「よお、久しぶり」
「……さっき表で会ったじゃないですか」
「俺らがこうして話すのは久しぶりじゃない。ちゃん相変わらずつれない」

突然、名前で呼ばれてどきりとする。涼しい顔をして、ずるい。どうせ数秒後には、何事もなかったかのように苗字呼びに戻るくせに。
場所は東京体育館。開幕式を終えたら、それぞれの会場へ移動。初戦はすぐ目の前だ。

黒尾はしばらく、いつもの余裕ぶった表情でこちらを見据えていたけれど。やがて俯きがちに大きく息をついて、右目にかかった長い前髪を掻き上げた。

「悪い。俺、自分で思ってたより緊張してるみたいだわ」
「黒尾さんにもそういう感情があったんですね」
「……は俺のこと何だと思ってんの」

ほら、やっぱり。こんなところまできて、他校の男子にふて腐れている自分が嫌になる。すぐに戻らなければいけないのは、向こうもこちらも同じはずなのに。

。ひとつお願いがあんだけど」
「……なんですか」
「手、握ってくんない?」

冗談だと思った。それなのに、鼓動が跳ねてうまく言葉が出てこない。せめて視線で抗議しようと顔を上げたけれど、見下ろす黒尾の眼は真剣そのものだった。
そうしたら、もう、抗うことなんてできなくて。
彼の武骨な右手だけを見つめて、そっと、冷たい両の手で包み込んだ。

「大丈夫」

自分に言い聞かせるようにして、ささやく。

「絶対勝ってね。うちも必ず勝つから」

返事がない。が不安になった頃、恐る恐る顔を上げると、黒尾は見慣れた、あの不敵な笑顔に戻っていた。

「俄然、無敵な気分デス」

そしてそっとこちらから手を離すと、その手で軽くの頭を撫でた。こういうのは初めてじゃない。初めてじゃないのに、触れられる度に、胸が沸き立って。

「大会終わったら言いたいことあるから。待ってて」

そんなの、約束できない。
言いかけた言葉も、去り際の黒尾の一言にかき消されてゆく。

「またな」

また。
それを一番願っているのは、きっとわたしのほうだから。
猫対烏、ゴミ捨て場の決戦。
初の大舞台でのそれを制したのは、烏のほうだった。小さな小さなひな烏は、あらゆるものを貪り、己の肥やしとし、そして熟練の猫をも打ち倒した。

「お疲れさん」

東京最後の夜、黒尾は突然メールを寄越した。今、宿の近くにいるからと。十分でいいから時間ちょうだい、と。
澤村も清水も、どういうわけか分かっていたようだった。あんまり遠くに行かないこと、九時までには戻ることと約束させられて、あっさり外出許可がおりた。

「全国ベスト四なんて、上々じゃねえの。ま、俺たち負かしたんだからそれくらい当然ですけど」

現れた黒尾は、初めて見る私服姿で、黒いジャケットが新鮮だった。 音駒戦が終わったときも、少し話したけれど、こうやって会いに来るとは思っていなくて、突然のことで戸惑う。目線を合わせるのも、難しい。

「ちょっと歩こっか。あ、なんかあったかいもんでも飲みに行く?」
「えっと……あんまり遠くに行くなって、主将に言われてるんで……」
「過保護かよ。別に何もしねえっての」

なにも、しないのか。いや、まて、わたし、なにをかんがえてるの。
頭の中でグルグル余計なものが回り始めて、顔から火が出る。慌ててマフラーの中に耳まで隠しながら、は黒尾から半歩引いて歩いた。

「じゃ、あっちに自販機あっから、そこでなんか買おう。寒いだろ、こんな時間にごめんな」
「いえ……」

会いたかったのはわたしなのに。言いたいことがあるって言ってたのに、そのまま帰っちゃったって、恨めしく思っていたわたしなのに。

さほど街灯のない公園にある、自販機でコーヒーを買って。黒尾の進学のこと、バレーのこと、ベンチに座ってそんな話をしながら、少し時間を気にしはじめた頃だった。


「はい?」

改まって名前を呼ばれて、不思議に思いながら顔を上げる。
そして彼の瞳を見返したとき、それだけで、今まで話したことがすべて吹き飛ぶくらい、熱量をもった言葉が発されるのを知った。

「好きです。俺と付き合ってください」
(18.07.25)