先生?」

文字通りひとつの山のように築かれた正十字学園は、一定の高さを超えるとそれなりの夜景を拝むことができる。が、祓魔師専用の書庫には窓がない。 換気口のそばに座り込み積み上げた文献をあさる彼女の前に、その男は霞のように音もなく現れた。顔を上げることもなく、ただ淡々と口をひらく。

「影」
「はい?」
「邪魔」

男は自分の長身が明かりを遮っていることに気付いてすぐに立ち位置を変えたが、それだけだ。立ち去る気配は見せず、その場に無言でたたずんでいる。

「……何なの」

ひとりきりだと思っていた空間を邪魔されるのは嫌いだ。それがこの男であればなおさら腹が立つ。
隠しもせずに棘を突き刺す彼女に、男はようやくその軽口を利いた。

「ご存知だと思いますが、まもなく当学園でも新学期が始まります」
「……喧嘩売ってる?」
「祓魔塾の志願者は現在六名。内ひとりは非常に優秀な奨学生です」
「知ってる。書類には全部目を通してるわ。何なの、暇潰しなら出ていって、邪魔なの」
「本日、新たにひとりの志願者の受け入れを決定しました」

まったく変わらない男の口調に、ようやく顔を動かして視線だけを投げた。どこからどう見ても道化でしかないその衣装に相応しい芝居じみた動きで、男はさらりと告げる。

「奥村燐。藤本神父の息子です」

呼吸さえ、忘れた。じっと見詰め合う男のほうも牙を見せて微笑んだまま動かない。やっとのことで我に返った彼女は膝にひらいた事典をバンと床に叩きつけ跳ぶように立ち上がった。

「冗談も大概にしなさいよ! あんた、自分が何言ってるか分かってんの!?」
「わたしもそう思いましたよ。タチの悪い冗談だとね」

ククク、と声を潜めて笑う男の眼は心底おもしろがっている。全身から噴き出した汗のなかで身震いする彼女に、さらに鋭く口角を上げた。

「だが    面白いと思いませんか? サタンの息子ともあろう者が、祓魔師! 史上最高にユニークで、最強の武器となりうる」
「わたしは奥村雪男の講師就任だって認めてない! それを…… そんなこと、許されるはずが!」
「検査は毎日実施させます。が、弟のほうは問題ないでしょう。彼は正真正銘の天才祓魔師だ、悪魔薬学の後任にこれ以上の適任者はいない」
「それは百歩……いいえ、千歩譲ったわ! 話を逸らさないで、わたしが言ってるのは奥村燐のことよ!」
「もちろん上層部には内密にします。といっても、限界はあるでしょうが」
「聖騎士の死についてヴァチカンが納得してるとでも思ってるの? わたしが十五年前のことを知らなかったとしても不審に思うわよ」
「だから急ぐのです。上にあれの存在を悟られる前に、少しでも使い物になるよう我々の手で育てる」
「納得できない」

ぴしゃりと撥ね付けて、睨み据える。そんなものでこの男が怯むはずもないが、それで治まるような生易しい感情でもなかった。
こちらの反対など予測通りで痛くも痒くもないといったその様子は、なおのこと気に食わない。

「……奥村燐は藤本獅郎の監視の下、彼が『人』である限りという条件で生かしたのよ。藤本が死んだ今、その契約は無効だわ」
「そのことでしたらご心配なく。後見人はわたしが引き継ぎ、責任を持って管理します」
「……………… あなたねぇ!!」

話にならない! まともに相手にすることも疲れて床の文献を拾いはじめた彼女の背中に、男のいっそう愉しげな声が届いた。

「彼、どことなく藤本に似てますよ。あなたにとってもじゅうぶん面白い素材だと思いますがね」

その一言で、頭のなかの何かが切れた。持ち上げた文献の山をそのままの勢いで男の胸に叩きつける。
男は転倒さえしなかったが、受け止めきれずにこぼれた本が何冊かその足元に落ちた。

「えっ、ちょ、」
「暇なんでしょ暇すぎて他にすることがないんでしょそれ戻しといて」
「ちょ! 仮にもあなたの上司ですよ!」
「慕われたければまずはそのお喋りな口を潰したほうがいいわね。あなたの軽口にはもううんざり!」
「かる……せ、せめて学園の物品はもっと丁寧に扱ってください!」

男の悲鳴を無視し、早足で書庫を出る。ひたすらに長く無人の廊下を、厚底を鳴らしながら歩いた。
渡り廊下の途中、ふと足を止めた場所から見える学園敷地内の明かりに思わず目を細める。ここはひとつの小宇宙だ。ただそれだけで、生きていくことさえできる。
けれど、わたしに世界の美しさを教えてくれたのは。
吹き抜けた風に背中まで伸びた髪をさらわれながら、はまっすぐに宿舎へと戻った。

    じき、桜が満開となる。
バベル
Волка ноги кормят
「ユリ、こんなところにいた!」

まるで迷路。
寮からいつもの教室、食堂、図書館、これさえ覚えておけばまずは困らない。祓魔塾に関しては鍵があるのでたとえ寝坊したってへっちゃらだ。
けれどもこれだけは    この予測不能な生き物だけは!

「あのね! 勝手にうろちょろしないでくれる!? って何回言わせれば気がすむの、ねえ?」
「んー……わたしがうろちょろしなくなるまでっていう意味なら、最低でも三年?」
「さんね……高等部が終わっちゃうじゃない!!」

ああ、もう! 悪びれた様子もなくしれっと笑う彼女の膝には、小さな黒猫が一匹丸くなって眠っている。場所はらの通う普通科からぐるりと二十分ほど学園の敷地内を回ったところにある広場。昼休みを利用してお弁当を広げている学生も多い。
その隣にどさりと腰かけると、眠りこけていた猫がめんどくさそうに顔を上げてあくびした。

「せめてケータイくらいチェックしてくれないかしら」

つられたようにあくびをもらす友人を横目で睨めつけながら抗議する。と、彼女はのんびりした仕草でポケットからケータイを取り出してしばたいた。

「ごめん、気付いてなかった」
「持ってる意味ないし」

彼女にメールしても電話をかけても、まず九割は着信を見ていない。寮にいるときでさえマナーモードでバイブも鳴らさないようなそんな彼女は、結局いつも自分の足で探す羽目になるのだ(この子は校内放送でさえろくに聞いちゃいない!)。 単純面積も高度もあるいわばひとつの街の中を!

「お昼は? 終わったの?」
「うん、さっきクロとご飯にしたー。ね、クロ?」
「クロ?」

ユリの膝でくつろぐ黒猫がそれに応えるかのようにニャーとひと鳴きする。最近やたらと教室からいなくなると思ったら、まさかこの猫が原因か……。べつにいいけど……。

「そ! そんなことより!」
「え?」
「藤本! 藤本が呼んでる!」

きょとんと見開いた彼女の瞳は淡いブルーに澄んでいる。それが東洋寄りの顔立ちをしている彼女の唯一東洋人らしからぬ特徴だった。

「なんだろ」
「わたしに聞かれても。いつもの教室で、授業前に話したいんだって」
「ふーん……そっか、ありがと、

にっこりと微笑む彼女の笑顔には、男でなくとも一瞬ぼうっとしてしまうような穏やかさがある。媚びているといって彼女を悪く言う女子生徒もクラスの一部にはいるが、は嫌いではなかった。

「じゃ、クロ。また遊ぼうね」

猫を下ろして立ち上がったユリが、首からひとつネックレスを外して手近な扉に歩み寄る。そのチェーンには祓魔塾へ通じる鍵がかかっていることをは知っていた。

「探してくれてありがとう、。またあとでね」
「ほーい」

軽く手を振って見送ったあと、自分は二十分も学内を歩き回ったのに彼女はほんの一瞬で目的地へ移動してしまった理不尽さにイラッとしたが、今さら怒るようなことでもなかった。すでに五回は超えている。
それに。

「クロ。ほらほら、おーいで」

は芝生に座り込んだまま先ほどの猫を呼んでみたが、クロはぷいと顔を背けてそっけなく行ってしまった。うわ、ムカつく!
    だけど。

ユリを探してこの広い学内を歩き回ることが、今では密かな楽しみになっていた。
写真素材(c)mizutama
(11.10.01)
Волка ноги кормят(脚が狼を育てる)