「皆さん、この度は祓魔師認定試験合格、おめでとうございます!」

パーン!と耳をつんざくような音量でいくつものクラッカーが弾け、天井からは色とりどりの紙吹雪が降ってきた。はちょうど瞼の上に落ちたそれを嘆息混じりに摘み上げながら、眼前でわざとらしく両腕を広げる長身の男を眺める。
正十字騎士團日本支部支部長、兼、祓魔塾塾長であるメフィスト・フェレスは、教壇の上で胸を反らして満足げに歯を見せて微笑んだ。

「本日この日より、皆さんも晴れてプロの祓魔師です。候補生時代とは比べ物にならないほど重大な任務に臨むこともあるでしょう。気を引き締めて責務に励んでください。このわたしも、及ばずながら助力させていただきますよ」

仮にも日本支部の支部長が、『助力』って。まあ、所詮トップなんてどこもそんなもんだろうけど。フェレス卿が直接任務に参加したという話は聞かない。

「さて、無事この難関を突破した皆さんには、本日リッチなわたしより特別に寿司をご馳走しましょう!」
「どーせ回るやつだろ」

と、無感動に水を差したのは、そこから少し離れた入り口に腕を組んで立っている藤本だ。頑なに正面を向いたままのの真向かいで、フェレス卿は振り向き様、意外そうに目を見開いた。

「おやおや藤本先生、知らないんですか? 最近の回転寿司はなかなかレベルが高いんですよ」
「ふーん。あいにく縁がないもんでね。そいつぁ楽しみだ」
「奢りませんよ、もちろん」
「ハァ!? なんで!!」
「何を言ってるんですか、これは認定試験の合格祝いですよ。勤続ウン十年のあなたなんてお呼びじゃありませんよ」
「二十年だ! クソ、俺らのときにはンなことやってくれなかったじゃねーか!」
「そうでしたっけ? いちいち覚えてませんよ」

二十年前って。フェレス卿いつからこの学園にいるのよ。
そんなこちらの胸中を知る由もなく、フェレス卿はくるりと向き直って最前列のを見下ろした。

くんは今年度唯一の手騎士。聞くところによると、『水の王』、『氣の王』いずれの眷族をも使役するとか。どうです、ここでひとつ我々にも披露していただけませんか?」
「……おい。自分が見学できなかったからって何もこんなところで」
「いいじゃありませんか。手騎士の才能は非常に希少だ、いずれ塾の授業も受け持っていただくことになるかもしれません。そのための予行ですよ」
「あのなぁ」
    わたしは」

嘆息混じりの藤本の声を遮って前を向いたまま、ははっきりと告げた。

「無駄な血を流す趣味はありませんので」
「それは結構!」

まったく気分を害した様子もなく    むしろ清々しいまでの笑顔を見せて、フェレス卿。

「それもひとつの立派な回答です。が、あなた方はすでに、正十字騎士團という巨大な組織の一員であるということをお忘れなく。あらゆる悪魔に対抗するには、正攻法だけではどうにもなりませんからね。例えば」

滔々と語りながら、教壇を降りた彼は机を挟んでのすぐ目の前まで来ていた。

「わたしがもし悪魔だったら、この状況で次にあなたの取るべき行動は?」

フェレス卿の右手が、やんわりと触れる程度の強さで首周りを捉える。
いつもの紫の手袋越しにも、その冷たさが強烈にの肌を刺した。

が、こちらが答えるよりも早く、あっさりと手を放してフェレス卿は肩をすくめてみせた。

「もちろんわたしは悪魔ではありませんから、今ここで答えを出す必要はありませんがね」
「………」
「ですが可能性というものは常に考慮しておくべきという言葉をはなむけにして、祝賀会へと移動しますかね」

ふいと気楽に背を向けて、支部長が教室を出て行く。同じ試験で祓魔師の称号を獲得した塾生たち二人も、気ままにその後ろへ続いていく。
最後に藤本と残されたは、しばし身じろぎひとつできずにぼんやりと前方を見つめていた。

どうして気が付かなかったんだろう。
メフィスト・フェレス。
それは遠い昔の戯曲にすら謳われた、名立たる悪魔の名前ではないか    
バベル
Ночью все кошки серы
「一体どういうことなんですか!」
「まぁ、落ち着きなさい、
「これが! どう! 落ち着いてられるっていうんですか!」

世界最大の祓魔集団である正十字騎士團、その極東の一国といえ    世界支部の中でも重要な拠点のひとつ、日本支部のトップが、本来祓魔されるべき対象の悪魔だなんて。
藤堂は自身のオフィスで革張りの広いソファに掛けたまま、悠長に言ってくる。

「そうか、君は気付いたか」
「あんな挑発されたら誰でも! 気付きます!」
「いや、そうでもない。あれは新人祓魔師に対するフェレス卿のちょっとしたテストのようなものだ。気付いた者には出自を明かすし、そうでない者には永久に知らされることもない」
「藤堂先生、わたしの質問に答えてください。なぜ『あの』メフィスト・フェレスが騎士團に居座っているんですか、上もこのことはご存知なんですか?」
「俺から説明するよ」

唐突に。ふたりだけの狭い室内に声がしたと思えば、ノックひとつせず開け放したドアから、常服姿の藤本獅郎が顔を覗かせていた。そのまま無遠慮に立ち入り、

「悪いな、藤堂先生。ちょっとだけ外してくれねぇか?」
「……はぁ。構いませんが」
「ちょ! ここは藤堂先生の部屋です、先生が外さなきゃならない理由なんてありません!」
「構わんよ、。下の者が上に従うのは道理だ。どのみちわたしはこれから授業なのでね、それでは藤本先生、あとはよろしく頼みます」
「はいよ」

藤本に鍵を手渡した藤堂が、教材を脇に抱えて出て行く。二人きりで取り残された空間に、息さえ凍りつくような思いがした。

「待てよ」

ようやく我に返ったが素早く踵を返して扉に向かうのを、すれ違い様に藤本が呼び止める。

「聞きたいことがあるんじゃねぇのか?」
「……べつに。あなたに聞きたいことなんか何もない」

ユリを亡くしたあの日から、藤本に向き合うのをやめた。
縦に刻まれた眉間のしわも、煙草をくわえた薄い唇も、少し伸びた無精ひげも。
その瞳の色なんて、思い出したくもない。

深々と息をついた藤本が、背中の後ろで勝手に話し始める。

「あいつはこの二百年、騎士團に協力してきたっつー『実績』がある。実際、あいつがいなけりゃ騎士團がもっと壊滅的な打撃を受けてたっつー例が過去にいくつもあるそうだ。 全面的に信頼はできねーが、使えるもんは悪魔でも使っとけ    それが上の方針だろ。ま、人間だって結局は似たようなもんだがな」

そんな。祓魔師が、仮にも世界最強の称号を冠した唯一の祓魔師が。
人間と悪魔とを、似たようなものだなんて。
反射的に振り返って、その大きな背中に問い詰める。

「そんなんじゃ納得できない。どうして悪魔が祓魔師に協力なんてするの、裏がないわけないじゃない。騎士團はどうしてそれを享受してるの、悪魔の手を借りなければ維持できないような脆弱な体制なの?」
「手騎士のお前がそれを言うのか? 悪魔の力なしに、お前に一体何ができる」

思わず、次の言葉を呑み込んできつく唇を噛み締めた。わたしひとりの力なんて、ほんの些細なものだ。そんなことは、自分でよく分かっている。
たったひとりの親友のために、わたしは何もできなかった。

「要はあのメフィストも、お前の使役するルサルカや風狸と大して変わらねぇってことだよ。何かを代価に、一時的にその強大な力を借りる、同じことを組織レベルでやってるってだけの話だ」
「……騎士團が、メフィストに代価を?」

手騎士である自分がしていることと同じ。理屈で言えば確かにその通りかもしれない、でも。やっぱり。

「あんたは」

絞り出した声が、意に反してふるえた。
一呼吸を置いて、喉の奥を慣らしながら、ゆっくりと問いかける。

「……信用、できるの?」

他に、なんと言えばいいか分からなかった。言葉が出てこなかった。
こちらに背を向けたまま、藤本が静かに言う。

「俺は誰のことも信用しちゃいねぇよ」

分かってた。
信用されてないことなんて。
そんなこと、期待してたわけでもないのに。

部屋を飛び出して、息が切れるまで走り続けた。
呼吸を整えながらふと見上げた窓の外に、ちらちら白い雪が舞っている。
人知れず、恨みがましくつぶやいた。

「信じさせてくれないのは……あんたのほうじゃない」
(俺が勝手に期待してただけなんだな)

勝手に期待して、いつだって現実を思い知るのはわたしのほうだ。

「おはようございます、くん! 今日はまた一段と冷えますね」
「………」

このタイミングで、何なの。まるで狙ったかのように現れて。
身を縮め、手のひらを擦り合わせながら隣に並んだフェレス卿に、そっけなく言い放つ。

「悪魔も寒さを感じるんですね」
「もちろんです。身体は人間のものですからね」

しれっと返された答えが頭にきて、は隠しもせずに声の調子を荒げた。

「二百年もその身体ってわけにはいきませんよね。古くなれば使い捨てですか、不便なものですね、悪魔っていうのは」
「そうでもありませんよ。確かに馴染む身体を見つけるのは少々手間ですが、そんなものは物質界の興味深さに比べれば苦にはなりません」

はこっそりと横目でフェレス卿を盗み見、唇を噛み締める。
物質界の興味深さ。それが故に?

「騎士團に協力する代わりに……この物質界という愉しみを手に入れる、と?」
「まあ、そんなところです」

やんわりと受け答え、フェレス卿は虚空を仰ぎながら静かに目を閉じた。
分厚いブーツの底を考慮しても、その背丈は見上げるほどに高い。

「面白いですか」
「はい?」
「あなたはかつて『地獄の大公』とさえ呼ばれた最上級悪魔……それが物質界で人間の真似事なんかして、祓魔師が悪魔を相手に手をこまねいているのをただ黙って見ているだけなんじゃないですか。そんなことであなたは本当に満足なんですか」
「すこしちがいますね」

あっさりとかぶりを振って、フェレス卿がこちらを見る。その切れ長の瞳が、心底愉しげにきらりと閃いた。

「悪魔は常に否定する存在であると同時に快楽の求道者、対して人間はいつの世も移り気で病みやすい。敵うはずがないではありませんか」
「……何が言いたいの」
    が、かつて、人間というものを心から信じた聖騎士がいました」

聖騎士。どきりと心臓が跳ねたことを悟られないように、軽く身震いして視線を外す。彼は特に気に留めた様子もなく話し続けた。

「ちょうどその頃、世界は価値観の急激な変化に追いつくことができず、ずいぶんと荒んだ状況でした。そうした心の隙間は悪魔の恰好の餌だ、物質界が落ちるのは時間の問題だろうとある悪魔は言った。 が、その男はこう言うのです、悪魔の強大さは自らもよく分かっている、だが、人間は決してそれに屈することはない、必ず再び立ち上がるのだとね」

クックック、と忍び笑いを漏らしたあと、フェレス卿は唐突に両腕を広げて声の調子を上げる。

「『面白い! それではひとつ、このわたしと賭けをしようではないか』」
「………」
「『わたしは物質界に留まり、人間が悪魔と戦うその援助をする。だがいつの日か人間が己の弱さに屈し、悪魔にひれ伏すときが訪れたとしたら    』」
「……したら?」

打ち切られた言葉の先を、しばしの沈黙を挟んで促したが、それ以上話すつもりはないらしい。後ろ手を組み、彼はくるりと踵を返しての脇を通り抜けた。

「風邪をひきますよ。早く部屋の中に入ったほうがよさそうだ」
「フェレス卿!」

腑に落ちないものが引っかかって思わず呼び止めると、すでに背中を向けて歩き始めていた悪魔が軽快に足を止めて振り向いた。

    メフィスト」
「は?」
「メフィスト、で結構ですよ。わたしはあなたにも大変興味がある、せいぜい愉しませていただくとしましょう」

ウィンクひとつを残し、ひらひらと手を振って離れていく。
その後ろ姿が見えなくなっても。
雪に触れた外気に晒されて凍えながら、下二級祓魔師・は言い様のない遣る瀬無さにたたずんだ。
写真素材(c)mizutama
(11.12.11)
Ночью все кошки серы(夜はどの猫も灰色に見える)