「ほんとに、帰っちゃうんだ」 「うん。最初からその約束だったしね」 知っていた。ロシア支部のお偉いさんの一人娘であるユリが、無理を言って留学してきているということ。二年で祓魔師の称号を取得できなければ強制的に帰国させられるということ。 試験に合格次第、モスクワに戻り支部の職に就くこと。その条件で日本留学を許可されていたということ。 はじめから全部、分かっていたことだった。 「ユリがいなくなったらわたし祓魔塾の紅一点になっちゃう」 「あはは、三人クラスのね」 「高校出るときにはわたし以外全員脱落してたりして」 「それはないんじゃない? 少なくとも宇田川くんはと同じくらい負けず嫌いでしょう?」 「一緒にしないでくれる、失礼ね!」 歯を剥いて怒鳴るも、ユリは気楽に声をあげて笑うばかりだ。 祓魔塾の成績が思うように上がらなくて、一般教養の授業にもどんどんついていけなくなって。やけになるわたしをいつも救ってくれたのは彼女 (に助けられてたのはわたしのほうだよ) そう言って、笑う。いつだって彼女は微笑む。それこそ本当に、天使でも舞い降りたように。 彼女の青い瞳は、まさに使徒の宿るそれだった。 寮の荷物はほとんどまとめ終わっている。彼女の使っていたスペースがきれいに掃除されていく様を、はぼんやりと眺めていた。同じ部屋を使っているあとのふたりは外出中。うるさくなくてちょうどいい。 昨日授与されたばかりの真新しい紋章を首から提げたユリが、最後の衣服を詰め終えて振り向く。 「ね、出発前に校内ぐるーって散歩したいんだけど、付き合ってくれる?」 「うん、もちろん」 そのつもりで、図書館にも行かずに待っていた。 ありがとうと微笑んだワンピース姿の彼女と、夏の熱気のなかを並んで校庭へと出て行く。この並木道も、あの広場も。彼女がいなければきっと横切ることさえなかった場所ばかりだ。 ユリのおかげで見えるようになったものはたくさんある。思わず踏みかけた一輪の野花を、すんでのところで浮き上がって避けた。 「クロ! よかった、会えて」 寮を出てしばらく歩いたところで、茂みから出てきた黒猫を見つけてユリが歓声をあげた。近くのベンチに座り、膝に抱き上げていつものように構ってやる。この光景を見るのも最後なのだと思うと、は少しやるせない気分になった。 「そんなに気に入ってるなら連れて帰ればいいんじゃない?」 気楽に尋ねると、クロの背を撫でるユリの手が止まった。クロが続きをねだってその腕に擦り寄る。 ユリは苦笑しながら、居心地悪そうに目線を落とした。 「できないよ。モスクワと東京じゃ環境が全然違うし……この子の命に、わたしは責任持てない」 「そんな、犬とは違うんだし。こんなに可愛がってくれるユリに拾われるならクロだって本望じゃないの?」 「」 ピンとした声で、呼ばれた。振り向かずとも知れる 「猫一匹連れ帰るってのはな、そんだけの責任が要るんだよ。そのへんに住み着いてる適当な野良を、その気になったときだけ可愛がっときゃいいのとはワケが違うんだ」 「わ……分かってるわよ、そんなの! でもこんだけ懐いてるなら、そっちのほうがクロだって……」 「お前はそれでいいだろうが、エギンは明日からロシアで責任ある地位に就く。もう甘っちょろい学生とは違うんだ、そういうことはお前が猫一匹まともに世話できるようになってから言え」 甘っちょろいと言われて、腹が立たないわけがない。けれども言い返せなかった。どんどん先を行ってしまう。ユリだけじゃない、宇田川だって、篠だって。みんなみんな、わたしよりもずっと先を行ってしまう。 あまりの歯がゆさに涙を呑んで押し黙るの隣で、ユリは半身を屈めて膝上のクロをそっと抱き締めた。 「確かに、こんなに可愛がるべきじゃなかったね。どうせ帰るって分かってるのに」 ごめん、と詫びて、その鼻先にキスをする。その光景を見て、我慢していた涙がつとこぼれ落ちたとき、藤本のさらに後ろから突然、芝居じみた朗々とした声が響いた。 「これはこれは! 探しましたよ、エギンくん!」 びくりと飛び上がって、振り返る。そこに両腕を広げて立っていたのは、真っ白なスーツにマント、バルーンパンツ、シルクハット 「時間です。準備はよろしいですか?」 「はい、フェレス卿。お手間を取らせて申し訳ありません」 「構いませんよ。あなたのような優秀な人材を日本支部で育てられたことをとても光栄に思います」 「……恐れ入ります」 恭しく一礼する彼女は、もう自分の知っている友人ではないかのようだ。だがこれは、紛れもなく机を並べて共に学んだユリ・エギンそのひとだ。 わたしだっていつまでも、子供のままではいられない。 「おやおや。くん、別れの挨拶はもう済みましたか?」 そこで初めて気付いたとばかりに理事長がこちらを見やり、は慌てて涙を拭う。泣いているのを見られた。いやだ、最低! 「わたしみたいな落ちこぼれには、どうぞお構いなく!」 「おやおや、そのような報告は受けていませんよ。あなたには貴重な手騎士としての素質がある、これからも鍛錬を怠らず、一日も早く立派な祓魔師となっていただきたいですね」 手騎士。確かに一年目の授業で下級悪魔の召喚には成功した。でも、それでもわたしには。 黙するこちらのことなどすでに眼中にないかのように、理事長が再びユリのほうへと顔を向ける。 「よろしいですか? この学園もきっともう見納めだ」 「……はい。大丈夫です」 「よろしい! ではこちらへ。ロシア支部でのあなたの活躍を、我々も期待しています」 理事長の声に驚いたのか、クロがびくりと跳ねてベンチから飛び降りた。そのまま走り去っていくのをユリは一瞬思い切れないような目で追ったが、すぐに理事長へと向き直り、「ありがとうございます」と頭を下げた。 「」 「あっはい!」 これまでの流れで、自然と敬語になってしまった。苦笑したユリが、その傷だらけの右手を差し出してくる。調合でよく怪我をする、白くて小さな手を。 ようやく立ち上がってその手を握り返すと、そのまま正面からぎゅっと抱きすくめられた。 「ユっ、ユリ……」 「ありがとう、。本当に……ありがとう」 ううん。本当に、いくら言っても足りないのはわたしのほうで。 それなのに、思うように言葉が出てこなくて。 ただその背中を、きつくきつく抱き返してうなずいた。 「エギン」 「は、はい」 藤本の呼びかけに、ユリがぱっと顔を上げて離れる。涙混じりに微笑み合うと、ユリの足が動いた。 理事長について遠ざかる彼女の後ろ姿を眺めるの肩に、藤本が黙って手を載せる。それを払って少し距離を取りながら、それでもは親友の背中を見ていた。 「いやぁ、実に素晴らしい青空ですね! エギンくんの新たな門出に相応しい!」 文字通りの快晴を振り仰ぐ理事長の声が、まだこちらの耳に届く。 そして藤本も、を置いて走り出した。 さほど離れていないふたりに追いついて、そのまま離れていく。 「……なによ」 何でこいつ、ここにいるの? せっかく、ひとりになれるいい場所を見つけたと思ったのに。 ねえ、なんであんたがここにいるの? 「パンツ見えてんぞおい」 「っっちょ、なに見てんのよ!!!????」 「公害」 「なんか!!!??? 言った!!!????」 「のパンツは水玉パンツー」 「ちがうし!!!!!」 見えてないじゃない、馬鹿! ほんとに……こういうところは、そのへんの子供と変わらないんだから。 だけどこの人は、世界が認める祓魔師で。 わざわざ外国から、教えを請いたいと来日してくる人たちがいて。 祓魔師は万年人員不足だけど、そんななか日本支部がトップレベルだと言われているのはきっと。 美術棟の屋上に広げていた教材をかき集めるを上から覗き込んで、藤本がぼやく。 「なあ、お前さ」 「なに」 「そりゃ、担当講師として生徒が自分の科目がんばってくれてんのは嬉しい限りだけどよ」 講師、生徒。そんな当たり前の単語が胸に突き刺さる自分が、いやだ。 抱き抱えた教材の多くは悪魔薬学のそれだった。 「でもお前、もっと向いてる学科あるんじゃねーの?」 「……なにそれ。お前に医工騎士とか向いてないからやめろって言ってんの?」 「やめろたー言わねぇけど。でもメフィストも言ってたろ、お前には手騎士の素質があるんだよ。何でそっちで希望出さなかった?」 「………」 悔しくて、歯がゆくてたまらなかった。あなたの下で学びたかった。他でもないあなたに認められたかった。でも、実際は友の背中を見送りながらこんなところで足踏みしているだけじゃないか。 嘆息混じりに腰を落とした藤本の顔が、近い。耐え切れなくて、逃げるように顔を逸らした。 「医工騎士じゃねぇとだめな理由でもあんのか?」 ない。と認めてしまったら、これまでのわたしはどうなるの? 投げ出してしまいたいときも、ユリと一緒に踏ん張ってきたこれまでのわたしは? わたしは……だって、わたしは……。 「……自信なんか、ない」 「ん?」 「『悪魔を飼いならす強靭な精神力』……そんなの、わたしにあるわけない」 授業で初めて悪魔を呼び出したとき、わたしは自信に満ちていた。祓魔塾の成績が良かったわけではないけれど、これからどうにでもなると信じていた。 でも、試験を重ねるたび。候補生として任務に出るたびに。どんどん置いていかれるような気がして。 俯き、くちびるを噛み締めるの傍らで、藤本は黙ってすっくと立ち上がった。ハッとして見上げると、彼のいつになく冷たい眼差しが容赦なく降ってくる。 「そんなんだったらやめちまえ。候補生のくせにそれくらいの覚悟もねぇんなら、塾なんざさっさとやめちまったほうがいい。そのほうが一般教養にも集中できるだろ」 優しい言葉なんて、期待してたわけじゃない。涙をこぼす余裕さえ与えず、藤本の追い討ちは続いていく。 「自信がない? だから前線に出ずにすむ医工騎士ならやれるってか? ふざけんな、そんな舐めた人間に祓魔師なんざ務まると思ってんのか!!」 「わ、わたしそんなつもりじゃ……」 「そんな腑抜けた野郎にこれ以上教えられる祓魔術なんかねえ。さっさと退塾の申請でもしとけ」 「ど すでに背中を向けて離れていく藤本へと絞り出した声が、かすれて消えた。それでも。 行かないで。ねえ、お願い。 教えて。どうすれば。 「どうやったら……自信なんか、持てるの……」 階段へと続くドアの手前で止まった藤本が、少しの沈黙を挟んで振り返る。優しくはなかった。それでも。呆れたように、肩をすくめてみせた。 「人と比べんじゃねぇ」 黒衣に包まれたそのすらりとした姿が、涙で揺らぐ。 「素質がなけりゃ候補生の試験なんか受かってるわけねぇだろ。周りの人間と比べるな、お前が人一倍努力してることなんざこの俺が一番よく知ってる」 突然、思ってもみなかった言葉を聞かされて。跳ね上がる鼓動と同時、身体中がカッと熱くなった。 ずるい。そんなこと、さらりと言うなんて。ずるいよ、そんなこと言われたら。 「あれ? もしかして惚れちまったか?」 「ば!!! ばかじゃないのエロ神父死ね!!!!!」 わたしの心は、とっくの昔に。 なっはっは! と腹の底から笑う藤本の姿に、魅入る。そうだ、わたしはこの人がいたから、だから。 ようやく笑いが治まったらしい藤本がそのままズカズカと大股でこちらに戻ってくる。思わず身を強張らせたの頬に両手を伸ばして、少し乱暴に目元を拭った。 「いつまでも泣いてんじゃねぇよ。ったく、ガキか」 「な、なによ、いっつもケツが青いとかって子供扱いするくせに!」 「へぇ、お前に青くないケツがついてるってんなら拝ませてもらおうか? え?」 「ちょ!!! 今のは確実にアウト、セクハラ、訴える!!!!」 「いちいち喚くな、レディー扱いでもされたいならまずいい年した女の子がケツとか言うな」 「わたしじゃないしあんたの真似しただけだし!!」 「こりゃ当分レディーになるのは無理だな? 悔しかったら俺を振り向かせるくらいのいい女になってみろや」 口を噤んで睨みつけるを見下ろして、藤本がニヤリと笑う。もしかしたら、わたしの気持ちに気付いているのかもしれない。そう思わせるような、意味深な瞳で。 ねえ。 ここで背伸びをしてキスしてしまったら、きっとすべてが変わってしまうね。 それともあなたは冗談にして、笑い飛ばしてしまう? どちらにしてもわたしは、気楽に笑いながら踵を返すあなたの背中に、ただ声をあげることしかできないの。 「あんたどころか世界中の男が振り向くようないい女になってやるわよ。そのとき後悔したって知らないからね!」 そんなありふれたフレーズを口にすることさえ、やっとで。 肩越しに振り向いた藤本の瞳が、やさしい。 「そのときはこの俺がさらいに行ってやるから安心して待ってろ」 ねえ。 その言葉をただ夢に見るだけなら、自由よね? 「あ、俺が好きなの巨乳だから、がんばれ」 「聞いてないし!! っていうか何それわたしが貧乳だって言ってるの、ねえセクハラ!!!!!」 「え、自分でボインだと思ってんの?」 「思ってないし!! っていうか……あーーーーーーーもう!!!!」 いつもいつも、手玉に取られて最後にはどうでもよくなってしまう。悩んでいるのが馬鹿みたいに思えて。 ねえ。 あなたはわたしにとって、自分がどれほどの存在かなんて考えることもないんでしょう。 考えなくてもいい。知らなくてたっていい。 ただこうしてそばにいて、くだらないことで声を張り合えるだけで。 その日わたしは、手騎士コース希望の書類を改めて提出した。 Выше головы, не пригнешь |