「よう、エギン。休み時間に呼び出して悪かったな」 「いえ。遅くなってすみません」 祓魔術の授業で使う教室に入ると、藤本は生徒側の座席に座ってひとり本を読んでいた。本、というのは、近付いてよく見ると日本の代表的文化、マンガだ。 彼はそれを隠しもせず堂々と机の上に置き、伏せていた一枚の紙を裏返してめんどくさそうにこちらに見せた。 「またロシア支部から書面が届いてな」 「……はあ」 「はあ、じゃねぇよこれお前の親父さんだろーが」 藤本が肘をついて指差した箇所には、『正十字騎士團ロシア支部 副支部長バレンチン・エギン』とある。口ごもるユリに対して盛大に嘆息し、藤本は「いいから座れ」と自分の隣を顎で示した。 ユリが同じ長椅子に少し距離を置いて掛けると、ファックスを掴んだまま腕を組み、ぼやく。 「大体の事情は聞いてるけどな。聞いてねぇところもまぁ、大体の察しはついてる」 「え、あ……」 「でもま、お前さんみてーな優秀な人材は、そりゃロシアだって自分の懐で育てたいさ」 「そんな……わたしは、」 「向こうにだって力のある祓魔師は大勢いる。ま、こんなこと、エギン上一級祓魔師の娘に今さら言って聞かせるような話じゃねぇが」 「それでも、わたしは……!」 隣の席に座る藤本が前を向けば、自然と横顔を拝むことになる。が、彼の眼はこちらを見ていた。普段の飄々としたものではなく、ときどき不意に見せる 心臓が跳ね、思わず、下を向きたくなった。けれどもすんでのところで踏みとどまって、しっかりと見つめ返す。彼は瞬きさえしなかった。少なくとも、それを感じさせるほどの断絶は見せなかった。 乾いたくちびるを大きく動かして、心から、訴える。 「わたしは、あなたの下で学びたいんです。そのために子供のときから日本のことを勉強してきました。あなたの強さを、母はよく知っていました」 「強さ……ねぇ。で、お前はどうなんだ?」 「えっ?」 「親父の反対押し切って、こんなアジアの端っこまで飛んできて。実際に授業受けてみてどうなんだ、俺にそんだけの価値があると今でも思ってんのか? ほんとは国に帰りてーんじゃねぇのか?」 そんなふうに……思ってたの? 後悔してないなんて、言うつもりはない。寂しくないって言ったとしてもそれだって嘘だ。だけど。 「そんなこと思ってません。母はあなたを尊敬していました、だから 「母親のことなんざどうでもいいんだよ! お前自身がどうしたいか、俺はそれを聞いてるんだ!!」 授業中にも聞いたことのないような声量で怒鳴りつけられて、竦み上がった。気付かないうちに涙がにじんだ。それでも見つめ続けるユリの瞳から、藤本も決して目を逸らさない。 数十秒が、過ぎた 「……わたしは」 「おう」 合いの手を入れる彼の声は、決して冷たくはない。 「藤本先生がいい」 「………」 「後悔する日だってあります、寂しいです帰りたいって思うことだってあります。でも、今帰ったら絶対もっとずっと後悔する。わたし絶対に帰りません、藤本先生の下で医工騎士の称号を取るまでは、絶対に!!」 もっと上手に説明できたかもしれない。でも何を言葉にしようとしてもきっと、このひとはお見通しだから。 泣きながら駄々をこねるなんて最低だ。だけど今のわたしには、それしか口にできそうになかったから。 だから。だから、だから。 今度こそ声をあげて泣き出しそうになったユリの目の前で、藤本は急に腹を抱えて笑い転げた。 「なっ! な、なんで笑うんですか!」 「や! やーーーーーーこりゃ悪かったな、こりゃ……ひゃっひゃっひゃ! や、これはいい、ハッハ!」 「せんせい!!!」 あまりといえばあんまりの反応に言葉を失うユリの頭を、不意に伸びてきた藤本の大きな手のひらがぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。驚いて、今度こそ口から何も出てこなくなった。 間近で覗き込む彼の瞳は今とても、やさしい色をおびている。 「本音が聞けてよかったよ」 「えっ」 「青くさいガキのくせに。いちいちもっともらしい理由なんか探してんじゃねぇ」 彼の手がぱっと離れたとき、少し寂しさを感じたなんて 「あんま難しく考えんな。お前が本気なら、いくらでも後押ししてやる」 「……それって、」 「ロシアのことは俺に任せとけ。適当な理由でもつけて丸め込んどいてやるよ」 「で、でも、」 ロシア支部と日本支部とがお世辞にも良好とは言えない間柄である、ということは世情に疎い自分でさえ知っている。それを、かなり強引な手段でようやく日本留学に漕ぎ着けたのだ。 協力的な答えを聞いたとたん怯むユリに、藤本はまたひとつ大きなため息を吐いてこぼした。 「どっちなんだよ。残りてーのか残りたくねーのか」 「残りたいですよ!! でも、それでもし藤本先生が……」 「俺が何だって? んなことでびくつくようなか弱い玉じゃねーっての」 話はすんだとばかりに立ち上がる藤本を、ただ視線だけで追いかける。不思議と足が、動かなかった。 背中を向けた彼の、気だるげな声が言い残す。 「いいか、俺は聖人なんかじゃねえ。でもな、俺を頼って国まで出てきた子供ひとり守ってやれなくてどうするよ」 あぁ……そうか。 だから、わたしも 教室を出る藤本と入れ違いに、が憤然と入ってくる。廊下で何やら怒鳴り声が聞こえたので、またが突っかかったのだろう。ふたりは顔を合わせれば、本当に些細なことで諍いに発展する。といっても、藤本のジョークを真に受けた彼女が一方的に食ってかかるといったケースばかりだが。 「ムカつく! まじ、ムカつく! あのクソ神父……って、え! ユリ、なんで泣いてんの!!」 「えっ? あ……ううん、なんでもない」 「何でもないわけ! ないし! ちょ、あのエセ坊主がなに言ったの!?」 「ほんとに、大丈夫だから」 は明るくて元気で、裏表がなくていつも堂々としていて。普通科クラスで群を抜く人気者。祓魔塾は、まぁ……個性的なひとばかりだから、そのぶん衝突も多いけど。 そんなだから、日本に来てまだ日の浅いわたしをよく気にかけてくれて。彼女のおかげで普通科でもやっていけていると言っても過言ではない。 巷では次の聖騎士とさえ囁かれている藤本上一級祓魔師を相手にあれほど率直に噛みつけるのも、彼女の持ち味と言えるだろう。 先ほど藤本が座っていたちょうどその席に腕組みして座り込んだが、前を向いたまま一気に早口で捲くし立てる。 「ま、最強の医工騎士だかなんだか知らないけど中身はただのエロ親父だから! 嫌なことは嫌ってはっきり言ってやればいいの! あーまじムカつく、何であんなのが四大騎士! 意味分かんない!!」 「でも、先生のこと大好きだよね」 「どの口がそれを言うううううううううううう!!??????」 目を剥いたに唇を尖らせるようにして頬を押さえられたユリはしばらくもごもごとうめいたが、放されるのも同じくらいに素早かった。 すでに清々しくあっけらかんと笑う彼女の魅力は、その切り替えの速さにもある。 「だいきらいよ、あんなエセ坊主」 は明るくて元気で、裏表がなくていつも堂々としていて。普通科クラスで群を抜く人気者。 大嫌いと口にするだけで、彼への愛情が溢れ出している。 (こんなふうに、伝えられたら) 彼女の横顔をぼんやり見つめるユリの脳裏に、ふと先ほどの藤本の言葉がよみがえった。 (あ……そっか) いつも自分がやっていることだった。気の向いた先へと、ふらりと足を向ける。 肩の力を抜いたら、自然と笑顔がこぼれた。 「わたし、好きだよ。も藤本先生も、だいすき」 面食らったようにこちらを凝視するを見て口にしたことを後悔しはじめた頃、彼女はいつもの明るい笑顔を見せて自信たっぷりに叫んだ。 「知ってた!」 藤本先生だけじゃない。わたしにはまだここを離れられない理由がある。難しくなんかない。ただただ単純な、今あるこの思い。 「でも藤本と同列にするのやめてくれない?」 塾生五人が全員揃い、講師の到着を待っている間、が思い出したようにぽつりとつぶやいた。 開けようとしたドアがひとりでにひらいた。 否、ドアが勝手にひらくわけがなく、そこには何らかの力が加わっているはずである。出てきたのは祓魔師の正装に身を包んだ強面の中年男 藤本はきょとんとこちらを見下ろして当たり前のように言ってのけた。 「なんだお前、いたの」 「『いたの』!? 何それ人をパシリに使っといて言っていいことじゃないし!!」 「あれ? 善意じゃなかったの? だってお前すげー暇そうだったじゃん」 「暇なわけないでしょ言っときますけどわたし一般教養じゃクラストップなんですからねあんたのパシリやってるようなそんな暇どこにもないのよ!!」 「へえ、じゃあ図書館裏でイビキかいてる場合じゃなかったな」 「イビっ……ちょ、適当なこと言ってんじゃないわよセクハラ! エロ親父!」 「おまえ言うに事欠いてセクハラとはなんだ、お前みてぇなケツの青いガキに興味なんかねぇよ」 「ケっ……! あのね、いちいちそういう言い方すんのがやらしいって言ってんのよあんたそれでも神父!?」 「生憎だったな。お前が喉から手が出るほど欲しい紋章持ってる生臭坊主でよ。ほれほれ」 少し腰を屈めて正十字の紋章を見せ付けてくる藤本の口からは、いつもの煙草の臭いが漂ってくる。その胸を拳で押し返して遠ざけながら、顔を背けてぼそぼそと声を出した。 「……藤堂先生が探してた」 「ん?」 「だからっ! 藤堂先生が探してた!」 「プッ。なんだ、やっぱおまえ誰が見たって暇なんだな。またパシリか、ご苦労なこった」 「もう一回言ったら殴る!!!!」 「お前の拳なんざ屁でもねぇが……あんがとな」 あんな意地が悪くて品のない聖職者なんて大嫌い。世界最強の医工騎士に教えを請うことができるという期待に胸を焦がして入学したわたしの幻想を打ち砕いた。あんなエセ坊主、さっさと失脚すればいいのに! でも。 ほんとうは、わかってる。彼が本当に力のある祓魔師であるということ。強いだけではない、彼こそが本物の祓魔師であるということ。 『藤本獅郎』は、わたしがこの世でいちばん好きな男であるということ。 (気付いてないほど子供じゃない) だからといって、何ができるわけでもない。 今はただ、彼のそばにいられることへの幸せだけを噛み締めて。 強く在りたい。彼に認められるような、そんな一人前の祓魔師になりたい。 わたしに努力できるのは、それくらいのことしかないから。 先に医工騎士の資格を取ったのは、文字通り机を並べて学び合った留学生のユリだった。 Москва слезам не верит |