「そう……炎、操れたの」
「そう! ちゃんと燃やし分け、できたんだ! 不浄王以外は燃やさねえようにって!」

そう言って目をキラキラさせる奥村    燐は、屈託のない子どもそのもの。肩に負ぶさる猫又も同様に、うれしそうに尻尾をぱたぱたさせる。

「でもあなた、元々燃やし分けはできてたと思うけど? 勝呂殴るときだって炎で全然傷つけてないじゃない」
「うっわ! シュラと同じこと言う!」
「あっそ……」

あからさまにショックを受けて項垂れる燐をよそに、は縁側から澄んだ空を見上げる。浄化された美しい空。
奥村燐が彼女を訪ねてきたのは、京都を離れる、前夜のことだった。

「京都タワー、行ってきたの?」
「あっ、うん、すっげー楽しかった! そうだ、忘れるとこだった……」

言いながら、燐が慌ててポケットから出したのは。

「…………これは、なに?」
「たわわわちゃん!!! 京都タワーのキャラクターなんだってさ! これ、先生に」

そう言って燐が差し出してきたのは、丸い顔にシンプルな身体がついたキャラクターのストラップだった。
思いがけない展開に、数秒、動きが止まる。

「………………わたし、に?」
「えっ、あ、その……迷惑だったら、べつに」
「……………いいえ、びっくりしただけ。ありがとう」

本当に、それ以外の言葉が見つからなくて。戸惑いながらも受け取ったを見て、燐がほっとした顔をする。強引で、だけど本当は、臆病で。
ほんと、誰かさんにそっくり。

「………母さんの話、もっと聞きたくて」

しばらく沈黙を挟んだあと、燐が遠慮がちにそう切り出す。

「母さんの話って、誰からも、全然聞いたことなかったから」
「……そう」

そう、でしょうね。
サタンの干渉を受けて、サタンの仔を産み落とした女のことを、どこの誰が語るっていうの。
親友だったはずの、わたし以外に。

「寮に戻ったら、昔のアルバムがあるわ」

すると、俯いていた燐が弾けたように顔を上げてこちらを見た。

「また向こうで来なさい。見せてあげるから」

みるみる顔色が明るくなって、うんと勢いよく頷く燐。本当に子どもで、本当に素直で。猫又もなぜか楽しそうにじゃれつき、高い高いされてはしゃいでいる。
ひとしきり騒いだあと、猫又を膝に載せて、燐はまた恐る恐る聞いてきた。

「……父さんの昔の写真も、ある?」

一瞬、どきりと高鳴った心臓に覆い被せるように、口をひらく。

「藤本神父の? ひょっとしたら集合写真に入ってるかも。でも多分、そんなにはないわね」
「そっか……」

嘘ではない。祓魔塾で写真を撮ることなど認定試験合格時くらいしかないし、あとは修道院のクリスマスパーティーのとき、知らない間に撮られていた数枚が後日送られてきた程度だ。 それすらも、十年以上、引き出しの奥底にただ眠らせている。

「先生はさ、父さんのこと……どう、思ってた?」
「えっ?」

何を、言っているの。
どうして、そんなことを聞くの。
ただの教え子だったって、そう、言ったはずよね?
だがそれも、燐の目を見ると何も言えなくなってしまった。あのときと同じだ。燐が深部で炎を出し、こちらが平手を喰らわせたあとと。

しばらく無言で見つめ合い、やがて、燐が、ぽつぽつと話し出す。

「ずっと……違うって思ってた。父さんの好きだった人が、『』って人だったって聞いて。俺の知ってる先生なわけないって。でも最近……俺、それが先生のことなんじゃないかって」
「ちょ、ちょっと待って。何よそれ、藤本が    藤本神父がそう言ったって? 誰がそんなこと言ったの、そんな出任せ!」

するとそれまで静かにしていた猫又が、急にこちらに向けてニャーニャー喚きはじめた。慌てて燐が捕まえ、「クロ、落ち着けって!」と宥める。

「な、何なのよ」
「わっ悪い先生、でもクロが、父さんから確かにそう聞いたんだって。俺の    その……大事な、人なんだ、って」

心なしか頬を染めながらそう告げる、彼の言葉を聞いて。
の中で、何かが音を立てて崩れはじめた。

「せっ、先生……」

自分が泣いていることに気付いたのは、後になってからだ。
わたしは、ばかだ。
ばかでばかでばかで、どうしようもない、愚か者だ。

「先生……父さんのこと……」
「……好き、だった……」

何よ。なによ、なによ。
わたしのほうが、あんたなんかより、ずっと。

(……ちがう)

そんなわけ、ない。
大事にされてることくらい、知ってた。
知ってた。知ってたのに。わたしは。
どうして、疑ったりしたんだろう。

わたしはただ、『好き』だっただけだ。自分のことしか考えてなかった。それなのに。

(ユリ    ユリ……ユリ……)
(よせ、見るな!!)

血まみれのロシア支部で。
息をしている、ユリを見つけた。
それがどんなに悲惨な状況か、知りもしないで。
駆け寄ったわたしは、死よりも無残な親友の姿を前に、身動きが取れなくなった。

!!)

見るなと言われても、目も、逸らせなくて。
離れろと言われても、身体が、言うことを聞かなくて。
何ひとつ命令を、守れなくて。
それなのに。
嘔吐するわたしを抱き締めて、藤本は、根気強くそこにいた。いてくれた。

分かっていたはずだ。
あの人の心より、深いものなんてこの世のどこにもない。

それなのにわたしは。
    あの人を、ひとりにした。

「……好きだった、ずっと、好きだった、のに……向き合うのが、こわくて……こわくて……わたしは、あの人から、逃げた……」

こわかった。
それなら、いっそ。
嫌いになって、嫌われて。遠ざかれば。
でも、だめ。
わたしはあなたを、忘れられない。

「……先生」

呼ばれて、顔を上げる。燐の姿がぼんやりにじんで、自分が泣いていることに気付いた。慌てて、ぬぐう。
燐もまた、その目に大粒の涙を浮かべていた。

「先生……父さんは俺のせいで死んだんだ。ごめん、俺……俺なんかがいたから……」
「馬鹿なこと言わないで」

その言葉は、自然と口から飛び出した。戸惑う燐に、続けざまに言い放つ。

「あなたがいたから京都は救われたんでしょう。わたしだって助けられた。悔しいだろうけどバチカンのあの監察もね。何より」

そして腕を伸ばして、眼前の青年を抱き締めた。

「いてくれてありがとう。藤本を……ひとりにしないでくれて、ありがとう」

わたしはあの人をひとりにした。

(俺が勝手に期待してただけなんだな)

わたしがあのとき、あの手を取っていれば。
でも。

「藤本は……命を懸けてもいいと思えるあなたといられて、幸せだったはずよ」
「……父さん……」

堰を切ったように泣きはじめる燐の頭を、何度も何度も、撫でてやる。
まさか二人の子どもを、こうして抱き締める日が訪れるなんて。

藤本。
これで、よかったのかもしれないわね。

わたしはあなたの手を取らなかった。でもあなたには、こんなに声を嗄らして泣いてくれる、かわいい息子ができたのだから。
まだまだ心配でしょう。でも。
あなたはもういいの。ゆっくり、ゆっくり、休んで。

あとはわたしたち、現世の人間の役割だから。

「えええええええーーーーー!? うそ、奥村くんと先生が、えっ、ええっ!?」
「あああああ志摩っ!!! 違う、これはそのっ、」
「奥村くんだけズルイわあ、えっ、何やの、先生、僕もハグ……」
「もう遅いわね、子どもはさっさと寝なさい」
「ええええっ!? 先生、そんな殺生な……奥村くんズルイ! ねえ、ほんまズルイわっ!」
「わっ! ついてくんなっ!」

どたどたと離れていく二人を見やりながら、ふうと息をつく。
いつまでも泣いてはいられない。

(だからお前は一級になれないんだよ)

それでもいい。わたしはわたしでしかいられないのだから。
わたしは、今のわたしにできることをやるだけだ。
バベル
Для милого друга семь вёрст не околица
「あ……

昼休みが終わり、すでに普通科の五限目が始まっているはずだ。
春先の陽気で、睡魔に負けてしまう気持ちは分からないでもないが。
校庭のベンチをひとり独占し、思いっきり横たわって寝ているこの十七歳ってどうよ?

「おーい、さんよ。授業始まってんじゃねーの?」

声をかけるも、むにゃむにゃ寝言を言って顔の向きを変えるだけで、一向に目覚める気配がない。

「ったく、パンツも際どそうになってるし、まったくいい年した女の子が……」

言いながら、彼女の肩に手を伸ばしかけて。
反射的に、身体を引いた。
足元にじゃれついていたクロが、不思議そうに「ニャ?」と鳴く。
そのまま踵を返して、獅郎は歩き出した。

肩に飛び乗ったクロが、後ろを振り向いてニャーニャーしきりに訴えてくる。

「あ? あいつか? そうだな、んー……」

何と言えばいいのか。
うまい言葉が、見つからなくて。
クロにはなぜか、教え子と簡単な一言で片付けたくなかった。

    俺の大事な人だよ」

むず痒くて仕方がないが、同時にしっくりきて満足する。そして、どうしようもなく虚しくなる。

(もうわたしに構わないで)

ただの一生徒。それだけで終わるはずだったのに。

大切に思いすぎて。
もう、その澄んだ目を覗き込むことが。
この手で、触れることが。
写真素材(c)mizutama
(17.1.29)
Для милого друга семь вёрст не околица(愛する人のためなら七露里も回り道ではない)