11月に入ると外は一気に冷え込み、石造りの地下室は城の中でまず一番にその打撃を受けた。それでも温度管理が困難なために倉庫や教室にはまず火を入れない。大鍋にかける炎で指先を温めながら生徒たちが調合を進めるのを眺め、はゆっくりと教室を回った。
「そこ、ストップ」
鍋の中に砕いた石を入れようとしていたハッフルパフの1年生の後ろ姿に鋭く声をかける。ぎくりと身を強張らせた少年の手から零れ落ちた石の欠片が大鍋の液体に落下した時、物凄い爆発音とともに白濁した煙が噴き出した。
「全員目を閉じて口を塞ぎなさい!」
片方の腕で顔面を覆い眼球と喉を護りながら、は取り出した杖を振ってすぐさま辺りに立ち込める煙塵を取り払った。後に残ったのは、咳き込んだり目を押さえて喚く生徒たちと、憤りに顔を歪めたセブルス。
「だから言ったでしょう!反応を促進し過ぎないようにライマール石はほんの少しにしなさいと!煙を吸い込んだ者、目をやられた者は全員並びなさい、一時的に痛みを抑える薬を与えます。授業の後には念のため医務室に行くように」
大鍋を爆発させた張本人であるフィンチ−フレッチリーを睨み付けてから、はセブルスと棚から取り出した該当の薬品で生徒たちに処置を施した。お陰で随分と時間をロスしてしまい、授業が終わるまでに調合しきれない生徒が続出した。
うんざりした様子で、セブルスはこう締め括った。
「本日の調合に関して注意点を5つ挙げながら論じたレポートを課す。長さは60センチ、締め切りは金曜の5時だ」
不満げな顔をしながら生徒たちは早々に教室を去っていく。はセブルスとチラリと目を合わせ、大袈裟に溜め息をついた。NEWTレベルのクラスはあんな爆発を決して起こさないので、複雑な調合であることを考え合わせても楽な授業だ。
片付けを済ませて研究室に戻る途中、後ろから追いかけてきたスリザリン生に呼び止められた。
「先生、今週の木曜日にクィディッチの競技場を使いたいのですが」
引きずっていた足を止め、振り向いたセブルスが気だるげにフリントから一枚の羊皮紙を受け取る。
「分かった。今日中にはどうにかしよう」
「よろしくお願いします」
愛想笑いを浮かべ、フリントは軽く頭を下げて去っていった。冷え冷えするこの季節はクィディッチ・シーズンの到来を知らせており、今週末の土曜日は第1試合であるグリフィンドール対スリザリン戦だ。はどちらに肩入れしているわけでもなかったが、スリザリンの寮監であるセブルスと共に観戦に行くことが決まっていたので表向きはスリザリンを応援していた。
尤も、今では生徒の誰もが彼女をスリザリン出身だと信じて疑わないのだ。今更グリフィンドールの応援でもしようものなら全生徒の不興をさらに買うことになろう。
グリフィンドール・クィディッチ・チームの秘密兵器として、ハリーのことは一応極秘≠ニいうのがマクゴナガルやウッドの作戦だったが、なぜかその極秘≠ヘとっくに漏れていた。スネイプに暴露したのではとマクゴナガルにしつこく詰め寄られた時にはひどくうんざりした。
「ねえ、やっぱりマダム・ポンフリーに相談すべきよ」
ソファの上に身を横たえ、膝までガウンを捲し上げたセブルスの左足から赤く染まった包帯を解きながらは息をついた。どれだけ魔法で止血しようとしてもジワリと滲む血は抑えられない。ハロウィンの翌日にははハグリッドを訪ねて三頭犬の牙の毒性について訊ねてみたが、その効果的な処置法は彼にもさっぱり分からないというのだ。いくつか役立つであろう薬草については教えてもらったが、それもほんの気休め程度にしか過ぎない。
「飼い主本人が対処できないものを校医がどうにか出来るとは思えん」
「あなたマダムを過小評価し過ぎなんじゃないの?」
「とにかく、俺は行かん。いずれ治まるとハグリッドが言ったんだろう?だったら放っておけばいい」
「ああそうですか。後で大変なことになっても知らないから」
軽く舌を出してセブルスを睨み付けてから、は汚れた包帯を小さく畳みながら立ち上がった。机に着き、スプラウトに分けてもらった殺菌効果のある薬草を磨り潰す。
はセブルスのところまで戻ってそれを傷口に擦り込んだ。僅かに顔を顰めたセブルスが、黒い眼球を瞼の裏に押し込む。
ハロウィンの夜のことはダンブルドアにも話をした。クィリナスがトロールを入れたのだろうということ。彼が石を狙っているであろうことはまず間違いないこと。ダンブルドアは全て予測していたかのように徐に小さく頷いただけだった。
今夜もまたセブルスのためにスプラウトから薬草を貰ったは、重い肩を拳で解しながら地下室に向けて階段を下りていた。何だかんだと憎まれ口を叩いても、結局のところ彼は良き相棒なのだから。
だがその途中で気になる姿を目撃してしまい、は無意識のうちにさっと側の甲冑の陰に隠れた。ハリーは一人で職員室に向かっているようだ。は悩むことなく後をつけた。ハロウィン以降、向こう見ずな行動をとることが明確になったハリーへの監視の目は、セブルスとの話し合いでそれまで以上に厳しいものにしようと決めたのだ。
寮にいるはずの彼が、こんな時間に何だろう。
見たくない。彼の姿なんて。悪夢のような過去を思い出すだけ。そうは思っても。
また一方で、ジェームズに会いたいと思ってしまう自分がいる。リリーの瞳に笑いかけて欲しいと願う自分がいる。
情けないとは思っても。人間なんて矛盾だらけで。
やはり職員室の前でハリーは足を止めた。はまた石像の脇に避け、しばらくその姿を静かに見守っていた。ああ、ジェームズ。でも彼にしてはあの尊大な態度がほとんど見えなくて。やはり別人なのだとぼんやりと思った。
ハリーがドアをノックしたが、中から反応はなかった。誰を探しているんだろう。このまま部屋に帰ろうか。そう思いつつ気付くと彼女の足は職員室に向けて歩き出しており、が彼の背中に声をかけようとしたその時。
「ポッター!」
突然職員室の中からセブルスの怒号が聞こえ、ハリーだけでなくもまた驚いて飛び上がった。
「本を返してもらえたらと思って」
「出て行け、失せろ!」
元来た道を駆け出したハリーはすぐ後ろまで来ていたに正面から激突した。不意を突かれたは僅かによろめいたが、やはり相手はまだ小柄な少年なのですぐに態勢を立て直す。ショックを受けた顔をしたハリーは慌てて何やらもごもごと呟いたが、あっという間に矢のように走り去っていった。
逃げ足の速さは父親譲りか。
胸中で呻き、はゆっくりと職員室のドアを押し開けた。中にいたのはセブルスとフィルチだけで、包帯を手にしたフィルチはうろたえ、セブルスは怒りに表情を歪ませていた。
「…どうかした?ポッターが大慌てで逃げていったようだけど」
が後ろ手にドアを閉めながら訊ねると、セブルスはフィルチから包帯を受け取り、「後は自分で済ませる。帰っていい」と告げた。オロオロしながらも、フィルチはジロリとを睨んでから大人しく職員室を出て行った。
ガウンを膝までたくし上げ、剥き出しの傷口をセブルスが顎で示す。
「…奴に見られた」
「やだ、こんなところで手当てするからよ。スプラウト先生からまた薬草貰ってきたから、帰ったら擦るわ」
「頼む」
「ところで本って何?」
セブルスは答えなかったが、その黒い瞳が彼の机の上にある一冊の本を一瞥した。『クィディッチ今昔』。もこれを2年生の時、未知のスポーツを知るために読んだ。そうだ、彼がクィディッチ・チームのシーカーに抜擢されてから。
「あなたがこんなものを読むの?それとも意味もなくポッターから取り上げたとか?」
「うるさい」
不貞腐れたように短く吐き捨て、セブルスが負傷した左足に無造作に包帯を巻きつける。地下室に戻ってからはまたいつものように磨り潰した薬草をセブルスの傷口に当て、丁寧に新品の包帯を巻いた。
翌朝暖かいベッドの中で目を覚ましたは、布団から突き出した顔を撫でる冷気に少なからず身震いした。こんな朝は布団から抜け出すのも億劫だ。ベッドの上でグズグズとしているに、部屋のドアを押し開けたセブルスが容赦なく言い放った。
「起きろ。競技場に行かないのか」
「んー…もう、少し。あと5分…」
「あと5分と言ってお前が5分で起きたためしがない。諦めて起きろ」
「うう…セブルスのいけず…」
「どうでもいい。さっさと起きろ」
どうでもいいという言葉は嫌いだ。でもそれがセブルスの口から飛び出すとなぜか。不快ではない。
は枕を抱えて呻いたが、セブルスは無慈悲にもばさりと彼女から布団を剥ぎ取った。突然全身を襲った凍えそうなほどに冷えた空気に思わず悲鳴をあげて飛び起きる。
「なっにするのよ!」
「早く着替えろ。朝食を取るつもりがないのならば別だが」
「あー分かった、着替えるから!セブルスの馬鹿、さっさと出て行け!」
安眠を妨害された腹いせに勢いよく枕を投げつけたが、セブルスはあっさりとそれをかわして寝室を出て行った。苛々と髪をかき上げ、観念してベッドからノロノロと下りる。顔を洗って、歯を磨いて、寝巻きを脱ぎ捨てて暖かい服を被る。
鏡の前に座ると、虚ろな黒い目をした女が無気力にこちらを見つめている。昔は若さ故に保つことができた皮膚の艶も、ここ数年で随分とくすんできた。取り立てて飾りたいとは思わないけれど、この顔色の悪さだけは隠したい。
この素肌さえもセブルスは目を逸らさずに真っ直ぐ見てくれる。時折びっくりするくらい優しく触れてくれる。でもそれも全て。
そんな彼を、私は責めることが出来ない。私自身がそう、愛しているから彼に抱かれるわけじゃないもの。それはもう、私たちの暗黙の了解。
いっそあの人を忘れて心の全てをセブルスに委ねられたら。どれだけ楽だろう。せめてもの救いは、彼もまた私を愛してはいないということ。
11時には学校中がクィディッチ競技場の観客席に詰めかけていた。教職員が固まっている付近に空いているスタンドを見つけ、とセブルスは並んで腰掛ける。学生時代はよくこの向かいのスタンドで観戦したものだ。少し離れたところにクィリナスもいることを確認し、はぼんやりと競技場を見渡した。
ようやく選手たちがグラウンドに出てくると、客席から一斉に歓声があがった。は数回手のひらを打ち合わせたが、セブルスはめんどくさそうに首を捻っただけだ。普段はもセブルスもクィディッチの試合など見に来たりはしない。今年は念のため、ハリーを監視するためだけに競技場に足を運んだ。
彼がどんな飛行を見せるのか。考えただけでもうんざりした。悲惨なプレーを繰り広げてくれたなら、笑って済ませられる。けれど。
フーチの銀の笛が高らかに鳴り響き、15本の箒が空高くへと舞い上がった。
ハリーはあっという間に遥か上空まで上がり、豆粒ほどに小さくなった。チェイサー、ビーター、キーパーの喧騒を見下ろしながら、目を凝らしてスニッチを探しているらしい。は首を反らしながらジッとその点だけを見つめていた。今日の仕事はハリーの監視だ。試合の成り行きなどどうでもいい。セブルスも同じことを考えているようで、ブラッジャーやクアッフルの行方など完全に無視してほぼ天上を見上げている。
ジェームズも同じような作戦に出ることがあったけれど、基本的に彼は人を喜ばせるのが大好きだった。スニッチを探しながらも観客を楽しませることを忘れない。それでもしっかりスニッチを掴む余裕を見せる彼の姿に惹き付けられた女子生徒は星の数ほどにいた。
やっぱり彼は、ジェームズとは違うんだ。
当たり前なのに。もう彼は、この世にいないんだから。
「ちょっと待って下さい あれはスニッチか?」
ジョーダンの実況中継に観客席がざわついた。途端に、今までグルグルと上空を飛び回っていただけのハリーが一直線に急降下する。その動きを見て、は目を見張った。
同じだ ジェームズと。胸の鼓動が奇妙に脈打ち、の目はヒッグズと競りながら矢のように落ちてくるハリーに釘付けになった。
胸元で握り締めた拳が汗ばむ。身体が、凍りついたように動かない。ジェームズがいる は思わずきつく目を閉じた。
すると突然、向かいの観客席から非難の声があがった。
「反則だ!」
視界に映ったのは、やっとのことで箒にしがみ付いているハリー。フーチがフリントに厳重注意を与えているのを見て、はすぐに状況を理解した。
「退場させろ!審判、レッドカードだ!」
レッドカード、か。久しく聞いていなかった単語。どれくらいだろう。もう、20年ほどになるか。そう考えると何だか不思議な気持ちだった。
もしも私がホグワーツの入学許可証を受け取っていなかったら、私はどんな人生を歩んでいたのだろう。マグルの町で、マグルの学校に通って。中学に行って、高校に入学して、大学生になって。今頃どこかのOLでもやって、毎日を平凡に生きていたのかも。どれだけ帝王が私を探し回ったって、ダンブルドアの見つけた魔法がずっと私を護ってくれていたのだから。
そうすれば私は今でも、父さんと一緒に。
いや は胸中で首を振った。
いずれ私は母のことを父に追及しただろう。そして母の正体を知ればやはり母と同じ道を歩みたいと思ったろう。私はイギリスにやって来て、やがて帝王と出会っていただろう。
セブルスのいない人生なんて考えられない。ジェームズ、リリー、リーマス、ピーター、それに。
シリウスのいない、人生なんて。
彼らに出会ったのはきっと必然で。私が生きるためにはホグワーツのみんなが必要だった。
感慨にふけるを現実に引き戻したのは、セブルスの低く鋭い声だった。
「!」
ハッとして顔を上げ、セブルスの視線の先を追いかける。視界に飛び込んできた光景に、は愕然とした。
観客たちはそのほとんどが試合の流れに注視しているために気付いていないようだが、上空の遥か彼方に浮かぶ一つの点が。明らかに異常な動きをしている。はセブルスの腕に軽くしがみ付きながら僅かに上擦った声をあげた。
「あ、あれは…ハリーよね?」
「見れば分かるだろう。それに あれを」
探るように振り向いたセブルスが見つめているのは、スタンドの後ろの方に立っているクィリナス。さり気なく口元を袖で覆ってはいるが、その瞳は真っ直ぐに上空のハリーを見つめている。
「まさか そんな…!」
クィリナスが、本当に。次の言葉を飲み込んでうろたえるに、セブルスはきつい口調で囁いた。まだ観客はハリーの箒の異常に気付いていない。
「俺が反対呪文で食い止める。その間にお前は奴をどうにかしろ」
「どうにかって…」
が言い終えるよりも先に素早くセブルスは小声で呪文を唱え始めた。肩を竦め、は腰を低くしながらそっと席を立つ。観客がようやくハリーに気が付いた時には、既に彼の箒は完全に自制を失ったようにグルグル回ったり荒々しく揺れていた。
クィリナスはハリーに呪文をかけるのに集中していて、少しずつ近付いていくこちらには全く気付いていない。どうやって自然と彼の意識を逸らせるか考えているうちに、は向こうから物凄い勢いで疾走してくる女子生徒に気付いて思わず足を止めた。
髪を振り乱し、厳しい形相で駆け寄ってくるグレンジャーがクィリナスを見事に薙ぎ倒し、彼女は自分の進路を塞ぐように立っていたの腕にも乱暴にぶつかった。は少しよろめいたがどうやらグレンジャーには何も見えていないようで、彼女は立ち止まりも謝りもせずにスタンドの奥へと突き進んでいった。減点にでもしてやろうかと振り向いたが、今はそれどころではない。前方に向き直ると、の目には前の座席に頭から突っ込んだクィリナスの間抜けな姿が飛び込んできた。
慌てて上空を見上げる。そこには片手一本でやっと箒にしがみついていた形だったハリーが再びその柄に跨って真っ直ぐに飛び始める姿が見えた。良かった 助かった。
だがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は先ほどまでが座っていたスタンドの周辺から鋭い悲鳴があがった。何事かと振り向いた時、ちょうど青い何かが入った小さな空き瓶を胸元で抱えたグレンジャーがサッとの脇を通り過ぎていった。
「先生、燃えてますよ!」
のすぐ前の座席だったベクトルが素っ頓狂な声をあげている。急いで戻ると、は辺りが何だか焦げ臭いことに気付いた。スタンドではセブルスが憤然とした表情で足元を見下ろし、周りの教授たちはひどく不可解な顔をしている。だが他の観客席から突然どっと歓声があがり、誰もがグラウンドに視線を戻して拍手したり大声で歓喜を表していた。試合は終わったようだ。
「セブルス、どうしたの!」
駆け寄ったに、苛々と眉根を寄せたセブルスが唸る。
「…後で話す。後で…」
「 やだセブルス、それ何!」
彼の足元を見下ろし、はようやく気付いた。焦げた臭いの原因はセブルスのマントだ。僅かな灰と、ボロボロになったマントの裾。
「知らん…戻るぞ」
吐き捨てるようにそう言って、セブルスは大股に踵を返した。は追及する間もなく、急いで彼の後に続いた。
やっと起き上がったらしいクィリナスがずれたターバンを直している脇を通り過ぎる。はその時セブルスが物凄い形相でクィリナスを睨み付けるのを見た。
クィリナスの顔が、ほんの一瞬で凍りついた。