4階の例の部屋への何者かの侵入とハリーの寮からの外出報告を受けては夜間の警備の強化をダンブルドアに提案したが、彼は三頭犬と教師たちの trap を信用してその案を却下した。

 ダンブルドアらしいといえばダンブルドアらしい判断だが、それで納得するようなとセブルスではない。2人はそれまで交互に一人ずつで行っていた夜間巡回を手分けして同時に実施するようになったし、週に2,3度だった見回りを4,5回にまで増やした。

 だからといって彼らが課題採点の手を緩めたわけではなく、自然と2人の負担は精神的にも肉体的にも非常に重いものとなった。おまけに相変わらずドラコの扱いは慎重にしなければならなかったし、ハリーやネビルと顔を合わせる際に閉心術を使うことでのストレスはさらに増す羽目になった。

 セブルスの調合した疲労回復薬を一気に飲み干し、岩でも圧し掛かったように重い肩を軽く解す。

「あああ…いつもありがとう」

 は空になったゴブレットをセブルスの手に返した。

「ついでだ。お前にしてはよく耐えているようだからな」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 苦笑いして手元の羊皮紙に視線を戻す。今夜の見回りは休みだ。とにかく3年生の採点だけは済ませておかないと。

 あの夜以来、取り立てて大きな事件は起きていない。太った婦人がハリーの夜間外出を報告してきたことも一度もなかった。ピーブズに見つかって懲りたのか。何にせよ、彼が大人しくしているのならばそれで良い。

 そうこうしているうちに2月が過ぎ、ハロウィンの朝、は魔法をかけた時計がけたたましく鳴るよりも先にパチリを目を覚ました。ひどく頭が痛い。毎年ハロウィンの前後はいつもこうだった。夢に見るのだ      親友たちの、最期を。

 実際にその現場を目の当たりにしたわけでもないのにそれはやけに鮮明に瞼の裏に浮かび上がる。壮絶な顔付きで杖を構えるジェームズ、赤ん坊のハリーを胸元でしっかりと抱き締めて身体を張るリリー…緑の閃光と…吹き飛ぶ、ピーター。

 シリウスの高笑いが。鼓膜の奥で鳴り響いた。

 シリウス・ブラックは狂っていると人々は言った。親友を『例のあの人』に売り、友人を惨殺し…笑った、狂人だと。クラウチは裁判も受けさせずに彼をアズカバンに放り込んだ。

 暗黒時代が。私たちをバラバラに引き裂いた。

 全てがあのハロウィンの日に終わり、全てがあのハロウィンから始まった。

 あれから10年。何が変わった?いや      何も、変わっていない。

 私はあの日のまま弱く、セブルスもまた。

 2人の息子がすぐ側にいるのに、私は抱き締めてあげられない。笑いかけることすらもできないでいる。

 そんな資格がないなんて、言い訳。ただ私が      臆病なだけ。

 trick or treat と言って学生時代は遊び回った。宴会の時にはジェームズとシリウスがよく悪戯専門店の商品を使って大広間を盛り上げたものだ。

 ずっと、一緒だった。ジェームズもシリウスも…みんな。

 ハロウィンのご馳走を口に運びながら、はゆっくりと視線を上げた。広間の天井に広がる空は透き通っていて綺麗だ。あの夜も、こんな風に美しい星空だった。

「ねえ…クィリナスはどうしたのかしら」

 世間話でもするかのように表情を崩さず、はそっと隣のセブルスに問い掛けた。空っぽの彼の席を一瞥し、セブルスもまた顔色を変えずにさらりと言葉を返す。

「分からん。だが…どうも、嫌な予感がする」

 彼がほんの少しだけ眉を顰めたのを見て、は口腔のものを飲み下しながらジュースの入ったゴブレットを手に取った。眼球だけを動かして教職員テーブル、そして各寮の長テーブルを大雑把に確認する。ハリーはグリフィンドールの席にいる…とりあえず彼の身は安全だ。

 胃袋が満たされ僅かに眠気が襲ってきた頃、突然大広間の扉をバタンと勢いよく開けてクィリナスが全速力で駆け込んできた。王子さまに貰った≠ニいうターバンは歪み、その青白い顔は恐怖で引き攣っている。は掴んだスプーンを皿の上に戻し、椅子の上で微かに身じろぎした。

「トロールが…地下室に…お知らせしなくてはと思って…」

 誰もが注目する中ダンブルドアの席までようやく辿り着いたクィリナスはテーブルに凭れ掛かって喘ぎ喘ぎそう言い、その場でばったりと気を失った。

 大広間は大混乱になった。貪るようにご馳走に手を伸ばしていた生徒たちはパニックで喚いたり飛び上がったりしている。ダンブルドアが紫の爆竹を何度か鳴らしてようやく静かにさせた。

 セブルスと顔を見合わせ、は眉根を寄せる。ホグワーツにトロール?まさか、考えられない。

「監督生の諸君、すぐに自分の寮の生徒を引率して戻るのじゃ。急いで」

 重苦しい声でダンブルドアが告げると、それぞれの寮の監督生が生徒たちに指示を与え始めた。一方でダンブルドアは教職員全員に、地下に下りてトロールを探すようにと言った。

 大慌てで先生たちが席を立つ中、はセブルスに耳打ちした。

「ねえ、どうする…誰かが入れたのよ、間違いないわ」

「ああ…俺も同意見だ」

 誰か、と言いつつは床に倒れ込んで気絶しているクィリナスを見つめた。セブルスも彼女の視線の先を追い、小さく舌打ちする。揃って大広間を出て行く教師たちの最後尾につきながら、セブルスは声を落として言った。

「お前はダンブルドアたちと地下に行け。俺は4階に向かう」

「セブルス、でも…」

「いいから行け。何もなければ後で合流する」

 セブルスの強い口調に、反対の言葉を飲み込んで大人しく頷く。彼女はそのままマクゴナガルたちの後に続いて階段を下り、セブルスは飛ぶように大理石の階段を駆け上がっていった。

 地下の廊下に下りたったダンブルドアが声を張り上げて全員に聞こえるように告げる。

「手分けして探そう。何人かで組になって…一刻も早く見つけるのじゃ」

 はすぐ側にいたシニストラ、フリットウィック、ベクトルと共に厨房へと続く廊下に向けて走った。けれどトロールの姿はおろかその痕跡すら見つけることができず、階段の前に戻った時には既に他の教師たちも戻ってきていて「どこにも見つからなかった」と誰もが口を揃えて言った。

「何かの冗談なのでは?教授が何かを見間違えたとか」

「そもそもなぜクィレル教授は地下にいたのでしょうね?」

 スプラウトの言葉を受けてが口を開くと、ダンブルドアとマクゴナガルが顔を見合わせて眉を顰める。しばらく何やら考え込んだ後、ダンブルドアははきはきとこう言った。

「念のために上の階も調べてみよう。生徒たちの安全のためじゃ、みんな協力してくれ」

 溜め息雑じりに階段を上がる。は途中で他の教師たちとさり気なく別れ、急いで4階へと向かった。

 だがその途中、手すりに凭れ掛かるようにして階段をゆっくりと下りてくるセブルスの姿を見つけた。

「セブルス!どうしたの     

 慌てて駆け寄り、彼の身体を支える。セブルスはマントで隠した左足を庇うように押さえつけ、苦痛に顔を歪ませ呻いた。

「…あいつだ、クィレルだ。4階にいた…」

「本当に?セブルス…彼にやられたの?」

 が彼の足元に視線を落としながら訊ねると、セブルスは忌々しげに首を振った。

「俺が奴にやられるとでも?三頭犬だ…あれに噛まれた」

「え?一体どういう…」

 だがそれ以上は追及できなかった。傷口に激痛が走ったらしく、呻いたセブルスが手すりにしがみ付いて歯を食い縛る。は彼の肩に腕を回しながらセブルスの重心を自分の方へと傾けた。

「いいわ、とりあえず医務室に行きましょう。話はそれから…」

「馬鹿を言うな。石のこともその trap のことも一部の者しか知らん…こんな傷を校医になど晒せるか」

「変な意地を張るんじゃないのよ!あの犬の歯にどんな毒があるかも分からないでしょう!マダム・ポンフリーなら内密に済ませてくれるわ」

「とにかく     

 その時。階上から何やらとてつもなく大きな衝撃音が聞こえてきた。ハッとして顔を上げる。セブルスは足を庇いながらもの身体から離れ、階段を駆け上がり音のした方向へと走り出した。

「セブルス!」

 彼の跡を辿るように、廊下に点々と血の痕が残る。はそれを跨ぎながらセブルスを追って疾走した。いくら彼が負傷しているといっても元々の歩幅が全く違う。がセブルスに追いついたのは女子トイレの前でマクゴナガルと合流した時だった。

 飛び込んだトイレの中には悲惨な光景が広がっていた。トロールに特有のひどい悪臭と粉々になった洗面台、壁の薙ぎ倒された個室。うつ伏せに伸び上った鈍い灰色の巨体、そしてその側に呆然と立ち尽くしているのは     

 の後ろから現れたクィリナスがヒーヒーと弱々しい声をあげてその場に座り込んだ時、マクゴナガルが口を開いた。その声は冷静だが怒りに満ちていた。

「一体全体あなた方はどういうつもりなんですか」

 杖を振り上げたままの恰好で硬直したウィーズリー。縮み上がったグレンジャー。杖を握った手をだらりとさせて固まった、ハリー。

「殺されなかったのは運が良かった。寮にいるべきあなた方がどうしてここにいるんですか」

 は射るような視線でハリーを睨み付けた。何ていうことを。じっとしていられないのはやはり父親譲りなのか。1年生がトロールを相手にするなんて、どれだけ愚かな。憤りが全身を駆け巡る。

 ハリーが俯くと、グレンジャーが消え入りそうな声で呟いた。

「マクゴナガル先生。聞いてください…2人とも、私を探しに来たんです」

「ミス・グレンジャー!」

「私がトロールを探しに来たんです。私…私、一人でやつけられると思いました…あの、本で読んで、トロールについては色々知っていたので」

 彼女の言葉に、ポカンと口を開けたウィーズリーが杖を取り落とした。ハリーも目を丸くしてグレンジャーを見つめている。彼女が嘘をついていることにはすぐに気が付いたが、は眉根を寄せただけで口を挟むことはしなかった。

「もし2人が私を見つけてくれなかったら、私、今頃死んでました。ハリーは杖をトロールの鼻に刺し込んでくれて、ロンがその棍棒でトロールをノックアウトしてくれました。2人とも誰かを呼びに行く時間がなかったんです。2人が来てくれた時には、私、殺される寸前で…」

 ハリーもウィーズリーも突然その通りです≠ニいう顔を装ったが、はフンと鼻を鳴らして口を開いた。

「誰かを呼びに行く時間がなかった?だからといって自分たちの力でどうにかできるなんて…。命があってこその人生でしょう…3人とも、愚かしいにも程があるわ!」

先生」

 マクゴナガルは静かにをたしなめたが、キッと厳しい視線でグリフィンドールの1年生を見据えた。

先生の仰る通りです。ミス・グレンジャー、あなたには大変失望しました。グリフィンドールから5点減点。怪我がないなら寮に帰った方が良いでしょう。寮生たちが先ほど中断されたパーティの続きをやっていると思いますから」

 グレンジャーは俯き、トボトボと帰っていった。小さく息をつき、マクゴナガルが今度はハリーとウィーズリーに向き直る。

「先ほども言いましたが、あなたたちは運が良かった。でも大人の野生トロールと対決できる1年生はそうざらにはいません。一人5点ずつあげましょう。ダンブルドア先生にご報告しておきます。帰って宜しい」

 やセブルスの目を見ないようにして、ハリーとウィーズリーは足元を見ながら慌ててトイレを出て行った。

 その強烈な臭いに顔を顰めながらもトロールの側に歩み寄るマクゴナガルの背中に、は鋭く言い放つ。

「教授、少し甘やかし過ぎなのでは。彼らの行動は目に余ります。一歩間違えば彼らは確実に命を落としていました」

 振り向いたマクゴナガルが、疲れたように肩を竦める。

「何か、特別な事情があったのでしょう。いずれにしても彼らはああして生き延びました。今回は大目に見てあげましょう」

「ですが     

 声を荒げるを見て、マクゴナガルは僅かに目を細めた。

「もしもあなたがポッターだったとしても…彼らと同じ行動には出なかったという自信がありますか?」

 奇妙に心臓が跳ね上がり、胃が捩れる思いがした。セブルスが視界の隅でちらりとこちらを見た。

     私は、ポッターではありませんから」

 瞼を伏せ、吐き捨てるように呟く。マクゴナガルは何も言わずに懐から取り出した杖でトロールを縛り上げた。

先生、ダンブルドア先生を呼んできて貰えますか?」

「…分かりました」

 軽く一礼し、はセブルスの背中にそっと手を添えた。

「教授、スネイプ先生が少し足を怪我してしまったので、ダンブルドア先生を呼びに行けば今夜はそのまま休ませて頂いても宜しいでしょうか」

「ええ、構いません。それではお願いしますよ」

 セブルスは僅かに抵抗を見せたが、が彼の肩に腕を回してきつく抱き寄せたので、大人しく彼女に寄り添いながら歩いた。先ほど無理をして走ったので出血量が増えている。有り難いことにダンブルドアは2人の前にすぐに姿を現し、はトロールの居場所とそこにマクゴナガルがついていることだけを告げた。

「セブルス、その足はどうしたのかね」

 庇い立てたセブルスの左足を見下ろし、ダンブルドアが眉を顰める。は小さく首を振ってみせた。

「お話はまた後日。まずは手当てをしないと。先生は早くマクゴナガル先生のところへ」

「ああ、分かった。、セブルス、今日はご苦労じゃった」

 ダンブルドアは風のように消え、とセブルスは足早に地下へと戻った。セブルスがどうしても医務室には行かないといって聞かないのだ。はひとまず魔法生物の噛み傷全般に使われる一般的な消毒薬で彼の血まみれの左足を処置した。6階からずっと尾を引いてきた血痕はフィルチに後始末を任せた。彼はの言うことは聞かないが、セブルスには甘いのだ。

「ひとまずこんなところで。でも三頭犬の噛み傷がどんな症状を引き起こすのか…調べてみないとね。医務室に行けば適切な処置を施してくれると思うんだけど?」

「行かんと言っているだろう」

「あなたも頑固ね」

 止血の魔法はかけてみたが傷は存外深く、恐らく三頭犬の歯には何らかの毒性があったのだろう。巻きつけた包帯には既に血が滲んでいた。

「それで…4階にクィリナスがいたというのは本当?」

「ああ。俺が行った時あの廊下の前でウロウロしていた。トロールを探していたらこんなところに出てしまったと馬鹿げた言い訳を」

「それでどうしてあなたが三頭犬に噛まれるの」

「…奴が去ってから、部屋の様子を見に行った。少し目を離した隙に…やられた」

「もう、何してるのよ!命があったのが不思議なくらいね」

「そうは言うが、3つの頭に同時に注意することなど出来るか?」

「出来ないから番犬≠ネんでしょう」

 の言葉に、セブルスは「尤もだ」と投げやりに呟いた。







 ああ、ねえ、ジェームズ。リリー。

 平穏なハロウィンなんて、もう私たちには無縁なんだね。