祓魔師認定試験は三ヶ月後に迫っていた。だけど、不思議と、焦りはなくて。

「余裕だな」
「べつに」

そんなことよりも、一週間後の期末試験のほうが気がかりだ。中庭のベンチ、膝に開いた英語の参考書に再び視線を落としながら、は聞こえよがしに嘆息してみせる。

「なんか用?」
「べつに」

後方から現れた宇田川が、ベンチの背もたれに片手をついたのが横目で知れる。だが完全に無視して、はテスト範囲の英単語を頭の中で確認しはじめた。
この一年、一般教養の成績は右肩下がりだ。と言っても、留年の心配などはしなくていい。余程の下層以外は何をしなくても自動的に進級していく。『余程の下層』は追試に追試といくらでも救済措置がある。
それならば、よいのだ。こんなことはしなくとも。それなのに。

「俺さっき英語の補習受けてきたんだけどさ。もーさっぱり。時間の無駄だったわ」
「そう」
「ま、俺は理科でなんとか稼ぐとして、、社会のヤマはってくんない?」
「そういうことは進学クラスの人にでも頼めば?」
「あー無理! あいつら何言ってるか分かんねえもん」

はあ。知らないし。ヤマなんて、わたしが聞きたいくらいだし。
もっとも。
聞いたらやるかと言われたら、きっと、やらない。

宇田川の右手から目を逸らし、顔を上げた先で。見たくもない人影を発見して、思わず、身構える。
剣術の前谷と、藤本のふたりが、話をしながらこちらに歩いてくる。
こちらの姿に気付いて、声をかけてきたのは前谷だった。

「おい宇田川、昨日の追試来なかったな。どういうつもりだやる気あんのかコラァ」
「えええええええ、あ、すいません一般の補習あったんでお休みしまーすって寺井さんに伝言お願いしたはず、だったんですけ、ど」
「聞いてねえしお前オレの追試サボってる場合か? なあ、場合なのか? 試験まであと何日かオレにまた言わせる気なのか? アァン?」
「すいませんごめんなさい今日行きます、ごめんなさいもうしませんすみません……」

前谷からは一年生の入門クラスで三ヶ月教わったのみだ。特にこちらに言うことはないのだろう、宇田川の脳天に拳を叩き込んでそのまま去っていく。 藤本は苦笑しながら「とりあえず一般のほう頑張れよ」と言い残し、前谷と並んで遠ざかっていった。
いつものことだ。他の誰かと一緒のとき、あいつがわたしの目を見ないなんて。



傍らから、呼ばれて。膝の上の参考書が、自分の拳でくしゃくしゃになっていることに気が付いた。
ユリを亡くして、一年。
もう、あいつと。
どう接していいのか、分からなくて。
この気持ちのやり場が、分からなくて。

口ごもるの頬に、不意に、熱い何かが押し付けられて跳ね上がった。

「つっ! め、た! ちょ、何すんのよ!」
「やる」
「はあ?」

熱いと思ったのは錯覚で、身体はよく分かっていたのだ。宇田川の右手にはいつの間にか、パヤリースの缶が握られていた。

「コーラ買おうと思ったら違うの出てきた。俺いらねえから、やるわ」

オレンジジュース。
わたしが一番、好きな飲み物。
両手の上に載せて、じっと、見つめる。
そういえば宇田川は、いつもコーラを一気飲みして、その度にむせ返ってた。

「宇田川」

腰に手を当て、また凝りもせずにコーラをあおってむせる同級生を見上げる。
涙目の宇田川が、まだ喉を鳴らしながらこちらを見た。

「もらっといてあげるわ。ありがたく思って」
「ハッ。かわいくねえの」

言いながらも、笑う。声をあげて、笑い合う。
親友を失い、愛する人を失い。それでもわたしがここにいられるのは、きっと。
バベル
Нет худа без добра
巨大化した、猫又の背に乗って。
なんとか降り立った、不浄王に最も近い足場の上。

「勝呂姫は結界はるのに集中しとけ! オレが不浄王を倒す」
「だっ、誰が姫や、どつき回すぞコラァ!!!」
「めそめそしてるからだろ〜」

飄々と口笛を吹いて、燐が降魔剣を肩にかつぐ。臆す気配もないその横顔に、は信じられない思いで声を張り上げた。

「剣も抜けないのに、無茶よ! 上級祓魔師が束になったところで敵う相手じゃない、ましてや!!」

燐は一瞬表情を強張らせたが、それも瞬きの間にきれいに消える。
はかない、けれども、力強い、笑顔。
ああ、藤本。
わたしはあなたの息子を止められない。

「だって困るんだ。京都がなくなったら、みんながいなくなったら。オレ、明日みんなで京都タワーのぼるんだ、だから」

ねえ、ユリ。
そんなことで、あなたを失わずにすんだとしたなら。
一緒にクレムリンに行くんだと、わたしが決めていたとしたならば。
そんなことは、考えたって仕方のないことだ。

「だから勝呂を守ってくれ。オレはクロがいるから大丈夫だ!!」
「はっ……オレやのうて、お前のほうが危ないやろが!!」

すぐさま勝呂が反論するが、はそちらには構わず、まっすぐ燐の瞳を見た。
避け続けてきた、かつての親友の瞳。

    分かった。だからあなたも、絶対に生きること」
「おう!!」

弾けんばかりに笑って、燐が猫又の背に飛び乗る。
火属性の使い魔を持たない自分に、決定的な駒はない。
でも。
息の荒い勝呂を背に庇いながら、弾数を頭の中で確認する。
銃弾はまだある。時間稼ぎくらいは、できる。
勝呂の結界が消失すれば、たとえ不浄王を倒せたとしても京都への被害は壊滅的になる。
今のわたしにできることは、勝呂を守りきること。
ナイアスを召喚し、その加護を受けた聖水を浴びせかける。少しでも長く。勝呂の気力と体力とをつなぎとめていく。
陣を描きながら、思わず片膝をついたを見て、勝呂が蒼白にうめいた。

先生……!」
「わたしに構うな!」

躊躇して唇を噛む教え子に、激しい口調で捲くし立てる。意識が飛んでしまいそうだった。まだ、まだだ。

「祓魔師になりたいのなら大局を見なさい! 今のあなたの役割は何なの、結界に集中して! 絶対に瘴気を外へ漏らすな!!」

今のお前の役割を考えろ。思えばそれは、初任務のときから何度も何度も何度も、藤本から教えられたことだった。
それなのに、わたしときたら。
だがこちらの胸中など知る由もなく、勝呂は陣を張る指先にぐっと力をこめた。

    はい!!」

杜山のように。
三輪のように、朴のように、勝呂のように。
わたしが素直であったなら。
意識が、遠くなる。

!!」

突然、身体が軽くなった。
茂みから飛び出した霧隠が、火の印を結んでの身体にまとわりつく胞子を焼き尽くす。

「交代だ! よくやった!!」
(よくやった、

    藤堂先生……。
親友を失い、愛する人を失い。
それでもこの世界で、戦うことを続けられたのは。
写真素材(c)mizutama
(16.10.23)
Нет худа без добра(悪いことばかりは続かない)