「お前さん、ちっと気ぃ揉みすぎだぞ」

「余計は口出しは無用よ、ハグリッド。今は話しかけないで」

 月が煌々と明るい夜だった。困ったような男の声と苛立たしげな女の声が時折会話する以外は何の音も聞こえない。しばらく空一面に雲がかかり周囲が真っ暗になってからまた満月が顔を出すと、森の外れにある小屋の前に立っていた2つの人影が何の前触れもなく1つに減っていた。それでも男と女の会話は続いた。

「お前さん、俺がどんだけ森に詳しいかは知っとるだろうが。心配は要らねえって言っとろうに」

「過度の自信は仇になるわよ。もう話しかけないでと言ってるでしょう」

 大きな身体で小さく息をついて、男はやや離れた城の入り口へと足元から視線を移した。そちらからランプの明かりを灯した小さな一行がゆらゆらと近付いてくる。

 は少し前からハグリッドの小屋で待機していた。今夜傷付いたユニコーンの捜索というあまりに危険な罰則を受けるハリーやドラコたちを見守ろうとセブルスの制止も振り切ってのことだ。大きな石弓を持ち、肩に矢筒を背負ったハグリッドの足元で変身したは次第にはっきりしていく子供たちのシルエットにうんざりと息を吐いた。

「フィルチか、急いでくれ。俺はもう出発したいんだ」

 蛇の姿になっているにまで嬉しそうに鼻筋を寄せてくるファングを小声で叱り付け、ハグリッドがフィルチの方へと大股で歩いていく。は彼に遅れないようにと急いで草の上を這い進んだ。

「もうとっくに時間は過ぎてる。30分以上待ったんだぞ。ハリー、ハーマイオニー、大丈夫か?」

「こいつらは罰を受けに来たんだ。あんまり仲良くするわけにはいきませんな、ハグリッド」

「それで遅くなったとそう言うのか。説教を垂れてたんだろう、え?説教するのはお前の役目じゃなかろうが。お前の役目はもう終わりだ、ここからは俺が引き受ける」

「夜明けには戻ってくるよ。こいつらの身体の残ってる部分だけ引き取りに来るさ」

 フィルチは不吉なことを嫌味たっぷりに言い残し、くるりと踵を返した。ランプが暗闇の奥にゆらゆらと消えていく。は身震いしながらハリー、ネビル、ドラコ、グレンジャーをこっそりと見上げた(気を配らなくとも足元の彼女の存在になど誰も気付くまいが)。ネビルとドラコはハグリッドの持つ明かりを受けてすっかり青ざめてしまっている。フィルチが不必要なことを吹き込んだのだろうが今夜ばかりは余計といって切り捨てることもなかろう。何しろこの森には、あの闇の帝王が潜んでいるのだから。どれだけ注意してもし過ぎることはない。

 開口一番、ドラコは恐怖に慄いた声で言った。

「僕、森になんか行かないぞ」

「ホグワーツに残りたいなら行かねばならん。悪いことをしたんだから償うのは当然だ」

「でも森に行くなんて召使いのすることだ。生徒にさせることじゃない。同じ文章を何百回も書き取りするとか、そういう罰だと思ってたのに。もし僕がこんなことをするって父上が知ったら、きっと…」

「きっとこれがホグワーツの流儀だってそう言い聞かせるだろうよ。書き取り?へっ、それが何の役に立つ。役に立つことをしろ。さもなきゃ退学しろ。お前の親父さんが、お前が追い出された方がましだっていうんならさっさと城に戻って荷物をまとめろ!さあ行け!」

 きっとこれがホグワーツの流儀だと言って聞かせるルシウスを想像して、は苦笑いした。ドラコは青白い顔のままハグリッドを睨み付けていたが、やがて諦めたように視線を逸らす。よし、と言ってちらりと足元のを一瞥してからハグリッドは続けた。

「そんじゃ、よーく聞いてくれ。なんせ俺たちが今夜やろうとしてることは危険なんだ。みんな軽はずみなことをしちゃいかん。しばらくは俺についてきてくれ」

 ハグリッドがまず森に向かって歩き出し、ファング、ハリーやドラコたちも後を追うように足を踏み出す。はさらにその後ろをするすると這っていった。

 ハグリッドは森の獣道に光る一角獣の血を示し、ハリーたちに今夜の罰則の内容を話して聞かせた。二手に分かれ、傷付いた一角獣を見つければ緑色の光、トラブルが発生すれば赤い光を打ち上げる。ハグリッドはハリーとグレンジャー、ドラコとネビルはファングと一緒に行くことになり、はネビルやドラコの身も案じたが帝王のことを考慮して最も危険なのはハリーだと結論付けてハグリッドたちの後に続いた。どこまでもついてくる一匹の蛇の存在など、ハリーもグレンジャーも全く気付かない。

 森中をのた打ち回っているであろう一角獣の血は今ではどちらへ行けばいいかほとんど判別できないほどあちこちで光っていた。それでも真っ直ぐに突き進むハグリッドの後ろ姿にハリーが恐る恐る声をかける。

「狼男がユニコーンを殺すなんてことがあるの?」

 どきりとした。昨日は満月だった。リーマスは、一体どこにいるのだろう…。

「あいつらはそんなに速くねえ。ユニコーンを捕まえるのは簡単じゃねえんだ。強い魔力を持った生き物だからな。ユニコーンが怪我したなんてこたぁ、俺は今まで聞いたこともねえ」

 時折木々の隙間から漏れる月明かりが先を行く3人の人影を浮き上がらせる。どこまでもジェームズに似ていると、こんな時にまで考えている自分に嫌気が差した。

 ちょうどその時、何の前触れもなく突然立ち止まったハグリッドが振り向きざまに「その木の陰に隠れろ!」、ハリーとグレンジャーを樫の巨木の裏に放り投げた。も一瞬身を強張らせ、いつでも人間の姿に戻って対応できるようにと身構える。ハグリッドは矢を引き出して弓に番え、それをいつでも放てるようにした。耳を澄ませ、何者がそこにいるのかを窺おうと目を凝らす。だが聞こえたのはマントが地面を引きずるようなスルスルという静かな音だけで、それもやがて彼方へと消えていった。やっと弓を下ろし、ハグリッドが神妙な面持ちで呟く。

「思った通りだ。ここにいるべきではない何者かだ」

「狼男?」

「いーや、狼男でもユニコーンでもない。よし、俺についてこい。気をつけてな」

 振り向いたハグリッドが、木の陰から出てきたハリーとグレンジャーを迎えながらもをちらりと見て顔を顰める。随分と慎重に歩き出した彼らの後ろを這いながらは訝しく思った。あれは本当に帝王だったのか。それとも何ら関わりのない生き物か。どちらにしても警戒する必要がある。考えているうちにまた立ち止まったハグリッドが暗闇に向かって声を張り上げた。

「そこにいるのは誰だ。姿を現せ、こっちには武器があるぞ!」

 帝王だとすれば弓矢が有効になるとも思えない。は失神光線の呪文を頭の中で繰り返しながら前方の開けた空間に現れた何者かを見据えた。

 ケンタウルスの      ロナン。まさに、あの時∴ネ来だった。

「ああ、君か、ロナン。元気か」

「こんばんは、ハグリッド。私を撃とうとしたんですか」

「ロナン、用心に越したことはない。なんか悪いもんがこの森をうろついとるんでな」

 悲しげに呟いたロナンに、ハグリッドは石弓を軽く叩きながら告げる。見つかるとも思わなかったがは背の高い草陰に身を隠した。実際、10年以上昔に自分は変身していた姿をフィレンツェに見破られたのだから。

 ハグリッドはロナンにハリーとグレンジャーを紹介し、怪我した一角獣について訊ねたが彼は望まれる答えを差し出すことがない。続いて現れたベインもまた(はさらに深いところに隠れた)ロナンと同じことしか言わなかった。昔も今も彼らは変わらないのだとぼんやりと思う。ケンタウルスと別れた後、ハグリッドたちは真っ暗な茂みの中を奥へ奥へと進んでいった。ハリーが神経質そうに何度も後ろを振り返るので気が気ではない。角を曲がった時、グレンジャーが叫んだ。

「ハグリッド!赤い火花よ!ネビルたちに何かあったんだわ!」

 夜空を見上げるグレンジャーにつられて視線を上げる。戦慄に背筋を撫でられるように感じて身震いした。まさかネビルやドラコの身に何か。ハグリッドは「ここで待ってろ」と言い残して下草を薙ぎ倒し、ガサゴソと遠ざかっていった。そうだ、ハグリッドが行ったのだから私はここに留まらなければ。ハリーの身は私たちが護るしかないのだから。

 その時ふと、冷たい何かを感じては首を捻って振り向いた。聞こえるのは木々が風に擦れて微かに立てる音だけだ。月明かりに照らされた地面には銀色の血の跡が残る。だがしかし、それだけだった。不審なものは、何も。でも…何かが、気になる。何かを見落としているような。考えろ。この感覚は、一体何?

 バリバリと物凄い音を立ててやっと戻ってきたハグリッドはネビル、ドラコ、ファングを引き連れてひどく憤慨していた。どうやらドラコがネビルの後ろに回って掴みかかるという悪ふざけをしたらしい。ネビルは泣きそうな顔でしゃくり上げていた。

「お前たちが馬鹿騒ぎをしてくれたお陰で捕まるもんも捕まらんかもしれねえ。よーし、組み分けを変えよう。ネビル、俺と来い。ハーマイオニー、お前さんもんだ。ハリーはファングとこの愚かもんと一緒だ」

 ドラコは不満タラタラの目付きでハグリッドを睨んだが、何も言わなかった。はハグリッドに目配せし、ハリー、ドラコ、ファングと一緒にさらに森の奥へと突き進む。時折じゃれ付くように近付いてくるファングをシャーシャーと息だけで叱り付けると、ファングは子供のようにしゅんと小さくなった。ハリーとドラコはこのやり取りには気付かない。

 30分ほど歩くと、木立がびっしり生い茂った一角に出た。血の滴りも次第に濃くなり、樫の古木の根元に大量の血痕が飛び散っている。その木の枝が複雑に絡み合っている向こう側に、開けた平地が見えた。

 一角獣はそこにいた。純白の身体、しなやかな脚。真珠色に輝くたてがみ。3日前に見たものと同じだ。どうしようもなく哀しい気持ちにさせられる。はダンブルドアだけがこの亡骸を本当の意味で葬ってあげられるのだと感じた。

 その時、ズルズルと重い何かが滑るような音がした。平地の端が揺れ、暗がりの中から真っ黒い何かが飢えた獣のように地面を這って現れる。頭まですっぽりマントを被ったその影は一角獣に近付き、傍らに身を屈めてその傷口から貪るように血を飲み始めた。

 ドラコとファングが悲鳴をあげて逃げ出した。ただハリーだけが凍りついたようにその場に立ち尽くして動かない。今こそ飛び出さねばと思った。何のためにここへ来たのか      ハリーを、護るためだ。それなのにはフードに包まれた影が頭をもたげ、真正面からこちらを見たその瞬間、心臓が凍りつくのを感じた。その影が立ち上がり、ハリーに向かって滑るように近付いてくる…。

 突然、ハリーが頭を押さえて呻き声をあげた。よろよろと倒れ掛かり、支えねばと思う。だが蛇の姿のままの身体はぴくりとも動かなくなり、ただ後方から荒っぽい蹄の音が聞こえてくるのを感じた。、そしてハリーの真上をひらりと飛び越えたフィレンツェは前脚をかざしてフードの影をすぐさま追い払った。

 膝をついたハリーの目の前にやって来たケンタウルスが、彼の手を引いて立ち上がらせる。

「怪我はないかい」

「え、ええ…ありがとう…。あれは、何だったの?」

 フィレンツェはやはり答えない。彼の淡い瞳が真っ直ぐにハリーの額を見つめていた。

「ポッター家の子だね。早くハグリッドのところに戻った方がいい。今、森は安全じゃない…特に君にはね」

 ああ、やっぱりそうだったのかと納得すると同時に少なからず驚いた。彼もまた変わらないのだ。私に語りかけた、あの頃のまま。

 ハリーが背中に乗れるようにと前脚を曲げて身体を低くしたフィレンツェは、草陰に隠れたに確かに視線を向けてこう言った。

「あなたも乗ってください。急いでここを出た方がいい」

 誰に話しかけているのかと訝しげに顔を顰めたハリーがフィレンツェの首筋に手を伸ばすと、平地の向こうから茂みを破るようにしてベインが飛び出した。ロナンも一緒だ。フィレンツェの脇腹はフーフーと波打ち、汗で光っていた。

「フィレンツェ!何てことを…ヒトを背中に乗せるなんて恥ずかしくないのか!お前はただの驢馬なのか!」

「この子が誰か分かって言っているのですか。ポッター家の子ですよ。一刻も早くこの森を離れる方が良い」

「お前はこの子に何を話したんだ!フィレンツェ、忘れるな。我々は天に逆らわないと誓った。惑星の動きから何が起こるか読み取ったはずじゃなかったのか」

 ベインが唸るように言うと、ロナンは落ち着かない様子で蹄で地面を掻いた。

「私はフィレンツェが最善と思うことをしているんだと信じているがね」

「最善!それが我々と何の関わりがあるというんだ!ケンタウルスは予言されたことにだけ関心を持てば良い!森の中で彷徨うヒトを追いかけて驢馬のように走り回るのが我々のすることか!」

 ベインが憤慨して後脚を蹴り上げる。フィレンツェも負けじと突然後脚で立ち上がり、危うくハリーは振り落とされるところだった。

「あのユニコーンを見なかったのですか。彼がなぜ殺されたのかあなたには分からないのですか。それとも惑星がその秘密をあなたには教えていないとでも?ベイン、私はこの森に忍び寄るものに立ち向かいます。そう、必要とあらばヒトとも手を組みます」

 フィレンツェはベインたちに背を向け、駆け出すと同時に地面に伏したの身体を前脚でひょいと掴んで背中へと登らせた。ハリーはなぜ彼が蛇などを自分の背に乗せたのか分からずに不思議そうにを見つめている。はどうかフィレンツェが自分の正体を彼に明かしませんようにと懸命に祈った。

 ベインたちと別れて少し走ると、フィレンツェはスピードを落として並足になった。ハリーは「この蛇は何?」と訊いたが彼は何も答えない。はホッと胸を撫で下ろしながらフィレンツェの背にだらりと肢体を伸ばしたが、やがて立ち止まった彼の口から紡ぎだされるその言葉の一つ一つに次第に不安を煽られていった。

「ハリー・ポッター。ユニコーンの血が何に使われるか知っていますか」

「ううん。角とか尾の毛とかを魔法薬の時間に使ったきりだよ」

「それはね、ユニコーンを殺すなんて非常極まりないことだからなんです。これ以上失う物は何もない。しかも殺すことで自分の命の利益になる者だけがそのような罪を犯します。ユニコーンの血はたとえ死の淵にいる時だって命を長らえさせてくれます。でも、恐ろしい代償を払わねばならない。自らの命を救うために純粋で無防備な生き物を殺すのですから、得られる命は完全なものではありません。その血が唇に触れた瞬間から、そのものは呪われた命を生きる。生きながらの死なのです」

 フィレンツェは何を言っているのか。どういうつもり。なぜハリーにそんなことを言うの。

「一体誰がそんなに必死に?永遠に呪われるんだったら死んだ方がましだと思うけど。違う?」

「その通りです。しかし他の何かを飲むまでの間だけ生き長らえば良いとしたら?完全な力と強さを取り戻してくれる何か…決して死ぬことがなくなる何か。ミスター・ポッター、今この瞬間に、学校に何が隠されているか知っていますか」

 やめて、何を喋るつもりなの。もうそれ以上、この子に余計なことを話さないで。

「賢者の石      そうか、命の水だ!だけど一体誰が…」

 パッと顔を輝かせてそう叫んだハリーに、はひどく衝撃を受けた。賢者の石のことを、ハリーは知っていたんだ。それを私とセブルスが狙っているなんて、勘違いも甚だしい。何のためにそんなものを、私たちが望むというのか。

 永遠の命なんら要らない。そんなもの、必要ない。

 彼らのいない、この世界で。生き長らえる魅力などないのに。

 フィレンツェは朗々と続けた。

「力を取り戻すために長い間待っていたのが誰か、思い浮かばないのですか。命にしがみ付いて、チャンスを窺ってきたのは誰か」

 やめて。今すぐ叫びたかった。フィレンツェの口を押さえつけたい。この子にそれ以上、言わないで。だがここで人間の姿に戻れば私がアニメーガスだと知れてしまう。なぜ自分を尾行していたのか彼はきっと訝るだろう。そしてもう、この手段は使えなくなるのだ。耐えなければ。だがしかし、帝王のことをハリーに知られるわけには。

「それじゃ…僕が今見たのは…ヴォル     

「ハリー、ハリー!大丈夫なの?」

 嗄れたハリーの言葉を途中で遮ったのは道の向こうから飛び出してきたグレンジャーだった。ハグリッドもはーはー言いながらその後ろを走っている。はフィレンツェの背中から降りて急いで脇の草むらへと飛び込んだ。

 ハリーから一角獣のことを聞いたハグリッドは大慌てで森の奥へと駆け去っていったが、はその場から動かなかった。否、動けなかった。背中から滑り降りたハリーに向けて、フィレンツェが囁くのが聞こえる。

「幸運を祈りますよ、ハリー・ポッター。ケンタウルスでさえも惑星の読みを間違えることがあるのです。今回も、そうなりますように」

 そして今度こそ、草の陰から様子を窺うの方を見た。彼は哀しそうに微笑むと、みんなに背を向けて緩やかに走り去っていく。ぶるぶる震えるハリーを支えて城への道のりを戻っていくグレンジャーの姿が完全に見えなくなってから、はやっとよろよろと動き出した。ああ、とうとう彼は全てを知ってしまったのだ。賢者の石のことを、それを狙う帝王が自分をも狙ってこの森に潜んでいるのだということを。危険すぎる。

 あなたの読みはかつて、悪い方向に的中してしまった。今度こそ読み間違いでありますようにと。

 ほんの僅かに欠け始めた月をぼんやりと見上げ、は心からそう願った。