28.契約


 走って追いかければ、ゲンマの後ろ姿はすぐに見つかった。家の方角に向けて、いつもの道をいつものように歩いている。いや、心なしか背中が丸い。腕組みして考え事をしているとき、ゲンマは大体あんなふうになる。
 一気に駆け寄ってパーカーの裾を引っ張れば、ゲンマは弾けたように振り向いた。どうやら本当に考え事をしていたらしい。しかしゲンマは私だと気づくと表情を変えずにすぐ顔を逸らした。うわ、ムカつく。

「ゲンマ、待ってよ。何で無視するの?」
「してねぇし」
「は? どう見てもしてるでしょ。さっきだって私のこと全然見なかったじゃん」
「何だよ、用もねぇのに何で見ないといけないんだよ」

 すげなくそう言うゲンマは私にとって初めて見る彼だった。知り合ったばかりのときでさえ、ゲンマはもうすでに優しかった。ちょっと口が悪いけどあとで必ずフォローしてくれるし、こんなふうに突き放すような言葉を投げられたことは一度たりともない。この数日に一体何が起こったのかと私はすっかり混乱した。
 ゲンマは自分のパーカーから私の手を解き、こちらをチラリとも見ずに締めくくった。

「俺、用事あるから。明日な」

 そして足早に離れていくゲンマの背中に、私はそれ以上何も言うことができずに立ち尽くした。



***



 卒業の日、ゲンマに冷たくされ落ち込んで帰宅した私を、珍しくばあちゃんが迎え入れた。今日は大事な日だからなと言われ、一瞬でも喜んでしまった自分が恨めしい。ばあちゃんは卒業おめでとうの一言もなく、私を連れて里の外にある家ゆかりの神社へと向かった。ここへは幼い頃、何度かばあちゃんに連れてこられたが、すでに管理する者はなくほとんど荒れ果てていた。

「本来であれば、母から娘へ引き継ぐ伝統だ。だが今の凪には荷が重い。名代としてこの私、澪が継承する」

 神社には階段奥に隠し部屋があった。初めてその中に連れられ、冷たい石の上に対峙してばあちゃんの言葉を聞く。今の私にとって、の伝統などカビ臭いこの部屋と同じ価値だった。
 ばあちゃんが口寄せした巻物を開き、いくつか並ぶ名前と血印を示す。そしてその隣の新たな欄に、私に血を残すように指示した。私は言われるままに親指を噛んで、血印をしるす。そこへばあちゃんが未の印を結ぶと、血印の上に私の名前が浮かび上がった。

「これにて契約は完了した。だが、何度も伝えているように、契約したからといって忍猫を呼び出せるわけではない。お前が彼らに認められて初めて、必要なときにその力を借りることができる。鍛錬を怠らず、彼らとの信頼関係の構築に尽力することだ」
「……はい」

 ぼんやりと返事して、ぼんやりと巻物を見つめる。ばあちゃんは大きく息を吐いてから、ピシャリと冷たい声で言ってきた。

「しっかりしな。お前も今日から忍びだろう。そんな生半可な覚悟でいたら、あっという間に死んじまうよ」

 ――死ぬ。サクモおじさんのことが脳裏をよぎり、私は噴き上がる怒りに唇を噛んだ。ばあちゃんが悪いんじゃない。それでも他に、やり方はなかったのか。サクモおじさんが仲間の命を選んでも、そのことで誹りを受けずにすむ方法が。サクモおじさんが死なずにすんだはずの道が。

「最後に、。これが最も大切なことだ。よく聞きな。我ら一族が百年以上受け継いできた重要な使命、それは――」

 ばあちゃんの瞳は、蝋燭だけが灯るこの部屋の中ではどんな表情を宿しているのかよく分からなかった。ただその声音はひときわ低く、重たく響いた。

「『平和』を成すことだ」



***



 あれからずっと、ばあちゃんの言っていたことを考えている。平和を成す? これだけ戦いが繰り返される世の中で。正気か? 百年以上そんなものを掲げているのなら、なぜ世界は今も争いに溢れている? は何も成せていないということの証明ではないか。そんなものをいつまでも掲げていることに、疑問はないのだろうか。

「答えは一生をかけて探してゆくものだ。お前も凪も、もちろん私もな」

 ばあちゃんはそう締めくくった。私は突然聞かされた一族の使命とやらの、あまりの突拍子のなさに呆然とたたずむしかできなかった。そんなものを目指しているばあちゃんが、今も戦地に仲間を送っているというのか。回復すればまた母さんも、そしていつか私のことも戦場に送るのだろう。平和とは、何なのか。そんなものがあるのか。

『どうしようもねぇよな、忍びなんて』

 不意にゲンマの声が聞こえた気がした。でも今は、そのゲンマだって私の呼びかけに応えてくれない。

「アイ、サク?」

 帰宅して部屋を見渡しても、忍猫たちの姿はない。思えばアカデミーの途中から、前ほど彼らはついてこなくなった。寒いときは別だが、私の布団に入ってくることも減った。本当に気が向いたときだけ気ままに顔を出すといった感じだ。私たちはそういう関係性だと分かっていたつもりだった。だが急に、心許なさで心臓が潰れそうになった。
 ばあちゃんに幼少期から教えられてきた印を結び、手のひらを床に向ける。

「口寄せの術」

 当然、うんともすんとも言わなかった。こんなに簡単に成功すれば苦労はしない。だが幼い日は当たり前にそばにいた彼らが、今自分の手の届くところにいないのだということに気づいて私は寂しさで押し潰されそうだった。

(どうしたらいいの……ねぇ、ゲンマ)

 こんなときに思い浮かぶのは近所の幼なじみだ。ちょうど今日、突き放されたばかりじゃないか。

 最悪のアカデミー卒業だった。