呟いた彼女の喉の奥で吐き出した息がやたらと震えている。涙を流す女は概して面倒なものだが、彼女のそれはセブルスの胸に燻る記憶を呼び起こして奇妙に彼を揺さぶった。心地良いものでは有り得ないが、不快だと切り捨てられるほどに縁遠いものでもない。

 だがの震え方が尋常ではないことに気付き、セブルスは保っていた距離を詰めて彼女の頬にそっと手を添える。ランプの明かりをぼんやりと灯した部屋の中でも容易に窺えるほど真っ青になったの目はどこを見るということもなくただ茫然と見開かれている。どうした、と一本調子で繰り返した。

 虚ろに瞼を伏せたが、吐息のような声で呟く。

「…何も、できなかった」

「あれは、お前のせいじゃない」

「…違うの。あのお方が…あの、お方が…」

 の頬を撫でるセブルスの冷えた手が強張った。腹の底から浮き上がる冷え切った熱が全身に広がって肺を萎縮させる。開いた目を程なくして細め、セブルスは言った。怯えた声音を隠そうとしたところできっと見え透いているのだが曝け出すには自尊心が強すぎる。

「あのお方が      現れたのか…?」

 頷くことでそれが確固たるものになるのが怖かった。下唇を噛み締めては自分の頬に触れるセブルスの手を震える指で掴む。やはり冷たい彼の右手はつられたように一瞬びくりと揺らめいた。

「…森に、帝王がいた…そうなんだな?」

 セブルスに倒れ掛かろうとした身体は凍りついたように動かない。代わりに止め処なく溢れ出る涙がセブルスの指先までもを濡らした。

 あの時帝王の姿を完全に認めたわけではない。だがあの不気味で生温い空気は明らかに帝王のそれだ。そしてハリーを襲おうとした…間違いない、この10年探し求めてきた、闇の帝王の凋落した姿。

 あんなにも側にいたのに。私は、何もできなかった。

 もしもあの時、フィレンツェが来てくれなければ。

「…目の前でハリーが襲われたのに…私は、何も…」

 あまりに唐突だった。一角獣の血を飲まねばならぬほどに弱り果てた帝王に。あれだけの恐怖を。

 まったく、身動きがとれなかった。あの子を守り抜くのだと決めたのに。

 自己嫌悪は強まるばかりだというのにそれを誤魔化すかのような醜い涙が止まらないのではますます嫌になって歯噛みする。セブルスはどれだけ辛いと思っても決して涙を見せないのに(ひょっとして涙というものを忘れてしまったのかもしれない)自分ばかりが見せ付けるように泣くのがとてつもなく恥ずかしい。それだというのに彼はの背をきつく抱き寄せて彼女の黒髪に口付けた。

「いたんだな、帝王が?」

 震える拳をぎゅっと握り締めたまま、セブルスの胸の中で小さく顎を引いてみせた。擦り合った薄っぺらな衣服を伝って互いの鼓動が速まっていくのが分かる。それはたとえば若さ故の恋愛だとか愉しげな興奮だとか、そんなものではなくてもっと重苦しい罪の意識に似ている。

 慰め合うために同じ時間を共有しているわけではない。けれどやはり彼にはどこか付き纏う保護者気分が抜けないのだろう。有り難いと思うもセブルスにとってはきっと厄介に違いない。

 つくづく、損な男だ。

 そしてそれはどこか、不器用な彼≠ノ似ていると思った。

「…帝王が、森にいるわ」







 セブルスの闇の印は取り立てて変化を見せないが、間違いなく闇の帝王は禁じられた森に潜んでいる。だがきっとダンブルドアはそのことには気付いているのだろう。自分たちは今まで通りに城の中を護りきるしかない。どちらにしても期末試験を目の前にしてこれまで以上の対策は精神的にも肉体的にも困難だ。

 一角獣がこれ以上襲われるのを防ぐためと授業を持たないハグリッドは森の巡回を増やした。それが功を奏したのか3頭目の犠牲はまだ出ていない。とセブルスは城内の夜間巡回とクィリナスの監視を今まで通りに行ったが、同時に試験問題の作成とこの1年のまとめに時間を割かなければならなかったのでそうそう賢者の石ばかりに構っていられなかった。だが、石を奪われては元も子もない。クィリナスへの監視の目だけは常に光らせるように努めた。取り立てて不審な動きも見られなかったようだが。

「大人しすぎると思わない?」

 最後の試験問題を作り終え、残す試験日程はあと1日という夜にセブルスが淹れてくれたカフェオレを口に運びながらは思い出したように言った。セブルスもまたソファにゆったりと腰掛けてカップを口元で傾ける。

「ああ。気になるな…もう1年になる。機会ならこれまでに何度か持てたろうに」

「その機会を何度か私たちが挫いたわけだけどね」

 口角を上げて彼の傍らにどさりと座り込んだ。弾みでカップの中身が揺れるのをセブルスは顰めっ面で見下ろして物憂げに瞼を開く。は残りのコーヒーを一気に飲み干してカップを脇のテーブルに置いた。

「だからこそ気になるの。イギリスに戻ってきた以上帝王が再び立ち上がろうとしているのは間違いないわ。そのためのツールはこうして目の前にあるのに」

 セブルスのカップに軽く手を伸ばし、触れない程度に距離を保って空気を撫でた。

「休暇に入れば生徒は帰宅して私たちもまた石の護りに徹することができるわ。クィリナスが手を打つとすれば」

「気の緩んだ生徒たちが城を去る前」

 彼女の言葉の先を引き継いだセブルスとチラリと視線を合わせて、は静かに頷く。コーヒーを徐に口に運んだセブルスがふうと疲れた風に息を吐いた。

「…明日から学期末最終日までが勝負だな」

 勝負。それはきっと、クィリナスだけではない。石を狙って動くのならば帝王自身との闘いにもなるだろう。

 そこにいるというだけで動けなくなってしまった自分に帝王と討つことが可能か。

 いや、できるか否かではない。やるかやらないか、そしてやらないという選択肢は持たない。逃げるなんて。全てを引き起こしたのは自分の臆病さなのだから。

「…魔法省に、ですか」

「そうじゃ。明日には帰れるじゃろうが、その間城のことは君たちに任せる。頼んだよ」

 老いた不死鳥がダンブルドアの背で力なく身じろぐ。穏やかな瞳で振り返りその羽をそっと撫でるダンブルドアに、校長室に呼び出された、セブルス、そしてマクゴナガルは静かに一礼した。城のこと、というのは文字通りこの学校のことと、そしてもちろん石のこともだ。魔法省から緊急のふくろう便が届いたダンブルドアはそのままホグワーツを去ってしまった。

 クィリナスにとってそれはかねてより待ち侘びたチャンスに違いない。よりによってこんな時に。

「だからこそ我々が目を光らせておくんだ」

 気を揉むにセブルスはあっさりとそう言った。

 試験を終えたその日、城内は開放感に満ちた子供たちで沸き立つ。その中を厳しい表情で闊歩するは生徒がいつも以上に遠巻きにするには十分すぎるほど苛々と張り詰めていた。こんなことになるくらいなら忍びの地図をフィルチに掴ませるんじゃなかったと一度は悔やんだが、だからといってどうなるわけでもない。第一彼らとの思い出があまりに強すぎるあの地図を持っているのは辛いだろう。フィルチのオフィスに忍び込んで地図を引っ手繰ってくるという選択肢を潔く諦めて(教師になってまでそんな真似をすればどうなるかと考えても寒気がする)はクィリナスを探して廊下を大股に歩いた。

 セブルスとの取り決めが一つある。クィリナスと接触したとしても、もしもそこに帝王の気配を感じたらすぐにでも守護霊を飛ばして彼に連絡を取るということ。一人で無闇に動かないこと。禁じられた森で帝王に遭遇した時何の対応もできないどころが身動き一つ取れなかったは大人しく同意した。

「クィレル教授。いらっしゃいますか」

 彼のオフィスは3階にある。上から下りてきたレイブンクロー生の集団を無造作に押し退けて辿り着いたそこをノックすると、程なくして中からあのどもった声が返ってきた。

「は…はい、ど、どどどなたでしょう…」

 もしもこれが演技ならば。騙されていた自分こそが滑稽だろう。

です。教授、是非ともお借りしたいものがあるのですが」

 扉が開くまでは少し時間がかかった。恐る恐る開けられたその奥から青白いクィリナスが顔を出す。その眼は怯えたように萎縮して自分のことすらも映していないのかもしれないなどという思いに駆られる。不健康なまでに細い指でドアに手を掛けたままクィリナスが言った。彼のターバンからは相変わらず不快な臭いが仄かに漂う。

「…わ、わわ、私に借りたいものとは、い、一体…?」

「ええ、吸血鬼の牙に関する専門書をお借りできませんか。開発中の魔法薬に応用できないかと思いまして」

「そ、そ、それなら図書館にも似たようなものは、あ、あああったかと…」

「図書館の関連書は一通り目を通してあります。ですが教授は吸血鬼の専門家でいらっしゃいますので、図書館の蔵書よりも有用なものをお持ちかと。いかがですか」

「あ、ああああ…そ、そうですね、少しなら…。あ、あ、あなたのお役に立てば…良いのですが」

 引き攣った唇で薄く笑ったクィリナスが踵を返してデスクの後ろに並べた本棚へと向かう。その時突然左腕にズキンと鈍い痛みが走るのを感じては思わず顔を顰めた。彼が背中を向けている間に扉の陰でこっそりと袖を捲り、そこに何もないのを確認して急いで左腕をローブの下に隠す。本棚から分厚い本を引き出したクィリナスはすぐに戻ってきた。

「こ、こ、これでどうでしょう…この冬に、と、とと取り寄せた新しいものですから…き、き、きっとお役に立つでしょう…」

「ご配慮、感謝します。明日までには返せると思いますので、また伺います」

 丁寧に頭を下げて微笑むと、クィリナスもまた目元を神経質にピクピクさせながら唇を緩ませてドアを閉めた。『吸血鬼の牙の毒性』を胸元で一度コツンと軽く叩き、慎重に辺りを見回して視界に映る絵画の数を確認する。そして最も信頼のおける修道士の絵画にクィレル教授が夜中に部屋を抜け出すことがあれば教えて欲しい≠ニ頼んでその場を去った。

 あの痛みは一体、何だったのか。帝王のことばかりを考えすぎて錯覚したのかもしれない。だが確かに闇の印が疼いたように感じたのだ。

『それはつまり…帝王が力を取り戻せば、その瞬間にその機能が戻って私の闇の印が再び浮かび上がってくるということですか?』

 まさか、帝王が何らかの力を手に入れて。それをこの膜が感じ取った?

 …いや、そんなはずはない。もしもそうならここには闇の印が浮かび上がるはずだ。大丈夫、帝王は力を取り戻したりなんか、していない。セブルスの印だって何ともないのだから。

『左腕に異常を感じればすぐにセブルスとわしに知らせることじゃ。いいかね?』

 異常というほどの異常では、ない。気のせいかもしれないのだ。こんなことで彼らを煩わせるわけには。

「…」

 クィリナスのオフィスから地下の研究室へと戻る途中、は廊下を曲がった角でさっと脇の壁にある隠れ穴へと身体を滑り込ませた。本当に身を潜めるためだけの小さな小さな空間だ。学生時代ですら膝を折らねば入れなかったというのに、今では完全に膝を抱えて背中まで丸めなければならない。だがは迷わずそうした。周囲に誰もいないことを確認して、だが。

 穴の隙間からそっと廊下を盗み見る。案の定そこにはどこへ消えたのか≠ニ慌てふためいた様子で辺りをきょろきょろ見回すグリフィンドールの1年生が一人。

 少年が背を向けている隙には素早く廊下へと出た。隠れ穴の存在を知らせないようにとすぐさま入り口を閉めて、何事もなかったかのように平然と咳払いしてみせる。ロナルド・ウィーズリーはギクリと身を強張らせて、恐る恐るを振り返った。

「鬼ごっこの真似事かしら、ウィーズリー。それともふざけた兄弟に影響されて私を追いかける趣味でもできた?」

 青ざめたウィーズリーがこれは、先生、違うんです≠轤オきことをゴニョゴニョと言ったが、は本の表紙を指先でゆっくりと弾きながら冷え切った眼差しで少年を見つめる。睨み付けるというよりは、単なる失望をこめた一瞥に過ぎない。

「残念だけどあなたのお遊びに付き合っているほど暇じゃないの。何を企んでいるのか知らないけど、私たちを調べたところで何も出てこないわよ。ポッターにもそう伝えなさい」

 声にはならない悲鳴をあげて目を見開いたウィーズリーが硬直する。やはり、そうか。試験も終わったことだし石を巡って探偵ごっこでも続けているのだろう。冗談じゃない。

「もしも不適切な場所であなたたちを見つけることがあれば、その時は減点どころでは済ませないわ。我が家から退校処分の人間が出れば純血のウィーズリー家としては恥曝しも良いところね。もう行きなさい」

 ウィーズリーは顔を真っ赤にしてを睨んだが、何も言わずに大股でグリフィンドール塔に向かって帰っていった。フンと鼻を鳴らし、足早に地下へと戻る。どうやらセブルスにはグレンジャーが付き纏ったようで、彼もそれを振り払ってきたところだった。

「馬鹿馬鹿しい」

 唇を歪めて吐き捨てるようにセブルスが言った。まったく、馬鹿げている。

 クィリナスは今オフィスにいるということ、廊下の絵画に彼の監視を頼んできたいうことを告げては借りてきた本をやる気なく捲ってみたが、どことなく左腕の印が疼くように思って無意識のうちに何度もローブの上からそこを擦った。それに気付いたセブルスが「どうかしたのか」と訊いたが、慌てて腕から手を離して「痒かっただけよ」と誤魔化した。

 だがそんなとセブルスの努力も空しく、間もなく巡回に出かけようとしていた2人のもとへ太った婦人が急いでやって来た時には既に事は遅かった。姿は見えないが誰かが談話室から出て行ったという。報告を受けたとセブルスはすぐさまクィリナスのオフィスへと向かい、そこですっかり眠り込んでいる修道士の絵を見た。

「今夜だけは起きていてってお願いしたのに!」

「あ、あー…いや、どうも、すみませんね…昨日の晩遅かったもので…」

「大事なことだったのよ!」

「…、もういい。それより4階に行くのが先だ」

 忌々しげに舌打ちしたセブルスがの肩を叩いて諭す。そうねと言っては修道士を睨み付けてからセブルスと階段を駆け上がった。クィリナスのオフィスは空っぽだった。そしてハリーもまた、グリフィンドール塔を抜け出した…。最悪の事態を予測せざるを得ない。

 お願い、どうか。間に合って。

「ダンブルドア校長!」

 仕掛け扉の部屋の前でダンブルドアを見つけた時の安堵感といったら言葉では言い表せない。彼は厳しい顔付きで風のように部屋の中へと入っていったが、一気に力の抜けたはセブルスに支えられるままにその場でパタリと気を失った。




 護るなんて、とんでもない。

 いつだって私は、護られながら生きるしかないのか。