「悪魔歴史学のです。わたしの授業では、虚無界の住人である悪魔が我々物質界の歴史に如何にして関与してきたかについて、一年を通して勉強してもらいます。よろしく」 二限目の悪魔歴史学は、三十代くらいの女先生だった。背中まである黒髪ストレートの似合う、落ち着いた和風美人、クールビューティー? ていうの? 笑顔もなんていうか、ちょっと底知れないかんじ。 大人の魅力で、なんつーか、どストライク、ちょう、俺の好み! 教室を見渡した先生の眼が、ちょうど俺のところで冷たく細められさえしなければ。 (え、えっ?) 先生はすぐに何事もなかったかのように今後の授業計画についてざっと説明を始めたのだが。 「……なあ、俺いま絶対ガンつけられたよな?」 「そうですか? あれがガンをつけられたということになるなら、わたしなどしょっちゅうですよ」 「なに、おまえ嫌われてんの?」 「まぁ、好かれてはいないでしょうね」 このピエロ犬が嫌われているのは分かるとして、でも、なんで俺? なんで俺が睨まれなきゃなんねーの? わけ分かんねぇ。 メフィスト犬を膝に載せた奥村燐は、真新しい教科書をあてもなくぱらぱら捲りながら、ときどき講師の顔色を窺ってその日の授業を過ごした。特にそのあとは、何も起こらなかったけれど。 Шила в мешке не утаишь 「危険すぎるわ」 「ですが彼はこれまで『人』として、ごくごく普通に生活をしてきました。一般教養の授業は特に問題ないでしょう」 「それは彼が覚醒する前の話でしょう。万が一のときは一般生徒にまで被害が及ぶわ」 「兄はそこまで不安定ではありません。それに、クラスは違いますが僕もできるだけ目を離さないようにしますから、どうかご心配なさらないでください」 背後から聞こえてきた声の主を、振り向いてきつく睨み付ける。奥村雪男はこちらの殺気に一瞬怯んだようだったが、すぐに唇を引き結んでまっすぐに見返してきた。 睨み合いを続ける気にもならず、ふいと離脱して再び机越しのメフィストを見据える。 「もしものときはわたしからヴァチカンに通報する。いいわね」 「『もしも』を起こすつもりは毛頭ありませんが……困りましたね。できることならば日本支部の中で丸く収めたいところですが」 「奥村燐の存在そのものが日本の中で抱えきれる問題じゃない。あのとき殺さなかったあなたの責任だと自覚して。それでもわたしが邪魔になるようなら好きにすればいいでしょう」 「わたしの責任、ですか? 十五年前、処分が決定されたサタンの仔を生かしたのは藤本の独断だ。わたしはその尻拭いをしているだけですよ、あなたもあの件に関しては無関係ではないでしょう」 しゃあしゃあと言ってのける男の蒼白な面持ちに、目を剥く。湧き上がる憤怒を隠すことなく喉から絞り出してぶちまけた。 「あなたと一緒にしないで! わたしの忠誠は常に騎士團に属する。確かに……あの頃のわたしは、何も知らない子供だった。だからこそ、あのときの落とし前は自分自身でつけるわ」 「ご立派な覚悟だ」 「できないと思わないことね。あんたを懲戒尋問にかける材料なんていくらでも用意できるんだから」 「肝に銘じておきます」 顔色ひとつ変えずに、さらりと受け流す。 気に食わない。いつかこの男の肝を、本当に潰してやる日を夢見て。 彼女が憤然と立ち去ったあと、理事長室に残された奥村雪男は思いかねたように口をひらいた。 「フェレス卿……その、先生が兄の件に無関係ではない、というのは、どういう意味ですか」 「ああ、あなたには関係のない話ですよ、奥村先生」 「関係ないって……」 雪男は不服げだったが、出過ぎた問いだと気付いたのだろう。彼は大変に物分りが良い。すぐに口を噤んでそのたたずまいを直した。 メフィストはくるりと椅子を回してそちらに背中を向けながら、独りごちる。 「まあ、今の段階では、と言うべきかもしれませんがね」 「……はあ」 「もう結構ですよ。ご足労をおかけしました」 「いえ。失礼します」 律儀に一礼して雪男が退室したあと、メフィストは窓辺に立ち、この百年に築き上げた自らの箱庭の一部を見渡した。あの頃には考えもしなかった、面白い方向へと事態が転ぼうとしている。 これだから、常に予測可能な虚無界へ戻る気には、到底。 「さて、どう楽しませてくれる?」 我らが末弟、奥村燐。そして。 まあ、坊に言わせたら「そないなこと言うておまえ朝までぐっすり寝とったやないか!」らしいけど。 「今日は前回の小テストを返却します。呼ばれた順に取りに来てください」 今日の二限は先生の悪魔歴史学。なんつっても、なあ、ほら、先生、美人さんやから? 俄然、授業も頑張って受けようって気になるし? 歴史はもともと苦手やったけど、こないだの小テストは坊に教えてもろてこれでもめっちゃ勉強してんで? 「勝呂くん」 先生はなんちゅーか、クールビューティーってやつで? そないにちょいちょい笑たりせーへんけど。さすが坊はええ笑顔見せてもろてるなぁー……ほんに羨ましいわぁ。 あ、ええなぁ、子猫さんも笑てもろてる……はーーーー、どうか、どうか、せめて半分は……。 「志摩くん」 「は、はいっ!」 「? おまえなに緊張しとんねん」 あかん、声が裏返ってしもた。かっこわるー。 とぼとぼと教壇まで歩いていくと、先生はまず俺の答案をじっと見てなんだか難しい顔をした。 「あ、あの……」 「惜しいんだけどね。どれも惜しいんだけど……志摩くんはまず一般向けの歴史概論から目を通したほうがいいわね。初回授業で何冊か紹介したと思うけど」 「あ、は……すいません、試験範囲の教科書復習するだけで時間のうなってしもて」 「悪魔っていうのは中級以上になると、人間でいうところの寿命というものがないと考えていいわ。つまりこの物質界の歴史には幾度となく同じ悪魔たちが登場してきたし、この先も現れる可能性がある。 我々祓魔師にとって歴史を学ぶことは一般人以上に重要な作業なの、みんなそのことを忘れないで」 「……はーい」 はあ。一般向けの本から読めって。そらないわー。や、まったくもってそのとおりやけどさ。俺、ほんに勉強って苦手やねんなー。 すっかり肩を落として答案を受け取る廉造に、は不意に微かな笑顔を見せた。 「まあ、努力はじゅうぶん伝わりました。この調子で次も頑張って」 「へっ……え、あ……はいっ! 俺がんばりますっ!!」 なんやなんやなんや、先生めっちゃ優しいやんおれ誤解しとったわ!!!!! うきうきと歓声をあげる廉造の耳に、勝呂の「げんきんなやっちゃな」という声が届いたが、そんなことはまったく気にならないほど彼の心は浮き立っていた。 やったる、俺、やったるでーーー先生のためにも死ぬ気でやったる!!!!!! そのあとも先生はひとりずつコメントと笑顔を見せて答案を返していったんやけど、例の彼、奥村くんのときだけはどーも様子がおかしかった。 「奥村くん」 「はい……って、え!!??? まじ、レ、レ……」 突き返された答案を目の当たりにして、奥村くんが言葉を失う。レ……レ? まさか、レ……。 静まり返った教室のなか、坊の嘲笑だけが聞こえる。 「ありえへんわ。ほんま何しに来てん、それ持ってとっとといね」 「うっ、うっせえトサカ、お前に関係ないだろ!」 「目障りや言うてんのや何べん同じこと言わすねん!!!」 「坊、やめとき、それこそみんなの邪魔や」 「やかましぃ止めんなあいつが視界に入るだけで胸糞悪いんや!!!!」 「勝呂くん、そのへんにしときなさい。馬鹿がうつるわ」 「ば……へっ?」 俺と子猫さんに押さえつけられた坊が、糸でも切れたみたいにぴたりと動きを止めた。もちろん、俺たちも。 仲裁? に入った先生のあのきれいな顔が、あんまり無表情やったから。 「奥村くん、座りなさい」 「…………はい」 ただならぬ気配を感じて、奥村くんも、そして俺たちもそそくさと席に着く。絶対これ、教室の温度三度くらい下ごてるで。 先生は、呆れた様子でもない。教卓に両手をついて、ただただ淡々と話しはじめた。 「こんなことは、今さら皆さんに言って聞かせるまでもないと思います。皆さんの目指す祓魔師という仕事は、結果がすべてです。相手は文字通りの悪魔、ほんの一瞬の油断が命取りになります。 『努力はした』 唾を呑むのも躊躇ってしまいそうな、重苦しい沈黙。威圧しているわけでもないのに、潰されそうになった。 「ですが、今ここで祓魔術を学ぶあなたたちは別です。実戦を積むためにはその土台が不可欠、好きなだけ間違いなさい、それが最終的にあなたたちの血肉となればいい。 逆に言えば過ちを犯せるのは今だけです。候補生となれば、命の確実な保障は得られない」 静かな口調だった。だからこそ、身体の芯まで深く刺さる。 と、先生の声が急にあからさまな厳しさを帯びた。 「努力する者には我々講師も指導を惜しまない。ですがその形跡も見られないような人間に構っている暇はありません、せいぜい他の訓練生の邪魔にならないようおとなしく端に退いていてください。では小テストの簡単なおさらいから始めます」 ここでいつもの坊なら、奥村くんのほうを見て「ざまあ!」な顔くらいするんやろうけど。 こえええええええええ先生こわすぎ!!!!!! 露骨な奥村くん攻撃!!!!!!!! 零点とる奥村くんも奥村くんやけど!!!!!!! 結局、歴史学の授業が終わるまで教室の温度は一向に上がらず、あんなに浮き立ったはずの廉造の心もすっかり萎んで小さくなってしまっていた。 |