ついに狂ったか、と思った。
 幼少期に両親を亡くした彼女は、母親の兄という男に育てられた。伯父は実に奇抜な人で、町でも評判の記者だった。もともと裕福な家柄だったため、どれだけおかしな記事をしたためて減給処分を食らっても痛くも痒くもない。それで幸か不幸か伯父の執筆熱は衰えるところを知らず、心の赴くままに筆を走らせ続けた。もっとも、それなりに固定読者がついたので編集長は彼の首を切ることはできなかったのだが。それでも伯父の記事は常に賛否を問われ、物議を醸すことも多かった。
 その伯父がある日突然、帰ってくるなり彼女を書斎に呼びつけて、言った。
「マーシー。俺は今日、ジュジウィック通信に辞表を提出してきた」
 彼女は驚いて目を見張ったが、それもほんの一時のことだった。確かに伯父があれほどすべてを捧げてきた通信社を離れたことは意外だったが、それも伯父のやることだと思えば同時に納得もできた。伯父は人の意表を突くのが好きなのだ。いつもの突拍子もない記事の延長だと思えば逆に頷けた。それに、記事は通信社でしか書けないというわけでもない。伯父ほどの知名度があれば、本でも出せば独力でもそれなりに売れるだろう。元手は問題なくあるのだから、できなくはない。ひょっとしたら自分で出版社を立ち上げるなどと言い出すかもしれない。先回りしてそうした思考を巡らせながら、彼女は伯父の次の言葉を待った。
 だが伯父が続けて口にしたのは、そのどれでもなかった。
「俺は次期ラート長選に出馬する」
 意味を解するまでには、二呼吸以上の間を要した。次期ラート長選。ラート。首都ラート。現ラート長は、ケラン出身のエスコッタ・クウォルド。この十月に任期切れを迎えるため、公募を含めて現在候補者を募っているはずだ。確か。ラートはこの国最大の都市であり、それを治める手腕があるならと候補者はラート在住の者に限られない。だが、だからといって    
「伯父さん?寝言は寝てから言ってくれない?」
「寝てるのはお前だろ。寝てるか起きてるかよく分からんぼーっとした面をしてるくせに」
 自覚はあったものの、こんなところで引き合いに出されると無性に腹が立つ。ひくひくと上下したこめかみに軽く指先を当て、彼女は嘆息混じりに囁いた。
「伯父さん……誰に何を吹き込まれたかは知らないけど、そんなことをしてどうするつもりなの?既にラートの高名な医者とやらが出馬表明してるそうじゃない。ジュジウィックならともかく、ラートで伯父さんを支援してくれる勢力なんて    
「ラートのバイアット会が推薦してくれるそうだ。どうだ、大したもんだろう」
「バイアット会って……おかしいわよ、それならどうしてバイアット氏が立候補しないの?」
「ああいう連中は表に立つことを嫌うんだよ。それならこっちも利用してやるのさ」
「伯父さん!そんなことをして、どうするつもりなの?仮に当選したとして、ラートをどうしたいって言うの?伯父さんは、ジュジウィックの教育問題をずっと取り扱ってきたんじゃないの。この町を放り出して、暴力団なんかの手を借りてラートに!」
「バイアット会は合法的な政治団体だ。その辺りのちんぴらどもとは違う」
「でも彼らはその"ちんぴらども"を使うわ」
「直接的な"力"が必要になることもある。それはなにも政治の場だけに言えることじゃない」
「伯父さんは一体何をしたいの!分からない……私には、あなたの考えてることがまったく分からない」
「俺はな、決してこの町を棄てるわけじゃない」
 言って、伯父はデスクの向こうで軽く首を捻って窓の外を見た。それで外の暗闇に何を見出せたわけでもなかろうが。だが伯父は、目には見えない何物かを見つめているようにも見えた。
「棄てられるものか。俺だってお前と同じように、ここで生まれ、ここで育ったんだ。お前の母親と一緒にな」
「……だったら、どうして」
「だからだよ。ラートは大きな街だ。ラートが動けば世界が動く。ラートが変われば世界が変わる。この町だって変わるんだ。俺はジュジウィック長なんてちっぽけなものに納まるつもりはない。この町を変える、そのためにまずラートを変える。幸いジュジウィックはラートの隣だからな。変化はすぐに波及するさ」
 伯父はゆっくりとこちらに視線を戻し、深々と腰掛けた椅子の上で僅かに背を伸ばした。
「手伝え」
「……伯父さん」
「安宿の給仕なんぞ辞めてしまえ。俺の秘書として、これからは俺の仕事を手伝え。お前にしかできん。この町のために、そうしろ」
「お……伯父さん。勝手なこと、言わないで。私は、今の仕事に誇りを持ってる。十八まで育てていただいたこと、心から感謝しています。伯父さんがどんな道に進もうと、私にそれを止める権利なんてない。でも!これは……私の人生なの。仕事を持ってから今日まで、それなりに恩返しをしてきたつもりよ。それを、この先何年も……また伯父さんのために捧げろと?」
「俺のため、とは言っていない。愛するジュジウィックのためにそうしろと言った」
 はっきりと。有無を言わせぬ口調で。それは昔からの伯父の癖のようなものだったが、このときほど胸に重く圧し掛かったことはなかった。この町のため。愛するジュジウィックのため?ラートに身を捧げろと?分からない
    伯父の言うことは、やはり私にはさっぱり理解できない!
 込み上げてくるものが抑えきれなくなるより先に、彼女は伯父の書斎を飛び出した。
「こんな時間に、どうした?」
「こんな時間じゃなきゃ会えないの、分かってるくせに」
「冗談だよ。でも珍しいな、ここのところ忙しいと零してただろ?」
「忙しいのよ、実際。いいの、誰だってそうでしょうから。ごめんなさいね、こんな時間に」
「いいよ。こんな非常識な時間でもお前が訪ねてきてくれなくなるとそれはそれで寂しいからな」
 彼は時に、こんな恥ずかしい台詞を惜しげもなく口にする。こちらがかえって頬を染めながら、彼女は先立って暗がりの公園をぶらついた。疎らに造られた街灯の下に、無数の虫が群れているのを避ける。彼は黙って、あとをついてきた。
「私    仕事、辞めなきゃならないかも……しれない」
 どうという契機があったわけでもないが。ふと足を止めて、彼女は吐息とともに囁いた。
「伯父がね、ラート長選に出るとか言い出したの。またいつもの思い付きなんだろうけど……仕事なんて辞めて、私に俺の秘書になれ、だって。いきなり、笑っちゃうわよね」
 到底笑えないような心地で、小さく肩を揺らす。
「でも……もしひょっとして、ひょっとしちゃったりしたら……辞めなきゃ、いけないんだろうな。あの人、パワーはあるけどひとりじゃまともに自分の管理もできないのよね。あんな人……上に立つのは向いてないような気がするんだけど」
「そうかな?お前の言う通り、伯父さんはとてもパワーに溢れた人だよ。それを、勝手を知ってるお前みたいな身内が傍で支えてあげれば、理想的な政治家になるんじゃないか?実際、彼をジュジウィック長にという動きは何年も前からあっただろう」
 まったく反対の意見を告げられるとは思っていなかったので、彼女は少なからずショックを受けた。振り向くと、いつもと何ら変わりない顔付きで彼は黙ってこちらを見返している。かっとなって、彼女は思わず声を荒げた。
「なによ!今の仕事を辞めて……私に、この先何年も伯父の手伝いをしろっていうの?」
「そう怒るなよ。お前が言ったことだろ」
「なによ……私、ラートのスクールを出て、田舎に戻ってきて……いくつも仕事を探し回ってようやくあそこで働く口を見つけたのは、そんなことのためなんかじゃない!ラートなんかどうだっていい……政治なんて興味がないのよ。ただこうして……ささやかな幸せを、噛み締めて生きていくだけで。ラートには、私の欲しいものは何ひとつなかった    私はただこの町で、地道に生きていきたいだけなのよ……」
 話しているうちに、鼻頭が熱くなってきて下を向く。両手を口元に当てて嗚咽を我慢していると、そっと伸びてきた彼の手のひらが左の頬を撫でた。かさついた、冷たい指先。けれどもその温もりを、覚えている。子供の頃から、ずっと。
「政治だって、地道な生き方だろう。突然ぽんと方針を打ち出したって、それが受け入れられるとも限らない、そうそうすぐに制度が行き届くはずもない。長い間記事を書きながら、世の中を見てきた伯父さんだ。そんなことは、分かってるよ」
「……なによ。知った様なこと、言わないで」
「お前が今の仕事をどうしても辞めたくないというんなら、そうすればいいさ。それを無理強いするような養父なら離れてしまえばいいと、俺は思う。でもな、もしそれほどじゃないんなら、試してみてもいいんじゃないか?」
「……試す?」
 鸚鵡返しに聞いて、視線だけを上げる。彼はどうということのない面持ちで頷いた。
「いつか、お前言ってただろう。堅実な人間が損をするような世の中じゃいけないって」
 そしてようやく、気楽な調子で笑ってみせる。
「堅実な生き方が報われるかどうか。定められた期間の中でそれを試せる、いい機会じゃないか。人の上に立てば、今まで見えなかったものが見えてくるだろ。そのときにまた、宿に戻ればいい。そうだろ?やり直しの利かない人生なんかないんだ    っていうのは、死んだ祖父ちゃんの台詞だけど。俺たちの二倍も三倍も生きた人生の大先輩がそう言うんだから、きっとそうなんだろ」
 やけに誇らしげにそう語る彼の瞳を、真っ直ぐに見上げる。
「行ってこいよ。ダメだったら、いつだってここに戻ってくればいい。俺はこの町を離れないから、いつまでだって待っててやるよ」
 ばか、とつぶやいて、彼女は自分の頬に添えられたその手を両手できつく握り締めた。溢れ出た涙を、これ以上落とさないようにと瞼を閉じる。
 彼に手渡された鞘から抜き放った一振りの剣を振るうのは、他の誰のためでもない。
 そしてその鞘は、しっかりとこの胸に。
(08.03.31) その剣は誰のために