高校二年のクリスマス。南十字男子修道院のクリスマスパーティーに誘われた。取り立てて物珍しいことはなく、ただ留学生たちとケーキや肉をつまんで、プレゼントを楽しんで。 一年前の同じ日、隣には無邪気にはしゃぐ親友の笑顔があって。

(……ユリ?)

着信を折り返したが、彼女は出なかった。後でまたかけなおそう。その程度にしか、考えていなかった。
煙草の煙に誘われるようにして、藤本の姿を見つけた。この二年、いつも近くに感じていたにおい。だから。
その香りを失うことになるなんて、思いもしなくて。

あと、五秒。着信が遅れていたら、未来は変わったかもしれない。冷え切った手のひらで包まれた頬、ほとんど触れそうだった鼻先。
何のつもりなのって、もう、聞くことは叶わない。

藤本の背中を追いかけて耳にしたのは、聞き慣れない、切迫した様子の彼の声だった。

「なに、モスクワ支部が!? 状況はどうなってる、聖騎士は!?」

心臓が、破裂するかと思った。
一瞬にして、最悪の状況が頭をかすめる。
ユリからの着信。彼女が帰国して以来、一度たりともなかったことだ。
藤本は電話越しに早口で捲くし立てる。

「分かった、すぐそっちに向かう。いいか、迂闊に動くなよ」

そして弾けたように振り返り    立ち尽くすの姿を、見つけた。
この距離にいて、気が付かないなんて。
背筋を、嫌なものがじっとりと伝っていく。
しばし見つめ合い、向こうが何か言うよりも先に、の口が動いていた。

「モスクワで……何があったの」
「……お前、ついてくるなって」
「お願い    わたしを、一緒に連れていって」

唖然と口をひらく藤本に、居ても立ってもいられなくなる。彼の言葉を聞くのがこわくて、続け様に口をひらく。

「お願い! ユリから着信があったの……あの子から電話なんて、何かあったに決まってる。ねえ、モスクワで何があったの? お願い……わたしも一緒に、連れていって」
「……バカ野郎。広間に戻れって言っただろう。お前に構ってる暇はねえんだ、さっさとそこ退け」
「イヤ」

彼が一刻も早く出発したいのだということはよく分かっていた。でも。
押しのけて出て行こうとすれば、容易に可能だっただろう。彼もまた、迷っていたに違いない。
けれど。
あの頃のわたしには、何も、考えることができなくて。

「わたし、ユリには助けてもらってばっかりで……何もできなくて。ユリにはさんざん助けられて、わたし、いつもユリに救われてた」

熱がこみ上げて、目頭が締め付けられる。藤本が不快そうに眉をひそめる。
それでも、止めることなんて、できない。

「ユリが初めて、助けを求めてくれたのに……わたし、また、何にもできなくて……」

目眩がする。それでも、こわくても、足を踏み出して、近づく。

「そんなのイヤ。わたし、応えたい……お願い、ユリのところに行かせて……お願いだから、ねえ……」

つい数分前、わたしの頬に触れた、手のひら。
もう、こちらに伸ばされることは、なくて。
ただその腕に縋りついて、涙をこぼす。

「お願い、藤本……お願いだから……」

彼の胸元に刺さった、騎士団の紋章が閃く。
物言わぬブローチの代わりに、冷たい声が頭から降ってきた。

「俺の命令に従えるのか」

懐で見上げた藤本の瞳が、ひどく冷酷に、こちらを見下ろして鋭さを増す。
息が詰まりそうでも。涙のにじむ瞼をひらいて、まっすぐに見返した。

「広間に戻れって俺の指示も聞けねえお前が、エギンに何があったとしても俺の命令に絶対に従えるか」
「………」
「死ねと言われればその場で舌噛み切っても死ねるのかって言ってんだ」

生きろと    
死んだらそれで終わりだ。何があっても、たとえどんなことをしてでも生き延びろと。
何度も何度も繰り返してきた藤本が、命令ひとつで死ねるのかと言っている。

唾をのむ猶予も、なかった。ただこれは今まで参加したどんな戦場よりも、苛酷な状況なのだということを本能で悟った。
それでも。
こくこくと子どものようにうなずいて、藤本の袖を握る指先に力をこめる。
わざとらしくため息をついた彼は、こちらの手を振り払って足早に歩き始めた。

「勝手にしろ」
バベル
Полюбится сатана пуще ясного сокола
目覚めると、杉のかすかな香りが鼻腔に届いた。
造りからして、虎屋の一室に違いない。質の良い布団に寝かされたの耳に、障子をはさんだ隣の部屋から、慌しい喧騒が聞こえてくる。けれどもそれは、重苦しい瘴気にまみれてはいない。

「起きたか」
「……見れば分かるでしょ」

部屋の隅に腰を下ろした宇田川が、障子に凭せかけた背中をわずかに浮かして聞いてくる。は素っ気なく返しながら、きしむ上半身を何とか持ち上げた。

「寝てろよ。上級のナイアスを酷使したんだ、しばらく休んでたほうがいい」
「……わたしを投獄してくれた本部の監察官が目の前にいて、のうのうと寝てろって?」
「そのつもりならお前なんかとっくにバチカン行きだ。心配するな、ひとまず何もしない」
「ひとまず」

かつての級友の言葉を、皮肉に繰り返して。
宇田川は畳のうえで足を組みなおし、気楽に言ってのけた。

「不浄王は消滅した。京都中に飛散した胞子も浄化され、事態は無事収束。奥村燐の青い炎によるものだと、これは残念ながら俺自身が証人だ。処分は一旦保留、俺もバチカンへ帰国することになった」
「……そう」
「といっても、シュラの他にも監察は残る。奥村燐は引き続きバチカンの監視下だ。もちろん、お前もな」

何も言う気にならず、沈黙する。ひとまずは不問、だがそれがどうしたというのか。
相容れないと、確認できたに過ぎない。
たとえ最後まで、共に学んだ仲間だったとしても。

これで最後だとばかりに、宇田川が気だるげに立ち上がった。平均より背の高いにとってそれは、さほどの長身とはいえない。だが子どもの頃から海で鍛え上げられた彼の肉体は、実際のそれよりも幾分か大きく見えることもまた事実だった。

「もう一度昨日に戻ったとして……お前はまた、サタンの仔を庇うのか」
「………」

何を、言っているのか。
こんなことを聞くような男ではなかった。少なくとも、彼女の記憶の中にある宇田川聡という人物は。
もしもの話。そんなことには、意味はない。

数秒間、待って。特段、答えを期待していたわけではないのだろう。聞き返してくることもなく、宇田川はさらりとこちらに背中を向けて言い放った。

「だからお前は一級になれないんだよ」
は、藤本獅郎のことが好きだと    
憶測だけならば、どこででも飛び交っていた。次期聖騎士とさえ囁かれる世界最高の医工騎士。憎まれ口を叩く程度の生徒なら、それほど珍しいことでもない。 だが世界の四大騎士をつかまえて、あそこまで大っぴらに罵声を浴びせかけるのは、紛れもなくくらいだった。

そしてそれに余裕ぶって応じる、藤本自身のあの楽しそうな顔ときたら!
横で見ていてむずがゆくなるくらい。
あー、アホらしい。
気付いてないのは当事者だけなんですけど。
あー、ほんとに、アホらしい。
藤本しか見ていないのことを、どんだけ忘れようとしても忘れられない自分自身が。

青い夜が起きて、エギンが死んで。
いや    あろうことか藤本の手によって、殺されて。
これが祓魔師の世界なのだと、その究極の形を見せ付けられたようで、しばらくは飯ものどを通らなかった。これは比喩でも何でもなく、まじで。

なあ。
お前は今、どんな気持ちなんだ?
惚れた男に親友を殺されて、それでも祓魔師になることをやめないのは?
なあ。
どんな気持ちなんだ? 教え子を手にかけ、その親友にまるで何事もなかったかのようにへらへら笑いかけるその神経は。

反吐が出そうで、煮えくり返る衝動を抑えて。

    こないだの任務    血ぃ見て、吐いたんですけど    

こんな、こんなことを。
こいつに言って、何になる?

横目で振り向いた藤本の、瞳の冷酷さを思う。
一瞬強い風が吹いて、桜が弧を描いて舞い上がった。

「俺には関係ねえ」

沸きあがった熱が、急速に冷えていく。
まともに振り向いた藤本獅郎の影が、暗く、低く、路地裏に伸びていく。

    お前にはもっと関係ねえ」

羞恥に身体が燃え上がる。足音すら残さずに、聖騎士は立ち去った。
初めから嫌いだった。
大嫌いで。だから。
あの男のいないところへ行きたかったんだ。

「俺、来月からバチカン勤務が決まった」

あいつは、昔みたいに笑わなくなった。

「一緒に行こう、。お前ならあっちでも充分やれる、俺が口利いてやるから」

当時の俺に、実際そんな権限はなかっただろう。
ただ。
俺はただ、あいつに昔のように腹を抱えて笑っていてほしかっただけなんだ。
あいつは力なく笑って、静かに首を振る。

「私は、ここで生きていくって決めてるから」

その目が俺を見ていないことなんて、とっくの昔に分かってる。
十二年経っても、今もずっと。

「戻ったか、聡」
「はーい、ただいま戻りまし    ぶっ」

執務室に入った途端、エンジェルの手のひらが容赦なく聡の喉もとをとらえた。

「あー……あの、エンジェル?」
「お前、オレに報告することがあるんじゃないか?」
「え? あー……えと、戻りまし    ぶっごめんなさいすみませんごめんなさい」

指先に力を込められ、息も絶え絶えに謝罪する。顔色ひとつ変えずに拘束を解いたエンジェルに、聡は咳で酸素を取り込みながら答えた。

「あー……不浄王の件ですよ、ね。もうお聞きに……」
「なぜオレに知らせなかった。聞けばサタンの息子が仕留めたそうじゃないか、本部のお前が出向いていながら、あってはならない事態だぞ」
「す、すいません……俺たちが派遣されてたのはあくまで奥村燐の件であって、聖騎士のお手を煩わせる必要はないと……」
「不浄王をオレ以外の祓魔師に片付けられると本気でそう思ったのか?」
「……すいません」

バチカンに来て十二年。この人の下で働いてきた。憎き悪魔と戦うために、自らの強さを見せ付ける必要があると、そうして人々の安寧を得るのだと心から信じている。
分かっていたはずだ。俺は。

「……すいません、聖騎士」
「もういい、すんだことだ。二度目はないぞ」
「はい……すいません」

本当にそうだ。復活した不浄王を倒せるのは、エンジェルしかいない。そんなことは、分かっていたはずだったのに。
脳裏をよぎったかつての級友のことを振り払い、聡はエンジェルと共に執務室を出た。
写真素材(c)mizutama
(16.10.23)
Полюбится сатана пуще ясного сокола(惚れれば勇者よりもサタン)