ハリーに釘をさしたその日の晩も、とセブルスは手分けして城内の巡回を行った。あれ以来2人を見るハリーの目はますます不審に満ちたものになり、はこれもあの子のためなのだと自分に言い聞かせることでそれに耐えていた。

 セブルスは最上階から下へ、は最下階から上へ。クィリナスのオフィス周辺を念入りにチェックしてから、はグリフィンドール塔を目指して1階ずつ上へ上へと階段を上がっていった。

 まさか2日も続けて寮を出たりはしまいが。おまけに今日の昼間に釘をさしたばかりなのだから。

 5階の廊下を静かに歩いていると、向こうで何かが動くように感じては右手の杖をそっと掲げた。ルーモス呪文で照らし出された廊下に現れたのは、痩せこけた出目金のミセス・ノリス。巡回中に彼女と出会うのはよくあることだったが、フィルチに何か報告がある際の彼女の目はいつもより爛々と光っている。今夜もその兆候を見せたミセス・ノリスには穏やかに語りかけた。

「こんばんは。ねえ、何か怪しいものでも見つけたのね?」

 少しだけ足を止めたミセス・ノリスは探るようにを見上げてきたが、ツンとすました様子でふいと彼女から視線を外し、さっさと背中を向けて消えていってしまった。

 ふうと小さく息をつき、恨みがましく呟く。

「何よ。教えてくれたっていいじゃないの」

 学生時代に階段から突き落としたこと、まだ恨んでるのかしら。

 大抵の教師の言うことは渋々ながらも聞き入れるフィルチもミセス・ノリスも、この城に就職してから10年経つ今でもだけは学生時代のまま目の敵にしていた。あれだけ好き勝手に暴れ回ったのだから仕方のないことかもしれないが、協力してくれないと把握できるものもできなくなってしまう。はミセス・ノリスが発見した何か≠見つけ出すために先ほど彼女がやって来た方向へと急いだ。

 そこから先の教室は一つ一つ確認して回ったが、特に不審なものは見つからない。首を傾げながらも、は廊下の奥の魔女の胸像の前で足を止めた。

 巡回の際、いつもここを通ると胸が不快にざわついた。シリウスとの、今となっては苦い思い出の贈り物が入っている。は溜め息雑じりに胸像の脇の壁をそっと撫でてから、振り切るように足を踏み出した。

 最後の教室を覗き、その奥に立て掛けてある見慣れぬものに思わず目を奪われる。今までここにこんなもの、なかったはずなのに。

 壁際に積み上げられた机と椅子。逆さにしてあるゴミ箱。数年前から使われなくなった教室だ。は学生時代にこの教室を古代ルーン語の授業で使用していた。シリウスと隣り合わせに座ったり、時には距離を置いて座ったり…。

 がいるのとは反対側の壁に寄せて置かれた背の高い鏡へと、彼女はゆっくりと歩み寄った。死喰い人時代に嫌というほど怪しい魔術用品を目の当たりにした経験から、安易には近付かないようにと気を配る。金の装飾豊かな枠には2本の鉤爪状の脚がついていた。

 けれど前方を照らしながら鏡の中をそっと覗き込んだは、その中に映し出された光景に無言の悲鳴をあげた。

     何をしている」

 上から下りてきたらしいセブルスが教室の中に蹲るを見つけて不審そうに声をかける。は答えず、取り落とした杖もそのままに呆然と目の前の鏡面を見つめていた。

、どうした     

 彼女に歩み寄ったセブルスもまた、鏡を見つけてその場に立ち尽くす。は瞳から溢れ出す涙、全身に迸る震えを止めることができなかった。

 だって、そこにいるのは。

「…何、どうして…これは、何…?」

 やっとのことでそう呟いたに、手をかざしたセブルスが囁く。

「…聞いたことがある。『みぞの鏡』だ。心の奥底にある最も強い『のぞみ』を見せるという」

 心の奥底にある、最も強い望み。

 ああ、私という人間は。

 そこにはかつての親友たちに囲まれて笑う、自分の姿があった。あの頃のままじゃない。31歳の私と、11歳のハリーを抱き締めたジェームズとリリー。やはり大人になったピーター。穏やかに笑うリーマスと      私の肩を抱く、31歳のシリウス。

 こんな、残酷な。

 彼らの未来を奪ったのは、私だというのに。

 鏡の中の友人たちは、私を恨んでなんかいない。

 大きく震える彼女の肩をそっと抱き寄せて、セブルスが言った。

「見るな。ここを出るぞ」

 はセブルスの手を払い除け、床に両手をついてぎゅっときつく目を閉じた。

「…あ、なたは?」

 眉を顰めたセブルスが、彼女の傍らに片膝をついてまたの肩に手を回す。

「…あなたには、何が見える?」

 立ち上がったセブルスはの腕を引いて無理やり立たせながらフンと鼻を鳴らした。

     何も。行くぞ」

 もっとそれを見ていたいという思いと、罪悪感に押し潰されそうな重みと。セブルスに強く引かれてやっとのことで教室を出た時には、氷のような冷気と蒸し暑い熱気とに苛まれは倒れ込むようにセブルスの腕の中に収まった。頭が、ガンガンする。震えが止まらなかった。

「…今日は、もういい。部屋に戻るぞ」

「…で、も」

「大人しく俺の言うことを聞け」

 ぴしゃりと言い放ち、セブルスはの肩に手を回して彼女を地下まで連れて戻った。彼は途中で出会ったフィルチに残りの巡回を任せる。地下の廊下に飾られた数少ない絵画の一つの脇を通り過ぎる時、2人は甲高い呼び声に引き止められた。

「ああ、先生!スネイプ先生!」

 顔を顰め、セブルスが振り返る。すぐ側の絵画にはグリフィンドール塔の太った婦人がいて、彼女は慌てた様子でまくし立てた。

「あら、先生!どうかしたの?顔が真っ青よ!」

「用件は何かね」

 冷ややかに問い掛けたセブルスに、婦人はあたふたと声をあげる。

「え、ええ、先生に頼まれてましてね。夜中に誰かがグリフィンドール塔を抜け出すことがあれば先生かスネイプ先生に報告するようにって。随分と探したんですよ!」

 片方の眉をピクリと上げ、セブルスは太った婦人に訊き返した。

「ほう?つまり、愚かなグリフィンドール生がこんな時間に城内をうろついていると?それは一体誰かね」

「そ、それが…誰かまでは分からないんです。何も見えないものですから。でも入り口が開いたのは確かです!先生にも昨日そのことはお伝えしました!」

 セブルスが視線を落とすと、ゆっくりと顔を上げたは太った婦人に向けて力なく笑んでみせた。

「…ありがとう、レディ。今日はもういいわ。これからも…報告、お願いね」

「え、ええ、もちろん。でも本当に、大丈夫?」

「…気にしないで。戻ってちょうだい」

 の言葉に不安そうな顔をしつつも太った婦人は額縁の中から消えた。

 を私室のベッドに横たえながら、セブルスが小さく息をつく。

「ポッターの監視でもさせていたのか」

 まだ鏡の中の光景が頭から消えないは、身震いしてから布団の上で一度寝返りを打つ。

「…ええ。あの子なら…平気で夜中に外を歩き回るだろうと思ったから」

「あの男の息子だからか」

「…そうね、それが大きいんでしょうね」

 微かに笑いながらも、涙が止まらなかった。ジェームズ。ごめん、ごめんね。

 本当ならあなたは今頃、自分によく似た息子を誇らしげにホグワーツに送り出していたんだろうに。

「姿が見えないというのは?奴は何かそういった魔法道具を持っているのか」

 は泣き顔を見られないようにと鼻先を布団に押し付けながら頷いた。

「…うん。まだ確証があるわけじゃないけど、恐らく間違いないと思う。ハリーは、透明マントを持ってるの」

 チッと舌打ちし、セブルスが眉根を寄せる。

「透明マント?だとすれば面倒だな。まさか…あの男の物なのか?」

 セブルスの口からジェームズの話題が出ると。少なからず胸が締め付けられる。彼はジェームズと憎悪をぶつけ合う間柄だったからこそまだましだったけれど。もしもリリーのことがなかったとしても、2人は互いにいがみ合ったろう。ジェームズへの愛情を感じさせる誰かがすぐ側にいないことだけが救いだった。それなのに。

 ハリーの入学は、セブルスにとってもにとってもあまりに辛すぎた。

「…そう。あれはジェームズのものよ。多分…ゴドリックの谷からダンブルドアが持ってきていたんだと思うわ」

 それを使ってお前も奴らの厄介な悪戯に一枚も二枚も噛んでいたわけか。そう皮肉ろうとしたセブルスは震える彼女を見てあっさりとそれを断念した。

 軽くの頭を撫で、ベッドから立ち上がろうとしたセブルスの腕を彼女が勢いよく掴む。

 何も口にしなくとも。彼女がどれだけ不安に襲われているのかは痛いほどよく分かる。甘え癖があるわけでもない、恋人でもない自分をこうして引きとめるのは彼女がよっぽど押し潰されそうな時だけだ。鏡の中に何を見たのか、そんなことは容易に想像がつく。

 覆い被さるようにベッドに身を横たえたセブルスはの唇に口付けを落としてから彼女の背を抱き寄せた。

 涙を流しながら、がそっと口を開く。

「…セブルスは、何が見えたの」

 もう一つキスを絡め、セブルスは薄い瞼の下から目の前のの黒い瞳を覗き込む。

「何も見えなかったと、言ったろう」

 嘘、と言いかけた彼女の言葉は、セブルスの唇に吸い込まれていった。ぎゅっときつく目を閉じて、ただ彼に身を任せる。

 こうしてあらゆることを忘れようとしなければ。それはあまりにも重過ぎる。








 ごめんなさい、シリウス。