宇田川の目を盗んで、メフィストが霧隠に託していった迷彩貫頭衣。 燐に死なれて困るのはメフィストとて同じことだろう。案の定、貫頭衣を着た勝呂らが、程なくして監房に燐を救出しにやって来た。 「そんなんどうでもええんや!」 必ず炎を使いこなしてみせる、だから信じてくれ。 必死の形相でそう叫ぶ燐に背中を向けたまま、勝呂は絞り出すように言い放った。 「……俺がおまえ許せんのは、そういうこと全部ひとりで背負い込んで……先に他人扱いしとったんがお前のほうやからや! そんなやつどう信じろっちゅうんや、味方や思っとったんは俺だけか!!」 ああ、そうか。 きっと誰もが同じことで苦しみ続けてきた。 ねえ、ユリ。あなたの息子は、とても素晴らしい仲間を持ったようよ。 わたしは、大切なことを気付かせてくれたあなたに、一体何をしてあげられたかな。 「待ちなさい」 ひとりでズンズン突き進んでいく勝呂を追うように移動する子供たちに、は監獄の中から声をかけた。 「びっ、びっくりした……先生なんでそないなとこいはるんですか!」 「相手は日本史上でも最悪の最上級悪魔、不浄王。あなたたち候補生の出る幕じゃないわ」 足を止めて振り返った志摩らが、青ざめて言葉を失う。が、すぐさま表情を引き締めた勝呂は、赤く腫れ上がった左頬を動かして早口に切り返した。 「分かってます、でもみんなが戦っとるんです! それに、おとんの話では奥村の炎が不浄王に効くかも分からへん……」 「なら奥村だけが行けばいい。道案内はひとりで充分でしょう」 「そんな!」 「 杜山の非難の声を聞きながら、は先ほど強打され痛みの残る身体を引きずって立ち上がった。噛み切った指先を掲げ、滴り落ちる血を腕の刻印に流して唱える。 次の瞬間には、手首を縛る鎖も監獄の錠前も、ほぼ同時に音を立てて外れた。 「ええええ、牢屋の意味あらへん……」 「わたしもどうせここでヴァチカンの処分を待つ身。じっとしてるくらいなら、付き合うわよ、奥村。これでもあんたたちよりは場数を踏んでるし、教え子の無茶を放っとくわけにいかないしね」 それに。 仲間と共にあることの心強さは、わたしだってよく知っている。それが子供であれば尚更だろう。 (つっ! め、た! ちょ、何すんのよ!) (やる) (はあ?) (コーラ買おうと思ったら違うの出てきた) 気遣いなんてできない男だと思っていた。でも。 ユリが『処刑』され、やがてクラスの篠も脱落し、ふたりだけの授業が増えたあと 「行くならはよ行かんと……」 格子越しにと見つめ合ったまま何も言わない燐の傍らで、三輪がおどおどとそう口を挟んだ。 Артельный горшок гуще кипит それは遠目に見ても一目瞭然といえる、超巨大な悪魔だった。こうして近付いている間にも、徐々にだが確実に成長を続けている。瘴気も次第に濃くなってきた。 「母さんの……友達だった?」 燐は、しんがりを務めるの斜め前を歩いていた。少し速度を落として杜山らから距離を取りながら、ぼそぼそと躊躇いがちに聞いてくる。は前を向いたまま、やはり小声で答えた。 「友達……そうね、友達だったわ」 「……母さん、どんな人だった?」 こちらをちらとも振り返らない燐の声が、震えている。は口を閉ざしてしばらく思案したが、結局のところそれほど気の利いた言葉は選べないだろう。諦めて、告げる。 「さっきも言ったと思うけど、素直でとても穏やかな人だったわ。マイペースっていうの? でもとても一生懸命で……優秀で。誰よりも早く祓魔師の資格を取って帰国した」 もしもユリの合格があと半年遅れていたら。 モスクワであんな悲劇に遭うことも、そしてこの双子が生まれてくることも。 考えても仕方のないことだ。奥村燐は、確かに今ここに存在している。 「わたしはただ、前を見て突っ走ることしか知らなかった。でもあなたのお母さんが、立ち止まることも、周りを見渡すことも……そうね、ユリは そこで初めて、燐がこちらを向いた。が、目が合うと、すぐに気まずそうに顔を背けた。 「じゃあ、ジジイ……父さんとは、何も?」 何を言うんだろう、この子は。隠しもせずに失笑し、切り返す。 「ただの教え子だって言ったでしょう。あなたも霧隠のように変な勘繰りするのね」 「えっ、あ、ちが! 俺はそんなんじゃなくて、えと、あの……ちがうんだ、それは俺じゃなくて、クロが!」 「クロ?」 咄嗟に思い浮かんだのは、ユリが可愛がっていた黒い野良猫だ。が、すぐに藤本の 聞き直そうとしたそのとき、先頭を歩く勝呂が足を止めて全員を振り返った。 「よし、まずはこのへんから探す! あんまり藪の奥まで入らんようにな!」 脱獄してすぐに、霧隠に連絡を取った。すると、ひとまず勝呂達磨を探し出し、手紙についての詳細を聞くようにとの指示を受けた。サタンの力が不浄王に通用するとしても、その討伐法が分からないでは話にならない。 それを聞き出して、その上で対策を練る。決して不浄王には近付かず、近況はこまめに報告すること。 しばらく周囲を捜索し 「おとん! そ、そんな……」 「まだ息がある、応急処置だけでも」 投獄される際、武器や薬剤の類は一切を取り上げられたが、それでもできることはある。 が、手探りで触れた達磨の傷は、その出血量からかなり深手だったものと推察されるにも関わらず、すでに塞がっていた。 彼の身体から噴き出した炎が、翼を得て浮かび上がる。 「我は伽樓羅という名で明王陀羅尼の座主に仕えし者」 「カルラ…… お、おとんの使い魔なんか?」 「だったが、その『秘密』が漏れた今、契約は解消された。今は勝呂達磨との個人的な契約を履行中だ」 どうやら伽樓羅が致命傷ともいえる達磨の傷を癒したらしい。目覚めた達磨は、息を切らせながらも不浄王を倒す方法を語った。 が、燐は今、降魔剣を抜くことができない。 「そうとなれば……とにかくわたしひとりで結界だけでも……」 「その傷で何を言ってるんですか、死にますよ!」 よろよろと立ち上がろうとした達磨を、は慎重に地面に押し戻す。わたしに結界呪を扱うことができれば。だがしかし、『腐の王』の眷族の弱点である火の悪魔を、は使い魔に持っていなかった。そもそも不浄王は、そこいらの悪魔ごときで対処しきれるレベルではないだろう。 「子猫丸、霧隠先生にまだ連絡つかへんか?」 「それが、さっきからノイズ音しかせんくて……瘴気が濃すぎるんかもしれません」 「これだけ瘴気が出てきたら精密機器の類は使えないわね。誰かが足で伝えに行くしかないわ」 宇田川が参加していることを考えると、わたしが顔を見せるのは得策ではない。燐に至っては論外だし、勝呂は父親の傍に残りたいだろう。となれば。 ひとまず指示を出そうとしたの声を遮って、不意に伽樓羅が喋りだした。 「おや? そういえばお前は達磨の息子か。ならちょうどいい。血が繋がっている者へならば、劫波焔を移すことができる」 が、その提案を、息子の袖を掴んだ達磨は一瞬の隙もなく拒絶した。 「あかん!! それだけはあかん……まだ子供や、竜士は絶対に巻き込ませへん! こんな柵は当代で断つて、わたしはこの命を懸けて誓うたんや!!」 (ほんまのこと……それは息子のお前にも『秘密』や) ああ、そうか。だから彼は、ああやって。 でも。 (お前には関係ねぇ) (ガキのくせに変な気回してんじゃねーよ) (分かったら、候補生の分際で口出しすんじゃねぇ) (なんだお前、来てたのか!) (、これ隊の連中に回しといてくれ。よろしくな) 「 びくりと顔を上げた達磨を見下ろして捲くし立てるの言葉は、もはや眼前の男に向けられたものではない。 が、溢れるそれを留め抑えることはできなかった。 「そうやって全部ひとりで抱えて、周りの人間の気持ちを考えたことがある? 信じたいのに信じきれなくて、そんな自分が嫌になって……なのに当の本人は、何もなかったみたいに平気な顔して。 あなたにとってのわたしなんてその程度なんだって、いつもそればかり考える、何もできないんだって……自分がまだ子供だから、何の力もないから、」 関係ないって、思い上がりだって分かってる。わたしが子供でなくたって、大人になっても、誰にでも彼は『本当のこと』を隠した。 分かってる。わたしに何ができたはずもない。分かってはいるんだ、それでも。 それでも、やっぱり……話してほしかったよ、藤本。藤本……。 「先生……」 勝呂に恐る恐る呼びかけられて、初めて自分が泣いていることに気付いた。達磨の傍らに膝をついて、滝のように涙をこぼしていた。慌てて頬を拭い、咳払いして喉を整えながら、言い直す。 「現実問題、今のあなたではまともに結界呪を張れるかどうかも怪しいのではないですか。 勝呂くんもすでに実践に参加済みの候補生です、状況が状況ですし……可能性があるのなら、彼自身がそれを選択するのであれば、子供だからという理屈はもはや通らないと思います」 講師としては、不適切な判断かもしれない。『候補生の分際で』、こんな重大な仕事に関わらせようとするなんて。 それでもわたしは、勝呂の気持ちを尊重したい。わたしのような歯痒さは、もう誰にも味わわせたくない。 だが 「ごめんなさい、勝呂……わたしがこんなこと言ったあとじゃ、嫌とは言いにくいわよね」 「……いえ。そないなつもり、ないですから」 はっとして顔を上げると、父親に向き直った勝呂の瞳にはかすかに涙が浮かんでいた。絞り出すように、 「先生の言う通りや! 俺が……俺がずっと、どんな思いで……」 「……竜士。すまんかったな、堪忍や」 「許さへん……俺も背負う!! そのザマで、文句なんか言わさへんぞ!!」 勝呂達磨は強い。とても強く、そして優しい人だ。 それでも、あなたを思うが故にそのことで苦しむ人間の存在を知ってほしい。 すべてをひとりで持っていこうとしないで。 「……ああいう子やから、関わらせたなかったんやけどなあ」 嘆息と共に項垂れる達磨の横顔を、見つめる。 ねえ、藤本。 それでもわたしは、あなたの重みをほんの少しでも負いたかったよ。 そう思わせてくれるほど、あなたはわたしにとって。 「あ、あんなところに行かはる言うんですか?! 無茶です!!」 父親から結界呪を授けられた勝呂が不浄王のもとへ向かおうとするのを、必死の形相で三輪が止める。 いつも飄々と受け流す志摩も、このときばかりはさすがに真顔だった。 「坊。今まで親がめんどいから黙って従っとったけど、今回のは話が違うし一言言わせてもらうわ。あんたほんまに死ぬで?」 「大丈夫だ。勝呂は俺が守る!」 「アァ!?」 「い、いいだろ! 剣は抜けねーけど炎少しは使えるし! 何より俺、強ぇからさ!」 燐は勝呂を振り返ってしどろもどろに言い放ち、そして改めて三輪のほうへ向き直った。 「俺に任せてくれるか、子猫丸?」 「もちろんわたしも行くわ。煽るだけ煽って教え子だけ前線に放り込むほど無責任じゃないからね」 燐が勝呂を守ると言うのなら、燐のことはこのわたしが命に代えても守ろう。 わたしにはもう他に、失うものなんて何もないから。 こちらをしばらく呆然と見つめたあと、燐の目を見て頷いた三輪が駆けていく。志摩は何やら喚きながらそのあとに続き、杜山と神木は達磨と共にその場に残ることになった。 「俺は……おとんの読む経が好きやった。せやから絶対に死ぬな」 失うまで 勝呂と燐が背中を向けて歩き出し、少し距離が空いたあと。 は首だけで振り向いて、横たわる勝呂達磨に告げた。 「死なせません、絶対に」 だから、生きて。何度でもやり直して。 彼の返事を聞くこともなく、は早足でふたりのあとを追った。 |