太った婦人の証言によりハリーが少なくともクリスマス休暇中に3夜はグリフィンドール塔を抜け出したことははっきりしていたが、透明マントを持つ彼を取り押さえることはできなかった。恐らくハリーがマントを持っていることをクィリナスは知らないので、夜間外出中彼の身に危険が及んだということはなかったのだろうが。
みぞの鏡を覗いた翌日、は寝込んでしまったために巡回には出られなかった。セブルスもまたうなされる彼女の側にずっとついていたので夜間巡回はその次の日から再開したのだが、二度とあの鏡を見つけることはできなかった。
「何だったのかしら、あの鏡」
夢の中でかつての親友たちの影にしつこく苛まれることがなくなったのは休暇明けのことで、レポートの採点を一通り終えたは2人分のコーヒーを淹れながらぽつりと呟いた。手元の羊皮紙をぱらりと捲り、セブルスが素っ気無く返す。
「詳しいことは分からんが何らかの意図があって一定期間だけあの場所に置かれていたんだろう。あの鏡に魅せられて発狂した者が数多くいるという。お前も同じ道を辿るところだったな」
は咳払いで言葉の先を濁しながら彼の机にブラックのコーヒーを置いた。
あんなものを見せられたら誰だって気が触れそうになるだろう。セブルスは鏡の中に一体何を見たのか、どうして自分を見失わずに済んだのか。だが彼自身がそんなことを語るはずもないし、セブルスが支えてくれなければこうして立ち直ることもできなかったろう。余計なことは考えまいとは自分の机に着きながら目の前の本立てから明日の授業の教科書をさっと引き出した。
三頭犬に噛まれたセブルスの足の傷は随分と治ってきていた。激しく動けばまだ血が滲むようだが、足を引きずらなくてもまともに歩ける程度には回復している。スプラウトに貰う薬草の量も日に日に減り、この調子でいけばあと1月もすれば傷痕は残るだろうが日常生活に全く支障をきたさないほどに治るだろう。
「先生、スネイプ先生はいらっしゃいますか?」
職員室に行こうと研究室を出たはちょうどそこでスリザリンのフリントと遭遇してドアの鍵を閉める手を止めた。
「教授なら実験中よ。競技場の予約かしら?」
「はい、次の土曜日なのですが先生のサインが必要で」
「そう。教授はしばらく手が離せないから代わりに私のサインで構わないかしら」
「もちろんです。お願いします」
フリントに差し出された羊皮紙を受け取り、該当の枠に軽くサインを走らせる。愛想笑いを浮かべてそれを手に取ったフリントは丁寧に頭を下げてその場を立ち去った。彼の後ろ姿が完全に視界から消えてから、もようやく歩き出す。
グリフィンドールの卒業生であるがスリザリンの副寮監という肩書きを持つことはなかったが、実質的にセブルスの補佐である彼女は彼がどうしても手が離せない仕事をしている時には寮監代理としてその責務を果たすことがあった。暗黒時代にセブルスが密偵としてよく城を空けていた頃はその仕事も随分と多かったが、今では彼が小難しい実験を進めている時くらいにしかその役は負わないが。
職員室でスプラウトと来週の授業で使用したい薬草の確保についての話し合いを終え、は部屋の手前に置かれている行事予定表をぼんやりと眺めた。もうすぐ、クィディッチのグリフィンドール対ハッフルパフ戦だ。
前回のグリフィンドール対スリザリン戦での事件を思い出し、は僅かに表情を険しくしながら足早に職員室を出た。セブルスはどうしても邪魔されたくない実験をしている最中には研究室のドアに魔法をかけてが開けても自分の寝室と繋がるようにしている。案の定扉を押し開ければそこは自分の部屋で、はベッドに腰掛けて彼の実験が終わるまで待つことにした。
「終わった。戻ってきてもいいぞ」
それから数十分ほど後に寝室のドアが開き、この時期に額に汗を浮かべたセブルスが顔を出す。はベッドに倒れ込んだまま、フリントに競技場の使用許可を与えたことと、2週間後に迫ったグリフィンドール対ハッフルパフ戦のことを話した。
「まさかクィリナスがまた試合中にハリーを狙うことはないだろうと思うけど…でも対策を考えておくべきだとは思うのよね」
の発言に、ベッドの縁に浅く腰掛けたセブルスは眉を顰めて考え込む。は職員室から持ってきた書類の中に埋もれていた1冊の本を取り出してそれをセブルスの前に突き出した。
「それで考えたの。客席と上空、二方向から観察すれば異常があったらすぐに分かると思うの。クィリナスに共犯者がいるとすれば、誰なのか分からないその人物も上空からの方が見つけやすいはずよ」
彼に差し出したのは、セブルスの机に置きっ放しにしてあった『クィディッチ今昔』。彼はそれを受け取らずにますます顔を顰めてみせた。
「…どういうことだ?」
「あら。スネイプ教授にしては随分と物分りが悪いようね。本当に分からないの?」
からかうように意地悪く笑うと、セブルスはやっとの手からその本を受け取った。
「…つまり俺かお前のどちらかが、試合で審判を務めると?」
布団から身を起こし、はニヤリと笑う。
「その通り」
セブルスはしばらく苦虫でも噛み潰したかのような顔をしていたが、『クィディッチ今昔』をパラパラと捲りながら徐に口を開いた。
「…お前にしては名案かもしれんな」
「でしょう?問題は他の教員がうんと言うかどうかだけど…」
真っ先にマクゴナガルの憤慨した表情が脳裏を過ぎり、は苦笑いした。マクゴナガルはどの寮の生徒に対しても公平である分、スリザリン贔屓のセブルスを人一倍快く思っていない(のことはかつての自分の寮生であることを考慮してか彼女にしては珍しく特別に′ゥてくれているようだが)。セブルスが審判を申し出れば「グリフィンドールを優勝争いから離脱させようと画策してのこと」だと疑い断固として反対するだろう。それならば。
「私の方が適任だと思わない?私はあなたほどにスリザリン贔屓じゃないから他の先生方も前回の試合のような事故≠フ再発防止だといえば認めてくれるんじゃないかしら。あの箒の暴走が闇の魔術によるものだということは教員なら誰でも分かることよ。それにあの試合で狙われたのはあなただし、前回あなたに火をつけた人間がまたあなたのことも狙うかもしれない」
「…俺を囮に使おうと、そういうことか」
「言い方が穏やかじゃないけれど、簡単に言えばそういうことね。ダンブルドアがやっていることと同じだわ」
フンと不満そうに鼻を鳴らしたセブルスはの膝に図書館の本を放り投げて物憂げに腰を上げた。
「それならばその本でも読んで勉強しておけ。俺はさっき仕上がった薬品を倉庫に置いてくる」
「ええ、行ってらっしゃい」
セブルスとは対照的に満足そうに微笑んだは明るく手を振って部屋から彼が去っていくのを見ていた。バタンを扉が閉まったのを確認してから、大慌てで『クィディッチ今昔』のルールの章を開く。
もう15年ほど箒には触れていないし、クィディッチを楽しむような心の余裕もなかった。姿現しさえできれば移動手段として箒など必要なかったし、元々クィディッチがそこまで好きだったわけでもない。ハリーのため、ダークサイドの人間を炙り出すため。そうは言いつつもの心には途端にうんざりするほどの重荷が圧し掛かった。
2ページほど読み進めてから、落ち着かない気持ちでベッドから立ち上がる。
取り敢えずはフーチのところへ行こう。そう決めては一人で研究室を飛び出した。
「聞いたか、今度の試合はが審判らしい!」
「冗談じゃないぞ!俺らが勝ったらスリザリンの優勝が遠退く…あいつ、絶対ハッフルパフを贔屓するぜ!」
今週末のグリフィンドール対ハッフルパフ戦で・が審判を務めることになったという噂はあっという間に城中に広まった。フーチはの申し出を聞いた途端意味が分からないといった顔で頑なに拒否しようとしたし、マクゴナガルを説得させなければ恐らくこの計画はあっさりと砕け散っていただろう。
前回の試合でハリーの箒に呪いをかけられたということにはマクゴナガルも当然気付いていた。だがダンブルドアがクィリナスへの疑いを打ち明けているのはとセブルスだけのようで、何者がハリーの命を脅かそうとしているのか考えあぐねていたマクゴナガルはやはりスリザリン寄りの彼女が審判を務めるなど不服そうにも見えたが、ジェームズとリリーの親友であった彼女が彼らの息子を護りたいというのだから渋々との申し出を受けるようにフーチを説得してくれたのだ。
は夜も更けてからこっそりと競技場に乗り出して飛行術の練習に勤しんだ。心配していたほどには箒に乗った感覚を忘れていなかったのでホッと胸を撫で下ろしながら月の見えない星空を見上げる。もうすぐ新月だ。リーマスが最も、安心できる夜。は競技場の観客席にそっと降り立ってぼんやりと天上を眺めていた。
リーマス、元気にしてるかな。彼を心配できるような立場にはないと、分かってはいるけれど。
会いたいと、何度か思った。最後に会ったのは…そう、10年前か。ロングボトム夫妻を見舞おうと訪れた聖マンゴ病院で、やつれた姿の彼とすれ違った。あの頃既に、彼の気持ちは私から離れてしまっていた…。
当然だ。私はそれだけのことをしたのだから。
はあの夜以来、ゴドリックの谷を訪れたこともなかった。どうしようもなく恐ろしかった。彼らの墓と対面することで、自分の犯した罪がより明白になるのが怖かった。彼らは永遠に喋らないのだ、笑わないのだ。そうさせたのは自分なのだと突きつけられるのが怖かった。
ピーターは勲一等マーリン勲章を授与され、その指だけが母親のもとに返されたという。そんなもの、慰めにも何にもならない。彼は死んだ。私の愛した唯一の男によって殺され、みんなもう、永遠に戻らない。
全て、私が。
零れ落ちた涙をそっと拭って、は再び箒に跨って夜の闇へと舞い上がった。凍えるような空気の中、もう少しだけ、と箒を飛ばす。禁じられた森を見下ろした時、はここに置いてきた風変わりな友のことを思い出した。
日本から私が連れてきた、あの蛇。
あれからもう、10年以上経ったのだ。まさかもう、生きてはいまい。
本当は、彼の陽気さに触れたかった。何も考えていない単細胞の彼に話を聞いてもらいたかった。意味が分からないとか、悩むなんてバカだとか。そう言って明るく笑い飛ばしてもらいたかった。
最低だ。都合のいい時ばかり頼って、時が経てば忘れてしまう。彼は可愛い蛇≠ニやらを見つけることができたのだろうか。
動物もどきの力は今では必要ないし、パーセルタングも使うことがない。今更思い出したところでどうしようもできない。何度か軽く頭を振り、は真っ直ぐに箒置き場へと降り立った。
試合当日の朝、はいつもより随分と早く目が覚めた。たかがクィディッチの試合だといくら自分に言い聞かせても、やはり慣れない事態に直面すると緊張するものだ。セブルスはそんな彼女のために既に薬を用意してくれており、は心底彼に感謝しながら一気にそれを飲み干した。噎せ返りそうになるくらい不味かったことを考えると、効果は十分にありそうだ。
「異常があればすぐに守護霊で知らせろ。俺がお前の伝言の通りに動く」
朝食を終えて研究室に戻った時、セブルスはにそう念を押した。
試合中に少しでも異常を発見すれば互いにどうやって連絡を取るか。随分と頭を悩ませた。全生徒と職員が見ている前では目立つ連絡手段は使えないし、かといって知らせたいことが伝わらなければ意味がない。悩んだ末、2人は無言呪文で守護霊を飛ばすことに決めた。通常使用する守護霊は有体でなければほとんど無意味だが、ほんの連絡手段ならば霞程度の呪文でも十分にその目的を果たすことができる。むしろ有体の守護霊など飛ばせばよほど注目を集めてしまうだろう。は小さく微笑んで「分かってるわ」と答えた。
が競技場に着いた頃には既に観客席は全寮の生徒でいっぱいだった。セブルスはクィリナスが不審な動きを見せればすぐに対処できるように教職員が集まっている座席に一人で腰を下ろしている。もまた、どの教師がクィリナスの共犯者であったとしても見逃さないようにと全ての教職員の位置をざっと確認した。
その時、随分と驚いた。普段は決してクィディッチ観戦などに来ないはずのダンブルドアが、暖かい恰好をしてニコニコと笑いながらマクゴナガルの傍らに座ったのだ。
どうして。私とセブルスの監視では頼りないとでも。
今回の試合で2人が取る行動についてはきちんとダンブルドアにも報告した。それならば安心じゃと言ったのはどこの誰だ。は沸々とダンブルドアへの不満が込み上げてくるのを感じた。それはセブルスも同じだったようで、遠目に見ても彼が不機嫌そうに顔を顰めたのが分かる。
ピッチにグリフィンドールの選手たちが入場してきた時、はその怒りをそのまま彼らに向けた。
「遅い!早く定位置に着きなさい!」
あからさまに不満タラタラのグリフィンドール生たちがハッフルパフの選手と向かい合う形で並ぶ。は双方のキャプテンに握手するようにと言い、さっさと4つのボールを空中へと放した。
は空高くに舞い上がったハリーの箒から長時間目を離さないように留意しながらクアッフルとブラッジャーの行方を追った。ウィーズリーの片割れが打ってきたブラッジャーに危うく落下させられそうになり、ハッフルパフにペナルティシュートを与えるとグリフィンドールの観客席からブーイングが飛んできた。あいつら後で、減点してやる。
はそれからも何度かハッフルパフにペナルティシュートを与えた。予想以上にボールの動きを把握するのが大変でとても上空のハリーを監視するまで手が回らなかったのだ。ペナルティシュートを与えれば僅かだがハリーの姿を確認する時間ができる。だが何度か故意にこちらに向けてブラッジャーを打ち込んできたグリフィンドールにペナルティシュートを与えるつもりはさらさらなかった。
ウィーズリーがハッフルパフのシーカー、ディゴリーに向けてブラッジャーを打ったのを確認した時、ジョーダンの悲鳴じみた実況が聞こえてきた。
「おお!ポッター、スニッチを見つけたか!」
ハッとして顔を上げると、上からハリーがほとんど真っ逆さまにこちらに向けて箒を飛ばしている。あまりのスピードに一瞬呆然としてしまったはこのままではぶつかると判断し、急いで箒の向きを変えた。
ハリーが彼女のすぐ脇を通り抜けたその時。は耳元を掠めた紅の閃光に気付いてゾッとするものを感じながら振り向いた。
すぐそこに、スニッチを掴んだ手を意気揚々と掲げたハリーの姿がある。は目の前に、ジェームズを見た。
耳を劈くような歓声がスタンドからあがり、ハリーはピッチに飛び降りた。グリフィンドールの選手が次々とグラウンドに降り立ち、あっという間にハリーを取り囲んで誰もが飛び跳ねている。はかつての親友を眼前の少年と完全にダブらせてしまった自分にひどく憤りを感じ、歯噛みしながら彼らの側に着地した。スタンドからも生徒たちが飛び出してきて、赤いユニフォームの選手たちを囲む。
優雅にグラウンドに降り立ったダンブルドアもまた、ハリーの肩に手を置いて微笑んでいた。
は苦々しげにピッチに唾を吐き、急いでスタンドのセブルスに視線を走らせる。腕を組み唇を引き結んだ彼も視線だけで軽く合図を送り、2人はほとんど同時に競技場を去った。