が、倒れた。
聞いたこともないような悲鳴をあげ、そのまま崩れ落ちるようにして転倒した彼女を抱き起こしたのはエバンスだった。教室内は瞬く間に混乱に陥り、その場で泣き出す女の子や、姿を変えたボガートを見て凍りつく者もいる。その気持ちは、痛いほどによく分かった。現れたダンブルドアは、これから自分自身と対峙したときにボガートがそのように変身するかもしれない
そうした思いを抱かせるほど、恐ろしい形相をしていたのだ。
「みんな、下がって!」
生徒たちを一歩後ろに引かせ、前に出たレッドフィールドが杖を構える。するとダンブルドアはすぐさま茶色い髪をなびかせた中年女性へと変身を遂げ、レッドフィールドが呪文を唱えると白い子猫になり、そして煙のように散り散りになって消えた。
「、大丈夫ですか、」
レッドフィールドが駆け寄って膝をついたが、しゃがみ込んだエバンスに抱かれたは時折うなされるようにうめくばかりで目を覚まさない。今にも泣き出しそうなエバンスを安心させようと微かに笑んでから、レッドフィールドはの細身を軽々しく
とは言わないまでも、さほどの苦もなく抱き上げた。
「みんな、私はこれからを医務室に連れていきますので、今日はこれまでにしましょうか。ボガートに当たったみんなにそれぞれ五点ずつ、それからボガートに関するレポートを羊皮紙一巻き分、来週までに」
「先生……は、は大丈夫なんですか?は、そんなに弱い子じゃないです。ボガートは……そんなを、気絶させるくらいの……」
青ざめた顔でそちらを向いたメイに、レッドフィールドはいつになく物々しい口振りで言った。
「人間の心の奥底に潜む恐怖は人それぞれです。当然、対象に与える影響も異なります。彼らを甘く見ていると、より深い恐怖に出遭ったとき、それを笑い飛ばすことなどできませんよ」
ぞくり、と。教室中の空気が、氷のように張り詰める。それを打ち壊すように明るい声を演出して、聞いた。
「先生。先生のあのボガートは一体誰だったんですか?」
「ああ、あれですか。もう十年近く一緒に暮らしている……そうですね、妻のようなものです」
つま!いつもクールなレッドフィールドが最も恐れているのは、妻!そのことがなんだかおかしくて思わず小さく噴き出すと、エバンスがぎろりとこちらを睨んだ。の緊急時に、そんなくだらないことで笑うなんて!と言わんばかりに。ジェームズは少なからず後ろめたさを感じたが、でも
レッドフィールドが言っていたことって、要するにこういうことなんじゃないか?
レッドフィールドのあとについてエバンスもバタバタと出て行くと、静まり返った教室内が再び落ち着かない喧騒に包まれた。『どういうこと?』『なんでダンブルドアが?』『ダンブルドアも、あんな顔をするんだ』『とダンブルドアの関係って』
。
「心配なんだろ?」
さり気なく傍らの友人に問いかけると、シリウスはぎくりと身じろぎして、べつに、などと呟いた。
「別に?あっ、そう。僕は心配だな、ちょっと様子見に行ってこようっと」
「なっ!お、おい
俺も、行く!」
まったく、素直じゃないんだから。遅れてついてきたシリウスと並んで走りながら、ジェームズは内心でほくそ笑んだ。
Her Best Friend
リリー・エバンス
「悪いんだけど、当分は目を覚ましそうにないから」
現れたエバンスは、こちらを
敢えて言及するならば僕を横目で睨みながら、素っ気なく言った。けれどもやはり、失神した友人のことが気になるのだろう。どこか不安げな眼差しでちらちらと背後の扉を見つめている。そこは医務室の真ん前だった。
「だ、だけど僕たちのことが心配で」
「あらそう。それはどうもありがとう、起きたらには伝えておくわ。でも今は帰ってもらえないかしら」
ぴしゃりと、まるで切り捨てるような口振りで。ああ、普段は朗らかな彼女がこんなにもきつい言葉をかけるのはきっと僕くらいだろう。と思うと逆に燃えてくるのは、なんというか損な性癖かもしれない。
帰るか、と呼びかけようとしてそちらを見ると、いつになく大真面目な顔をしたシリウスが今にも愛の告白でもするんじゃなかろうかと思うくらいに切羽詰った様子でエバンスに話しかけた。
「なあ、少しでいいんだ。あいつの……顔、見せてくれないか」
えぇっ!?いや、こいつの気持ちは分かっているし、そんなに驚くようなことではないのだけれども。
なんていうか……こんなの絶対本人には言えないが
こいつ、実は案外かっこいいんじゃないか、なんて思ってしまった。
エバンスも驚いたようにしばらく目をぱちくりしていたが、やがて気まずそうに目を逸らしながら囁いた。
「目が覚めたら、教えるから。もうしばらく、ここにいてもらえないかしら」
「……分かった」
エバンスはそのまま医務室の中に戻っていき、薄ら寒い廊下には僕とシリウスのふたりだけが取り残された。
「このままここに突っ立ってたら、風邪ひいちゃっての横で寝させてもらえるかもよ」
「うるせぇお前は帰れ」
「かっ、帰れ?なんだよ、誘ってやったのはこの僕だろ!」
「
静かにしてもらえないかしら。それにポッター、私がここにいてくれないかしらって言ったのはブラックだけなんだけど」
不機嫌そうに顔を覗かせたエバンスは容赦なくそんなことを言った。そしてシリウスは、ざまーみろとばかりにちらりと一瞥してから素知らぬ顔で明後日の方向を見やる。ひどい……僕だって、僕だってほんとにのことは心配してるっていうのに。
「ああ、分かったよ分かった、帰ればいいんだろう帰れば。後でが『ジェームズは?』って聞いたって知らないんだからな」
「そのときは薄情にも帰ったって言っといてやるよ」
「はあ?チクショウ、誰が帰るか、帰るもんか!」
「静かにできないなら二人とも帰ってちょうだい。あなたたちがいなくても十分ですから」
ぴしゃりと吐き捨てて、エバンスの姿は再びドアの向こうに消えた。ああ……なんでこうなっちゃうんだろう。友達としてを思う気持ちは僕だってエバンスだって同じはずなのに。
「それじゃあ、僕はお邪魔みたいなんで先に帰ります。ちゃんとのこと元気にしてやれよ、きっとへこんでると思うから」
「わーってるよ」
投げやりな、シリウスの声を背中に聞きながら、歩き出す。
数歩進んだところで、ジェームズは控えめな相棒の呼びかけを聞いた。
「ジェームズ」
「ん?」
足は止めずに、振り返る。後ろ歩きを数歩繰り返してから促すと、ようやくシリウスがその先を言ってきた。
「……さんきゅ」
ぴたり、と立ち止まって。シリウスの、照れ隠しとしか思えない仏頂面を見た。に、と歯を見せて、右の親指を立ててやる。
「うまくやれよ!それじゃ、あとで」
うまくやれよ、って。なに言ってんだ、あの馬鹿。俺はあいつの顔を見たいだけだ。あいつが倒れたあのとき、思わず身体が動きかけた。けれどもできなかった。なにも。すぐそばには、エバンスがいたから。何もできず、ただ見ているだけだった。ヒヨコが怖いっていうのは、どういうことだ?そして
ボガートがどうしてあんな姿に、変わってしまったのか。
気になることはいくらでもある。だが最も気がかりなのは、もちろん自身の身体だった。
本当は、すぐにでも駆け寄って抱き締めたかった。あの、小さな身体では
いつか、消えてしまうんじゃないかと。この腕にきつく抱き寄せて、ずっと、放したくはない。
初めてなんだ。こんなにも、狂おしい思いというのは。
エバンスが次に出てくるまでは、さほど時間はかからなかった。中から話し声が聞こえてきたので、が目覚めたであろうこともまた分かっていた。今すぐにでも飛び込みたい、その気持ちを抑えるのに必死だったのだ。
けれどもエバンスはどこかばつの悪い様子で、こう言った。
「……ごめんなさい。、気付いたんだけど……今はまだ、会いたくないって。きっと疲れてるんだと思うわ。あの子、最近頑張ってるもの」
そんなことは、分かっている。あいつはいつだって、一生懸命なのだから。
「だから、また後で……落ち着いてからに、してもらえないかしら。ほんとにごめんなさい」
「……いや。押しかけた俺も悪いんだ。分かった、後にする。あいつのこと……よろしくな」
「ええ、もちろん」
エバンスなど押しのけて飛び込むことは容易い。
けれども、本人が会いたくないと言っているのだ。そこに押しかけて、一体どうしようというのだろう?
会いたくない
それは、俺だからか?
ここに居座って考え込んでいても、暗い思考ばかりがどんどん頭の中を巡ってきりがないので、ひとまずシリウスはここではないどこかへ行こうと歩き出した。
「こんなところにいたのね」
聞こえてきたのは、予期せぬ女の声だった。ここは、いつからか俺たちの暗黙の領域になっていた。もちろん他にも使っている生徒はいるだろうが、運よく遭遇したことはない。そうしたところ。
「探させないでよ。授業で会えると思ってたのに」
「あ……悪い。そんな気分じゃなかった」
「ふーん……そんなに、のことが心配?」
エバンスは天文台の入り口で立ち止まった。そのままの距離で、言ってくる。
「ねえ。呪文学のあと、を迎えに行くって約束したんだけど……あなたが行ってあげてくれない?」
願ってもみなかった、申し出。
どきりと心臓が高鳴るのを感じながら、それを知られないように声を抑えて、聞いた。
「あんたは行かないのかよ」
「あなたに頼んでるのよ?ほんとはさっきも、にすごく会いたかったんでしょう?」
そんなことは。言いかけて、やめる。あいつの親友にそんな見栄を張ってどうするというのだ?
エバンスはそこから少しだけ中に踏み込んできて、ひっそりと、言ってきた。
「、あなたのこと本気よ?」
な……いきなり、何を言い出すんだこの女。まるでジェームズにそっくりだと、思った。焼け付くように、胸の奥がじりじりと痛い。
「だからお願い。あの子のこと、大事にしてあげてね」
「………」
やばい。なんだか、気持ちが高揚して
頬の線が、緩む。それを隠すように手のひらで押さえながら、
「俺だって……本気だよ」
なぜか照れたように頬を染めるエバンスの顔が嬉しそうに微笑むのを見て、ああこの女はほんとにあいつの親友なんだろうなと、漠然と感じたことは覚えている。
本気、なんてつまらない言葉遊びだ
(と思っていた俺が、自然とそれを受け入れるようになったのはきっと)
俺自身が“本気”だからだ