禁じられた森に棲むという一角獣をは見たことがなかった。いや、学生時代に遭遇したあのケンタウルスの他には何の生き物を見たこともない。厄介な調合に使用する薬草を積みに森へ行くことは時折あったがあまり奥まで入ることは滅多になかったし、そんなことがあったとしても常に森の番人であるハグリッドが付き添ってくれる。彼さえ一緒ならば余計な争いを生まずに済み、それが故に森の珍しい生き物たちと出会うこともなかった。

「…ユニコーンが、殺された?」

 呼び出された校長室にはハグリッド、マクゴナガルも来ており、とセブルスは校長の口から聞かされた事態に思わず眉を顰めた。

「先ほどハグリッドが報告してくれた。由々しき事態じゃ。間違いなく強力な闇の力が働いておる。2人ともこれからわしと一緒に来てくれぬか」

「はい。もちろんです」

 一角獣の知識は学生時代のままに止まっていたが、は何とかそれを記憶の底から引きずり出した。強い魔力を持つ一角獣は通常その角や尾の毛だけでも十分その恩恵を受けることができる。そして一角獣の血は永遠の呪いと引き換えに死の淵にいる人間の命をも保つ…。

 考えたくもなかったが。冷えた風が頬を打つ暗闇の中をハグリッド、ダンブルドア、マクゴナガルの後に続きながらはぞくりと身震いした。そこまでして生きようともがく人間など、一人しか思いつかない。

 だが同時に、安堵する自分にも気付く。帝王は必死なのだ。ユニコーンの血を飲まなければ生きていられない程に弱っている。もしも帝王がこの森に潜んでいるのだとしても、それ程に力を失っているのなら再び立ち上がることなど夢のまた夢だろう。賢者の石は堅い護りに囲まれている。クィリナスが石を手に入れられるはずがない。

 一角獣の死骸は既にハグリッドによって森の浅いところまで運ばれてきていた。純白に輝くスラリとした身体、傷口から生々しく溢れた銀色の血。長くしなやかな脚はバラリと無残に曲がり、真珠色の鬣も無造作に広がっている。死して尚ここまでに美しい生き物には悲しさや空しさよりもある種の感動を覚えた。

「…何と、罪深いことじゃ」

 肺の奥から震える声を吐き出したダンブルドアがその傍らに膝をついて一角獣の頭をそっと撫でつける。その閉じられた瞼がほんの一瞬だけ揺らいだように見えた。

 その一角獣はハグリッドの小屋の裏手にひっそりと葬られた。追い詰められているに違いない犯人≠ヘまた一角獣の血を狙うだろうと推測され、ハグリッドによる森の巡回態勢が強化されることになった。不審な点があればハグリッドがかセブルスに協力を仰ぐという方針も話し合われ、2人は夜間でもハグリッドが地下を訪ねてくることがあれば迅速に対処できるように研究室のドアに魔法をかけることにした。

 早速その機能が働きが明け方に叩き起こされたのは、その僅か2日後のことだった。

!一緒に来てくれねえか。どうやら怪我したユニコーンが暴れ回っとるみてえなんだ!」

 寝巻き姿のまま研究室の扉を押し開けたは慌てた様子のハグリッドを見てやっと目が覚めた。

「あ、あー…ごめん。今すぐ着替えてくるから、もうちょっと待って」

「ああ、頼む!」

 が自室に戻ろうとするとちょうど向かいの扉から既に着替えたセブルスが出てきた。

 ローブに着替えたとセブルスがハグリッドと一緒に城の外に出ると、あの夜と同じように月明かりが照らす森には暗い影が差していた。あれからまだ2日だというのに、このままいけば森の一角獣はいなくなってしまうのではないか。何とかして阻止しなければ。だがもしも本当に闇の帝王が森に棲んでいるのならばそれは可能なのだろうか。下手をすれば巡回中のハグリッドにも危険が及びかねない。

 でも私に何ができる。帝王を見つけたとしても、あのお方を殺すことなどできるのか。

 殺さなければ。落とし前は自分でつけなければならない。帝王が無力のままならば、今のうちに。

 ハグリッドの示す方角を見ると、あの日と同じように銀色に輝く液体が地面に尾を引いていた。

「この辺は随分探したんだが…見つけられんかった」

「ええ、夜明けまではまだ時間があるわ。手分けしてもう少し探してみましょう」

 目配せし合い、それぞれの道へ分かれようとしたはふと聞こえてきた声にピタリと足を止めて振り返った。

「おーい!お前まさか、あいつかよー!」

 顔を顰めたはこちらに背を向けて歩き出したハグリッドとセブルスを呼び止める。

「ねえ、ちょっ…あの声、何?」

 振り向いた2人の顔が思い切り不可解に歪む。

「声?」

 セブルスは胡散臭そうにをジロリと睨んだ。ルーモス呪文で明かりをつけた杖先を僅かに上げ、もまた眉根を寄せる。

「声よ、声!今、変な声が聞こえ…」

「なあ、無視すんなよ!お前、あいつだろー?なあ、俺のこと忘れたのかよー!」

「ねえ、ほら!変な声が…」

「こらー!無視すんなってー!このアホがー!」

「ええ!?」

 どこからともなく聞こえてくる失礼な声に、苛々と頭を抱える。だがセブルスもハグリッドも頭は大丈夫か≠ニ言わんばかりの顔で首を傾げた。

 そして唐突に気付いた。声が      自分のすぐ、足元からするということに。

「やっと気付いたかコラ!久し振りの友人にえらく友好的な態度だな、おい!」

 杖先に点る明かりが、声の主を照らし出す。は驚愕のあまりポロリと杖を取り落とした。

「あ、あんた…生きてたの!?」

「何だお前!第一声がそれか!ええ、上等じゃねえか!お前もよく生きてたもんだな、随分見かけねえからどっかでくたばっちまったのかと思ってたぜ!」

「な、あんたこそ失礼な…」

 言いかけて、思わず口を噤んだ。自分が日本から連れてきたこの蛇を、最後に見たのは10年以上前だ。この10年、色々なことがありすぎた。何人もの友人が死んだ、私の前から消えた。そう、私が死んでいたとしても何の不思議もないのだ。もうあの頃とは、違う。

「おう、どうした。急に大人しくなったな。え、成長したか、そうか」

 満足そうに鼻を鳴らす蛇をが睨み付けると、真っ青になったハグリッドが恐る恐る口を開いた。

「…お前さん、それが…それが」

「え、何?」

「お前さん、それが例の…蛇語ってやつか?」

 ああ、と声をあげて、落とした杖を拾い上げる。セブルスもまたひどく驚いた顔をしてこちらを見つめていた。彼の目の前で蛇に変身したことはあるが、パーセルタングを話したことはない。

「ええ、そう。自覚はないけどね、蛇を前にすると自然と話せるみたい。彼、私の友達なの」

 真ん丸に見開いた目を瞬くハグリッドに短く言葉を返し、は蛇に向き直る。

「ちょうど良かったわ。訊きたいことがあるの」

「おう、何だ。そういえばお前のお陰で随分と可愛い子をゲットできたぜ。今から一緒に来るか?俺の可愛い家族を紹介してやるぞ」

「…ああ、そう、おめでとう。それはまた今度にするわ。私たちは急いでるの。質問に答えて。ここ数日のうちに、森で怪しいものを見なかった?」

「怪しいもの?例えばお前みたいな?」

 平然とそんなことを訊き返してくる蛇に、うんざりと溜め息をつく。

「私は真面目に訊いてるのよ。そうね…ここ10年この森で見かけたことのないような何か」

「だから、お前だろう」

「…ええ、そうね。私は本当に時々しか来ないからね。じゃあ、そう、私の他に何かおかしなものを見なかった?」

 トグロを巻いてしばらく考え込むような仕草を見せてから、蛇は何でもないといった調子で告げる。

「ああ、見たぞ。ちょっと前に。なんかよく分からんが、苦しがってた」

 蛇の言葉に、ぎくりと身を強張らせたはその場にしゃがみ込んで彼の顔を覗き込んだ。

「苦しがってた?何それ、どういうこと。だってあんた、人間の言葉分からないでしょう?」

「だってそいつ、お前みたいに人間なのに蛇の言葉喋ってたんだぜ?俺そいつとちょっと喋ったぞ」

 は心臓が跳ね上がるのを感じて思わず胸元を押さえつけた。まさか      そんな。背筋を冷たいものが駆け抜ける。蛇語が分からないセブルスとハグリッドはが自棄を起こしたように理解不能な言語をまくし立てるのをただ黙って見守っていた。

「何を話したの!どんな人だった!?」

「何って…ああ、男だったな。男。白い馬知らないかって訊かれたから、あっちで見たって教えてやった」

 どこまでも軽快に語る蛇に渾身の力で蹴りを叩き込んでは弾けたように立ち上がった。

何てことを!

 優に数メートルは飛んでいった蛇をそのまま放置して(「こら、おい!何しやがる!」)、は彼の示した方角へと駆け出した。ああ、何てことだ。帝王は確実にこの森に棲んでいて、しかもあのお方に一角獣の居場所を教えたのがよりにもよってあいつだなんて!

、どうした!何か分かったのか!」

 わけが分からずただ彼女の後について走りながらセブルスが声を荒げる。ハグリッドはその巨体が故に息を切らせてかなり苦しそうで、2人からは既に遅れていた。

「ああもう…セブルス、いるの、間違いなくあのお方が…ユニコーンの血を求めて苦しんでる!あの馬鹿…」

「何…確かなのか!」

「詳しくは後で話すわ、先にユニコーンを見つけないと」

 帝王の命を少しでも生から遠ざけておけるのならば。

 だが傷付いたユニコーンを見つけ出すよりも夜明けの方が先にやってきた。とセブルスには朝から授業があるし、陽光を浴びれば一角獣の血も識別しにくくなる。3人はそれ以上の探索を断念し、また暗くなってから探そうと禁じられた森を去った。

「スリザリンの血を引くパーセルマウスは闇の帝王の血筋の者だけよ。あの蛇は、確かにその人物と話をしたというの…帝王よ。間違いないわ…あの森に、帝王が潜んでる」

 地下牢研究室にいつも以上に防音の魔法を張り巡らせたはぞくりと冷える腕を擦りながらセブルスに打ち明けた。ダンブルドアにも伝えなければと思ったが、そうすることで自分の見たものが現実となるのが怖かった。遂に、やって来たのか。力を失っているとはいえ、帝王はこの国に戻ってきた。

 だがその躊躇がいけなかった。日が暮れてから地下を訪れたハグリッドが、傷付いた一角獣の捜索はドラゴンの一件の際にハリーたちが受けた罰則として遂行されることになったとに伝えたのだ。

「まさか!冗談でしょう…そんな危険なことを生徒にさせるの!?」

「仕方ねえだろう。マクゴナガル先生がお決めになったことだ」

 俺だって気は進まん≠ニモゴモゴと呟いたハグリッドに、は負けじと食い下がる。

「でもいくらなんでも…だって森には     

 声を荒げたの言葉をセブルスが静かに遮った。

「今回の罰則を課したのはマクゴナガル教授だ。我々にはどうにもできん。それにああいった輩には良い薬になろう。何のための罰則だと思っている」

「でも…危険過ぎるわ!」

 闇の帝王が森に潜んでいると知るセブルスまでもそんなことを。ハグリッドは困った顔でしばらくとセブルスを交互に見比べていたが、やがて「スネイプ先生の言う通りだ」とはっきりと言った。

、俺がついとるんだ。心配は要らねえ」

 肩にポンと手を置かれ、思わず前につんのめりそうになったは何とかその場に踏み止まりながら鋭い視線をハグリッドに投げつける。

「分かったわ。でも一つ、条件があるの」

 手元の羊皮紙を見つめていたセブルスの視線が、疎ましげに一瞬上を向いた。