「結婚おめでとう、」
結婚、おめでとう。そして。
今後こそ さよなら、俺の初恋。
Fair face, foul heart
さらば、醜き俺!
「
マグルと付き合ってるって?」
思いもよらないことを聞かされて、素っ頓狂な声をあげる。ベッドの端で乱れた髪を整えながら、ジェーンは大儀そうに言ってきた。
「そうよ。信じられる?森でたまたま会ったマグルだなんて」
「それで……のやつ、なんだってまたそんな男と」
問うと、彼女は最後にネクタイを襟の下に通してから冷ややかに視線を上げた。
「気になるわけ?」
「……いちいち噛み付くなよ」
分からないでもないが。誰にとっても初恋は特別なもので、それは自分にとってもまたいつまでも淡く心の奥に燻り続けるものなのだ。
だが、ジェーンも本気で言っていたわけではないらしい。すぐに表情を崩し、いつものあの不敵な笑みでネクタイを結び始めた。大雑把な手付きで作業をするときの彼女の指先はどこか艶っぽく、目が離せなくなる。それを知っていながら、彼女はさっさと作業を終えて悠然とベッドの上に倒れ込んだ。気持ち良さそうに目を閉じ
見えそうで見えない、ぎりぎりのラインを保ってスカートを翻す。
まったく……足りないのなら足りないと、素直に言えばいいものを。
結びかけたネクタイを再び緩めながら、彼はベッドに膝をついて、より多くを欲する恋人の唇に深い深い口付けを落とした。
「私、結婚するの」
魔法省で最も力のある魔法法執行部に入省したジェーンは、日々の多忙さのあまり、家にすら戻れない夜が続いていた。落ち着いたら一緒に部屋を借りて結婚しようと話していたのだが、当分それどころではなさそうだ。一方、地方の小さな出版社に就職したフィディアスは、グリンゴッツ銀行の本店に就職したと、空き時間を合わせては食事を共にすることが多かった。
あれは、十月の半ばか。マダム・エックルズでパスタをつつきながら、顔を綻ばせたは、どこか照れくさそうに言ってきた。思わず、口からパスタを垂らしながら、唖然と目を見開く。彼女はその様子を見て、悪戯っぽくくすりと笑った。
ああ、どれだけの歳月が流れようとも。その笑顔だけは、いつまでも変わらない。
「け……結婚って、お前、まさか例のマグルと?」
「え?ああ、ジェーンから聞いたの?」
彼女は驚いたように二、三度瞬いたが、すぐに微笑みを取り戻してホットのレモンティーを口に含んだ。
「そう。あなたたちの方が先かなーと思ってたんだけど、ごめんね。お先」
「いや、お前が謝るようなことじゃないけど……な、急だな。ずいぶん」
「ごめんね。もうしばらく……仕事が落ち着いてからって思ってたんだけど」
言いながら、彼女はふいに、その腹部をゆっくりと撫でた。そのいとおしむような穏やかな眼差しに、はっとして、口を開く。
「……お前、まさか」
すると、彼女ははにかむように笑って、うん、と小さくうなずいた。
「五週間だって。三日前、近くの病院に行ってきたの」
「そ……そう、か」
あまりに突然のことで、うまく言葉が出てこない。彼女が少しだけ不思議そうに眉をひそめるのを見て、彼は慌てて笑顔を取り繕った。
「そうか……おめでとう、。良かったな、子供は若いうちに欲しいって、言ってただろ?」
「ありがとう。でも……ほんとはね、不安なの。すごく」
彼女は微笑んでいたが、その黒い瞳は斜めを見下ろして半ば閉ざされている。残りのパスタをフォークの先に絡め取りながら、独り言のように言ってくる。
「少しずつ職場にも慣れ始めて、これからだっていうときに……彼の収入も、不安定だし」
「……マグルの学校で、文学の研究だかなんだかをしてるってやつだろ?」
「うん、そう。大学ではまだ簡単な事務の仕事しかもらってないから、あとは時間を取ってアルバイトを」
「事務でもなんでも、仕事があるならいいじゃないか。それともマグルの学校ってのはそんなに安月給なのか?」
「まあ……彼も文献をもっと揃えなきゃならないし、あんまり余裕はないかな」
「……へえ」
その男はいったい何をしたいんだ?妊娠させた女にそんな不安を与えてまで研究したい文学だなんて、そんな過去の遺物に一体どんな魅力がある?
「ごめんね。泣き言、言っちゃった。でも誤解しないで、私は幸せなの。あの人との赤ちゃん
この子が私の中に宿ってくれて……ほんとに、うれしい」
そう言って見せた彼女の微笑みは、眩しかった。自分の巡り合わせに、心から感謝しているというように。
たまらなくなって、問いかける。
「
何でなんだ?」
「え?」
不意を衝かれたように、が目を開く。なぜか後ろ暗いものを感じて目線を斜めに逸らしながら、彼は繰り返した。
「何でなんだ?お前に惚れてるやつは……ホグワーツにだって、大勢いただろ。お前とレナードは……うまくいってるように、見えた」
彼女は視線を上向かせ、しばらく考え込んだようだった。そっと閉じた瞼を縁取ったラインが、もともとは幼い彼女の顔立ちをどこか艶めいたものに彩っている。ノーメイクですらその人懐っこい笑顔はホグワーツで多くの男子生徒を引き付けたというのに、いつからか化粧を覚えた彼女が男たちの目を引かないわけがなかった。
彼女のメイクがより艶やかに、だが自然さを残しながら上達していくようになったのは、例のマグルと知り合ってからだということには気付いていた。
「そうね。始めは……ただ、嬉しかったの。ホグワーツの近くで、日本人に会えたっていうことが」
そのことは、ジェーンから聞いていた。はイギリスで生まれたが、すでに亡くなった母親が日本人であったため、幼い頃から日本という国への関心は強かった。偶然とはいえその国の人間に遭遇し、興奮したのだろう。そこまでは、分からなくもない。けれども。
「でもね、しばらく彼と手紙のやり取りをして……日本語の、優しさに触れたような気がして。もっともっと、彼と話したいって思ったの」
日本語の、優しさ。それがまったくの未知の言語である彼にとっては、ピンとこない話ではあったが。
「卒業して、ロンドンで何度か顔を合わせるうちに……そうね、いつの間にか」
「なんだよ、お前……さんざん引っ張って、そんなオチか?」
「だって、結局はどんな理由を並べたって、そんなの後付けに過ぎないでしょう?あなただって、何でジェーンと付き合ってるのって聞かれたら何て答える?」
「……そうだな。身体の相性?」
「やだ。フィディアスって、昔からそう。ロマンがないのよね」
「何となく、よりはまともな回答だと思うけどな。だって事実、重要だろ?お前だって、それがなきゃ」
「そりゃあ、否定はしませんけども」
茶化すように微笑んで、。その笑顔が時折色めくようになったのは、やはり六年生の末からだった。
彼女はそのマグルの腕の中で、一体どんな声をあげるのだろう。
「とにかく、おめでとう、。少し早いけど、結婚と出産の前祝いだ。奢るよ」
「えぇ?今日のお昼がお祝いなの?だったらもっと豪華なものにすればよかった」
からからと明るく笑うその笑顔は、初めて彼女を愛した
あの頃の、ままに。
さよなら、さよなら、さよならしなきゃならないんだ
(どうせ離れられないとしても)