祓魔塾も二年目以降になると、その習熟度の違いによって別学年の授業を受けることも多くなる。基本のクラスは変わらないが、は魔法円・印章術の授業は一年生のクラスを受講するようになっていた。

「ああ、さん? 二年のクラスらしいよ」
「医工騎士から手騎士にこないだ変更届け出したって」
「藤本先生の授業ついてけんからって手騎士とか、あんま舐めんでほしいわ」

背中でひそひそと聞こえるやり取りを、無視する。馴れ合う必要はない。一匹狼を続けるつもりもないが。表立って歯を剥く必要も、他人の顔色を窺って機嫌を取ることも。
床に描いた魔法円に手をかざし、詠唱する。

「水の女神、その御名に永久の賛美を希わん」

瞬間、円の中心から高く吹き上がった水流が徐々に人の形を作っていく。距離を置いてそれを見ていたクラスメイトたちが、呆けたように歓声をあげた。

「す、すげえ!」
「水の精ルサルカ……いいぞ、

他人のどんな言葉も、構わない。
あいつの笑顔さえあれば、わたしはどんなことにも耐えてみせる。

(ユリ……わたし、やれるだけやってみるね)

自信なんて、どうやって持てばいいかなんて分からない。
だけど。
もう、迷わない。誰に置いていかれたって、前だけを向いて走り続けてやる。
バベル
Всякому овощу своё время
ー、は冬休みまた残るの?」

基本的に例外は認めない全寮制の正十字学園だが、夏と冬の長期休暇だけは申請を出せば実家に戻ることができる。が、一年目と同様、は冬休みを寮で過ごすことに決めていた。
帰ったところで共働きの両親はほとんど家にいないし。それほど会いたい家族でもない。学園に残って勉強しているほうがずっと生産的だ。 タートルネックを口元まで上げながら、は投げやりにうなずいた。

「ふーん。あ、勝手にわたしの練り歯磨き使わないでよ?」
「使ったことないし。それわたしじゃなくて香織」
「えっ、まじ? 香織はだって言ってた」
「わたしミントしか使わないし!」

とんだ濡れ衣!
実家に送る休み中の荷物を詰めるルームメートの背中に一瞥だけをくれて、は再び課題へと戻った。
ユリはどうしているだろう。
彼女が帰国して、早くも四ヶ月が経過していた。一回は、電話した。メールはまぁ、相変わらず。もともとケータイ見てないってのもあるだろうけど、きっとそれ以上に、彼女はそれどころじゃなくて。
寂しくなんかない。当然だ。彼女はもう、わたしたちとは違う場所にいる。

「よう、せっかくのクリスマスにご苦労なこった」
「ちょ! な、なんなのよ、そっちこそこんなとこうろついてて暇なの!?」
「暇なわけねぇだろ。図書館ってのはな、そもそも本を借りるための場所なの」
「知ってるし! 馬鹿にしてんの?」

図書館のおく、窓際からもっとも遠い区画にあるテーブル。歯を見せて笑いながら隣の空席に掛ける藤本の手には、何も掴まれてはいない。
ただでさえ、志望を手騎士に替えたせいで彼の授業数が減ってしまった上、休暇中の内一週間は塾さえも休講で。
そんな中、偶然であったとしてもこうして塾の外で彼が話しかけてくれただけでこんなにも嬉しい。
認めてなんか、絶対にやらないけど。

構わず課題を進めようとするこちらの顔を、肘をついて覗き込みながら、藤本が声をひそめる。

「なあ、お前、今夜ヒマだろ?」
「は……はあっ?」

ちょ、いきなりなに言い出すの、この生臭坊主!!???
耳を疑い、しどろもどろになるを横目に、藤本は意地悪く目を細めて笑った。

「お前、今やらしいこと考えただろ」
「え、はっ……ば、馬鹿じゃないの、このエロ神父!!!!」
「にゃははは、なあ、鏡でも見てみたらどーだ? 今のお前の顔、プハハハハ、傑作だこりゃ!」
「し、死ね!!!!」

やだ、わたしったらいつもの藤本の下らない冗談なんかに動揺して。穴があったら今すぐ埋もれたい!
ひとしきり笑って満足したらしい藤本が、鼻を鳴らしながら続ける。

「ばーか、お前のまな板なんか興味ねぇっての。そうじゃなくて、ほら、去年のあれ、来るか?」
「まな板って、ちょ……えっ、は? 去年の、何?」
「おいおい、忘れちまったのか。去年のクリスマス、エギンと一緒にうちのパーティー来ただろ?」
「……あ」

そうだ、ちょうど一年前。
留学生の多くは冬休みも学園に留まるため、藤本の配慮で    と、これは本人は決して認めないのだが    彼の勤める南十字男子修道院にて、毎年クリスマスパーティーが開かれることになっていた。 当然参加は自由だが、留学生には全員声がかけられているらしい。ユリに付き添って、去年はも特別に参加していたのだ。
けれど。つまり、それって。

「わたし、留学生じゃないんだけど」
「見りゃ分かるっつーの」
「じゃあ何なのよ、わたしそんな暇じゃないんだから!」
「実は今年、一年の女の子がひとり参加予定になってんだ。男ばっかじゃむさ苦しいだろ、、おまえ付き合ってやれよ」
「はあ!? なんでわたしが見ず知らずの留学生に……」
「どうせ暇だろ、寂しいクリスマスなんだろ」
「か、勝手に決めてんじゃないわよ、予定入ってたらどうしてくれんの!」
「入ってんの?」
「……はいってない、けど」

結局認めてしまう自分の素直さが、恨めしい。こんなこと藤本に言ったら、鼻で笑われるのがオチだけど。
ニッと口角を上げ、藤本が椅子の上で身体ごとこちらに向きなおる。

「だったら来いよ、一晩くらい課題のことなんざ忘れちまえ。俺もお前がいてくれたほうが楽しい」
「………」

また、こいつは。こっちの胸をかき乱すようなことを、平気でさらりと。
何も言えずに口ごもるを見て、イエスと判断したのだろう。話はすんだとばかりに腰を上げた藤本が、正服の裾を軽くはたいた。

「んじゃ、ミサが終わったら迎えよこすわ。七時半に……そうだな、大講堂前な」
「ちょ、勝手に決めてんじゃ……」
「今夜は相当冷え込むみたいだからな、あったかくして来いよー」
「人の話聞け!」

今さら、そんなこと期待してないけど。
だけどもしかしたら、これくらいの関係のほうがちょうどいいのかもしれない。
彼にじっと耳を傾けられたらきっと、わたしは何も話せなくなってしまう。

気楽に手を振って離れていく彼の広い背中を、見つめる。
ねえ。
いつか真正面から向き合って、素直に話ができる日が来るのかな。

ううん。やっぱり。
今のままでいい。今のままが、いい。
この時期になるとさすがにどこへ行っても寒くて、食堂も、図書館も、そして自室さえも自ら暖房をつけるまでは凍えそうな温度だ。
だけど、ここは    この空間だけは、唯一。

「メリー・クリスマス!」

パーン! と高らかにクラッカーが弾け、色とりどりの紙吹雪が降ってくる。今年の参加留学生は去年より若干少なめだったが、藤本をはじめ修道院の面々が大いに盛り上げ、もそれなりに楽しむことができた。
もっとも、クリスマスをこうして藤本と過ごすことができる    それだけで。
ふたりきりでいたかったなんて、そこまで思い上がってはいない。

「モニカ、わたしトイレ」
「はーい、いってらっしゃい」

例の一年生の女の子、というのは気楽なイタリア人。名門正十字に留学してくるということで、日本語はみんな程ほどに流暢だ。はグラスに残っていたコーラを飲み干してひっそりと席を立った。一年前とはいえ、トイレの場所くらい覚えている。
奥まった通路をしばらく歩いた突き当たりで用をすませ、再び廊下に出たが何気なくケータイを取り出したそのとき、一件の着信があることに気付いた。

(……ユリ?)

どうしたんだろう。彼女から電話なんて、初めてかもしれない。すぐにかけなおしたが、どうやらロシア語と思われる留守電のメッセージに繋がってしまった。何も残さず、ひとまず切る。 友人のことは気がかりだったが、あとでまた電話しようと決めて、そのままケータイをポケットに突っ込んだ。
そして広間に戻ろうと廊下を引き返す途中、右に分かれた通路のおくから漂ってくる煙草のにおいに気付いては足を止める。

「主催がこんなとこで油売ってていいの?」
「んー? あんだけ仲良くやってりゃもう俺がいようがいまいがどうでもいいだろ」
「自分が煙草吸いたくなって出てきただけでしょ、それ」

角を曲がって進み、窓辺で煙をふかせる藤本の隣に立つ。満月に近い今夜は空が明るい。

「ねえ」
「ん?」
「それ、中毒なの?」
「はあ?」
「煙草」
「なんなら試しに吸ってみるか    ばか、冗談だよ」
「死ねこの生臭坊主」

冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ。曲がりなりにも聖職者が!
刺すように睨み付けてから再び窓の外に目をやると、煙草のにおいと共にすぐそばで藤本の失笑が聞こえた。呆れたように、

「俺が死んだら寂しいくせに」
「ばっ! ばかじゃないの、誰がいつそんなこと言った!?」
「言わなくてもお前は全部顔に書いてあるからな。分かりやすくていいや」
「か、勝手なこと言ってんじゃないわよ! さっさと死ね!」

全部、顔に書いてあるとか。どこまで本気で、どこまで冗談なんだか。
もしそれが本当だとしたら    わたし、もうこれからあなたの顔見て話せない。

熱くなった顔を隠して俯いていると、窓の外を向いた藤本が僅かに声の調子を変えた。

「お。降り出したな」
「えっ」

つられて外を見ると、粉雪がちらつきはじめていた。うわ、何年ぶりだろう、ホワイト・クリスマス……。

「いっつもそういう顔してりゃ可愛いのに」

そんな藤本の声で初めて、自分が窓にくっついて空に魅入っていることに気付いた。そして急に、クリスマスの晩に大好きな彼と、経過はどうあれふたりきりであることを意識した。
一気に体温が上昇して、何を喋っていいか分からなくなる。

「か、可愛くなくていいし! どうせこんなまな板に興味ないんでしょ!」
「なにむくれてんだよ。褒めてんだぞ?」
「聞こえないし! あんたに褒められても気持ち悪いし!」
「ったく、お前はそれしか言えねぇのか」

呆れ顔で微笑んだ藤本が、剥き出しの歯で短くなった煙草をくわえる。そして空いた両手でぱっと無遠慮にこちらの頬をはさんだ。

「ばっ、ばか、つめたい!」
「たまには素直に嬉しいとか言ってみろってんだ。欲望に忠実なのもいい女の条件だぞ?」
「なに、それ、漫画の読みすぎなんじゃない!?」
「ばーか。大人の男の経験則だよ。覚えとけ」

大人の男の、経験則。
そう、そうだよね。わたしみたいな子供と違って、この人はこれまでにたくさんの経験をしてきて。
わたしなんか、目に入ってるわけないんだ。



俯くの鼻腔に、さらに濃い煙が届く。近付いた距離に身じろぎしたそのとき、すぐそばからアップテンポな着信音が鳴り響いた。藤本はすぐさま身体を起こし、取り出したケータイの液晶画面を確認する。 触れられた手のひらの冷たさにまだ動悸が止まらないを一瞥して、ぞんざいに告げた。

「お前は戻ってみんなの相手でもしとけ」
「ちょっ、わたし今日はあんたのパシリで来てるんじゃ……あーーーもう!!!」

ケータイ片手に慌しく去っていく藤本の後ろ姿に、悪態をつく。結局いつも、振り回されて終わるのだ。胸の鼓動がしばらくは収まりそうにない。
あのまま電話がかからなければ、ひょっとしたら    そんな馬鹿げた妄想すら、かすめる。
でも、だって。そうじゃなきゃ。

(もう……なんなのよ、いったい)

誰にでもこういうこと、するの? どちらにしたって、わたしにはどうすることもできなくて。
歩き出したが向かったのは、パーティー会場の広間ではなく藤本の消えた奥の通路だった。
写真素材(c)mizutama
(11.10.06)
Всякому овощу своё время(どんな野菜にも旬がある)