「俺、歴史学の授業やだー、ぜったい先生に嫌われてるし」
「それは零点をとる兄さんが悪いよ」
「だ、だってしょうがないだろ、カタカナばっかで全然名前覚えらんなかったんだよ……」
「言い訳は僕じゃなくて先生にすれば?」
「ゆ、雪男、お前も冷たい……」
「これでもじゅうぶん優しくしてるつもりだけど」

旧男子寮の部屋。悪魔歴史学の教科書を開いたまま泣き言を言う兄にそっけなく止めを刺して、雪男は一般教養の課題へと取りかかった。兄はまだ何かぶつぶつ言っているけれど、無視する。 こんなものをいちいち気にしていては、兄と同じ部屋でやっていけない。

「いくらテストの点が悪いからって、あんな言い方しなくたってさ……俺だってこれでも頑張ってんだよ……」

兄が何を言われたのか、僕には分からないけれど。

(十五年前、処分が決定されたサタンの仔を生かしたのは藤本の独断だ。あなたもあの件に関しては無関係ではないでしょう)

彼女は私情を挟むような人ではないと、思ってはいるけれど。

(あの頃のわたしは、何も知らない子供だった。だからこそ、あのときの落とし前は自分自身でつけるわ)

もしかしたら    
閉じた目を眼鏡越しにゆっくりと開いて、奥村雪男は今度こそ英語の課題へと意識を集中させることにした。ここで考えていても仕方のないことだ。

(いいやつなんだ。ちょっと不器用だけどな、ほんとは素直で、優しい女なんだよ、あいつは)
バベル
Лучше горькая правда, чем сладкая ложь
今年も候補生認定試験を兼ねた訓練生の合宿の時期がやってきた。場所は旧男子寮、夜は祓魔塾講師が各所に配置され、生徒たちを細かくチェックする。
詠唱騎士志望の、勝呂、志摩、三輪。手騎士志望の、神木。医工騎士志望の、朴、山田。竜騎士志望の、宝、勝呂。杜山は未定。
そして、騎士志望の    奥村。

「ネイガウス先生」

五日目の夜、朴の処置を終えた雪男を見届けたは寮の屋上に魔印のネイガウスを追った。
中級の屍を従えた眼帯の男に、憮然と抗議する。

「これは今回の試験計画の内に入っていません。少し、やりすぎではないですか」
「そうかね。合宿中は君を含め、すべての講師が至るところで目を光らせている。万全の態勢下である今だからこそ可能な『事故』ではないかな?」
「浴室まで監視などしていません! 一歩間違えば朴が命を落とすところでした、それを分かっておっしゃってるんですか?」
「奥村君がすぐ近くにいたし、杜山には緑男の幼生がついている。屍系の悪魔には蘆薈が有効であるという知識を活かした的確な応急処置を施し、奥村君の到着までを立派に繋いだ、素晴らしい出来だと思わないか?」
「それは結果論です! こんなことはこれまで……」
「これまでと同じ試験では意味がないだろう。相手はサタンの落胤だぞ」

それを言われてしまったら。思わず言葉を失って黙したが、はすぐに顔を上げて切り返した。

「今回の試験にそのことは関係ありません。奥村燐が塾で学ぶべきは炎を抑制していかに戦うことができるか。先生もご存知のはずです」
先生。武器の有用性を正しく理解するためには何が必要か、分かるか?」
「はい?」

顔色ひとつ変えないネイガウスに眉をひそめて、聞き返す。彼の傍らで双頭の屍がグルグルと唸った。

「可能性をあらゆる方向に引き出して把握すること。その作業を為されていない武器など武器としての価値はない」
「……つまり?」
「これはフェレス卿の命だ。奥村燐の能力を正確に把握するため、殺す気でかかれと指示されている」

メフィストの? それを聞いた途端、身体中の力が抜けて笑い出しそうになった。ネイガウスの言い分は、正論だろう。もちろん。だがつまりそれは、それだけ付け入る口実を与えるということでもある。
よりにもよって、その役回りをネイガウスに任せるなんて。

「奥村燐の炎で他の人間に何らかの被害があった場合、わたしからヴァチカンに通報するとメフィストには伝えてある。そのことは先生もお忘れなく」
「ふん。心配しなくともヴァチカンになど渡さんよ」

屍と共にひっそりと姿を消すネイガウスの後ろ姿を、黙って見送る。いつでも捲れるようにと掴んでいたコートの袖口を放しながら、は人知れず息をついた。
代わりに懐から取り出した二枚の紙切れに血を垂らし、短い文言を唱える。

「その御霊を我が精に」

すると次の瞬間には何かがふたつ空を切って舞い上がったが、視力が追いつくより先に重々しい闇夜へと紛れて消えた。声に出す必要はなかったが、ぼそりとつぶやく。

「よろしく」

ひとまずはこれでいい。折り畳んだ魔法円を元のポケットへと押し込め、は建物の中へと戻っていった。
「今……なんて?」

彼の広い背中を、見つめる。絶望的な思いで、見つめる。
その後ろ姿を、こんなにも遠く感じるのは初めてのことだった。

「魔神サタンの仔だ。それを宿した母親共々、『今』処分するか    生まれた『後』、仔を殺すか」
「な……なにを、言ってるの」

彼が何のことを話しているのか、分からない。思考が嘘のように停止していく。その声に、温度はない。まるで知らない男のようだった。
身じろぎひとつせず、男は背を向けたままただ淡々と言葉を継いでいく。

「かつて、古来よりサタンの仔を宿したとされた女は『魔女』としてことごとく処刑されてきた。時代を経て堕胎の術が模索されたものの、他の悪魔ならいざ知らず、サタンの仔には人間のいかなる手段も効かない。 抹殺する方法は今でもふたつ    受胎時に母親共々、もしくは生まれ落ちたその後……」
「わたしが聞いてるのはそんなことじゃない! ユリを殺すのかって聞いてるのよ!!」

自分の言葉に、ぞっと悪寒が走った。何を言ってるのだ。わたしは、今この口で一体なにを言った?
それなのに藤本は、声の調子を変えもしない。たたずまいを直すこともない。

「俺が決めることじゃない。ヴァチカン法廷で最終決定が出るだろ」

どうして。いつも自らが先陣を切り、いつもわたしたちを守ってくれた、あなた。
それなのに。

「おい、どこ行く!」
「はな    して    

跳ぶように駆け出したの腕を、素早く伸びてきた藤本が捕らえて引き戻した。
振り払おうともがいても、肌に食い込む痛みが増すだけだ。でも。

「はなしてよ、ばか!!」
「はなせるか、ばか!! いいから落ち着け!!」
「どうやって……ユリが殺されるかもしれないのに、どうやって落ち着けなんて言えるの?」
「じゃあ聞くが、お前が喚いてどうなるっつーんだ! ヴァチカンは地方支部の候補生の言い分なんざ聞く耳持たねえぞ!!」
「じゃああんたの言うことなら聞くの? 日本支部の藤本獅郎上一級祓魔師の言葉なら」

期待して聞いたんじゃない。このやり場のない感情をただぶつけたかっただけ。案の定、藤本はこちらの腕を掴んだまま、さらに表情を硬くしただけだった。吐き捨てる。

「サタンの仔だぞ。俺が何を言ったところでそれが何になる?」
「何になるって……じゃあもしヴァチカンが決めれば……あなたは、ユリを殺せるの……?」

答えなんて、最初から分かってた。彼は藤本獅郎。『次の聖騎士』と言われる、世界屈指の上級祓魔師だ。
そんなことは初めから、分かっていたことじゃないか。

おぞましい光景だった。今でも血の海に引きずりこまれて目が覚める。でも、それ以上に忌まわしいのは。

涙をこぼしながらえずくの背を抱き寄せて、藤本が自分の胸へときつく押し付ける。鼻と口とを塞がれて息苦しい上に、嘔吐したものがこすれて彼の聖服を汚した。いやだ。早く離れたい。
だがどれだけ逃れようと足掻いても、その逞しい両腕が包み込み、ふたりの空白を決して許さなかった。

思えばあれが、最初で最後の    

「お前は何者だ」

闇に閃く青い炎、抜き身の降魔剣。ネイガウスを圧倒する奥村燐の姿は、紛れもなくサタンの落胤だった。

「先生! もうそれ以上は召喚しないほうが身のためです、失血死したいんですか!」

ネイガウスが死にたいのならば好きにすればいい。が、それでは奥村燐の件も穏やかではすまないだろう。もっとも、メフィストがすべて握り潰すというのなら話は別だが。
旧男子寮の屋上へ出る扉の陰に隠れてはしばらく様子を窺っていたが、ネイガウスは新たな悪魔の召喚を諦めたようだった。奥村燐に刃を突きつけられたまま、くちびるを歪めて、

「……わたしは、『青い夜』の生き残りだ。俺は僅かの間サタンに身体を乗っ取られ、この眼を失い、そして俺を救おうと近付いた家族をも失った」

知っていた。彼もまたあの夜、血まみれのロシア支部にいた。
降魔剣、そして奥村雪男の二丁拳銃の射程範囲にあるという状況は変わらない。が、ネイガウスの隻眼が狂気を帯びて光った。

「ククク……許さん、サタンも悪魔と名のつくものはすべて!! サタンの息子などもってのほかだァ!!!!」
(魔神サタンの仔だ。それを宿した母親共々、『今』処分するか    
「貴様は殺す……この命と引き換えてもな!!!」
    生まれた『後』、仔を殺すか)

ネイガウスの腕の印章から突出した屍の手が、奥村燐の脇腹を突き刺した。
項垂れた燐の喉から、詰まったような咳が漏れる。
    生きて、いる……?
人間じゃ……ない。

さすがのネイガウスもこれには肝を潰したようで、腕を引き抜きながら逃げるようにふらふらと後ずさった。
血の気を失った奥村燐が、それでも笑みを浮かべながらうめく。

「これでも足んねーっつんなら……俺はこーゆーの慣れてっから、何度でも……何度でも相手してやる」

青い刀身が鞘に戻されていくうちに、その持ち主の放つ炎も弱まっていく。
そして人のものと思われる姿に戻ったとき、奥村燐の瞳はもはや悪魔のそれではなかった。

「だから、頼むから関係ねぇ人間巻き込むな!!!」
(お前には関係ねぇ)

藤本の声が。
不意によみがえり、重なって。

(彼、どことなく藤本に似てますよ。あなたにとってもじゅうぶん面白い素材だと思いますがね)

ふざけるな。そんなこと、わたしには何の関係もない。

「こんなことで済むものか……俺のようなやつは他にもいるぞ、覚悟するといい」

捨て台詞を吐いたネイガウスが、血まみれの腕を引きずってよろめきながらこちらに戻ってくる。身を隠すこともなく、は扉の陰で彼を待ち受けた。

「ネイガウス上級祓魔師ともあろう方が、無様ですね」
「ふん……傍観を決め込んで満足かね?」
「わたしはあれを騎士團の武器として生かすことには反対ですから。これでフェレス卿もサタンなど手に負えないと気付いてくれればいいのですけど」
「君も恨んでいるはずだ、憎んでいるはずだ。サタンさえいなければ    あのサタンの仔さえいなければ、あんな形で親友を失うこともなかった」
「ネイガウス先生。早く手当てしたほうがいいと思いますよ。それともわたしが応急処置でもいたしましょうか? これでも世界最強の医工騎士に教えを受けていますから」
「……まあいい。いずれ分かるだろう。もっと早くに始末しておけばよかったとな」

噛み合わない会話を交わしたあと、満身創痍のネイガウスはひとりゆらゆらと階段を降りていった。入れ替わるようにして、塾生の杜山が慌しく駆け上がってくる。

先生! 今、ネイガウス先生が……一体なにがあったんですか?!」
「あ? さあ……わたしもよく分からないけど、また屍が出たみたい? まぁネイガウス先生と奥村先生が片付けてくれたみたいだから心配しなくていいわ。それじゃ」
「えっ、あ、」

何も知らない生徒たちに余計な情報を与えることはない。事態を飲み込めずに目を白黒させる杜山を放置し、もまた即座にその場を立ち去った。あとのことは使い魔に監視させればいい。
いつまでこんなことを続ければいいのか。あんなものを本当に武器として使えるとでも思っているのだろうか。
それとも、メフィストの意思はもっと別のところに。

「言いませんよね、本部に?」
「……今回は見逃してあげる。でもこうなることくらい、初めから予測できなかったの? あなたがネイガウスの私怨を知らなかったとは到底思えないけど」
「買いかぶりですよ。まさかネイガウス先生ほどの祓魔師が私情に走るとは思いませんでしたので」
「一度あなたの本音とやらを聞いてみたいわね」
「面白いものではありませんよ。それよりわたしはあなたの本音を聞きたいですね」
「は?」

意味の分からない方向にすり替えられた。宿舎へと戻る途中、どこからともなく現れて隣に並んだ道化。
彼の冷やかすような流し目を、さらに横目に見やる。

「有事の際はヴァチカンに通報するだなんて物騒なことをおっしゃるので、わたくし内心はひやひやしていたのですよ。 ですがサタンの炎を目の当たりにしたにも関わらず、あなたは見逃すという。なぜです?」
「……分かった、今から電話する」
「はいはいはーい、モメント! 一呼吸をおいて、よく考えてみてください」
    気安く触らないで」

取り出したケータイの発信ボタンに添えた親指ごと、両手でくるまれて。歩みが止まると同時、咄嗟に拒絶の声が出た。
メフィストは特に驚いた様子もなく、ごくごく自然な動作でその手を放す。

「これは失礼。わたしとしたことが、無作法でした」
「作法はどうでもいいし、今日のところはヴァチカンには電話しない。だからもうついてこないで」
「もちろん、レディーのお部屋に押しかけるほど面の皮は厚くないもので」
「よく言うわ」
「おやすみなさい、先生」

別れの挨拶には答えず、彼の顔を見ることもなく、はそのまま講師専用宿舎へと入った。
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(11.10.10)
Лучше горькая правда, чем сладкая ложь(甘い嘘より辛い真実のほうがいい)