気にしたことなんてなかった。そりゃ、フツーに考えてポイ捨てなんてまったくもって褒められたことじゃないけど。
あいつが平気な顔をして吸い殻を落としたとき、心底嫌だって思ったんだ。だから。

「これ!」

色気もへったくれもあったものじゃない、茶色い紙袋を乱暴に突き出して押し付けた。

「なんだよ、藪から棒に。クリスマスはまだ先だぜ?」
「うっさい黙れ死ね! そんなんじゃないし!」

なんでわたしが、いかにも軽くてテキトーな、大してイケメンでもない塾講師にクリスマスプレゼントなんか渡さなきゃいけないの!
どうせ、人の話なんかまともに聞かないんでしょう。ちょっと実力があるからって四大騎士って称号を鼻にかけて、周りの人間の言葉は右から左なんでしょう。
気に食わない。最低。大っ嫌い。
わたしがいくら言ったって、そんなことちっとも真に受けないし。
なにが、世界一の医工騎士よ。中身は自分勝手で思い上がりなただのオッサンじゃない。
嫌い、嫌い。本当に、大っ嫌い。

だけど。
その、数日後。
わたしの贈った携帯用灰皿を、腰のキーチェーンにつけている姿を見つけてしまったら。
そのことについて、藤本は取り立てて何も言ってはこなかったけれど。

きっと、はじめからひかれてた。
でも。
決定的に恋に落ちた瞬間を聞かれたら、それはもしかしたら。

カシャンと音がして、目を見開くと暗がりに粗い格子が浮かび上がってきた。冷たい地面と、両手首を拘束する鉄の鎖と。
転がされた牢獄の中で横たわったまま周囲を見回すと、ちょうど向かいの監房からこちらを見つめるふたつの眼差しと目が合った。
バベル
Старый друг лучше новых двух
「目、覚めたか?」

縛られた手首を支えによろよろ身体を起こすと、牢獄の外には霧隠がこちらに背を向ける形でたたずんでいた。正面の監房には、先ほど急所を撃ち抜かれて弱りきった奥村燐が放り込まれている。のように両手を封じられてはいないようだが。
嘆息混じりに、霧隠が言う。

「ったく、なんだってあんな真似したんだ。おかげであんたも懲戒もんだぞ」
「燐……奥村は、どうなるの……」
「はぁ? この状況で燐の心配か? あんただって分かってるはずだ、次に炎を出して暴れたら」

その先は、口に出すことさえ憚られたのだろう。言葉を切る霧隠に、が続きを促すことはなかった。
項垂れるに、霧隠が無遠慮に問いかける。

「あんた、一体獅郎の何なんだ? なんだって燐のためにそこまでする?」

なに?
藤本の、何ですって?
格子の向こうで燐の表情が変わるのをぼんやり眺めながら、は力なくかぶりを振った。

「何でもないわよ。正十字の祓魔塾でほんの二年教えを受けただけ。ただ、」

一度逸らした視線を、再び牢獄の奥村燐へと移す。彼は緊張した面持ちでじっとこちらを見ていた。

「奥村。わたしはあなたの母親と同じクラスで祓魔術を学んだの」
「えっ……か、母さん?」

思ってもみなかった名前を聞かされて困惑したのだろう。ただただ目をぱちくりさせる燐から再び顔を背けて、は自らの放り込まれた牢獄を見渡した。

「彼女はロシアからの留学生。机を並べたのはたった一年半だったけど、彼女にはわたしもずいぶん感化された。穏やかで、とても優しい人だったわ」
「フーン……で、同期の息子は放っとけないってか? んなことでヴァチカンに楯突こうとしたのか、あんた正気か?」
「あなたに分かってもらわなくても結構よ」

わたしだって、自分の行動が理解できない。
泣いて頭を下げたって、それで何が解決するわけでもないのに。
その場を掻き回して、混乱させてしまうだけで。
あのときのように、わたし自身にとっての大切なものというわけでもなかろうに。

わたしは本当に、奥村燐を守りたいの?
ただ、彼の残したものに縋りたいだけなんじゃないの?
最低だ。どちらを全うすることもできない。

「まぁいい、あんたに構ってる場合じゃねーんだ。おい、燐、これお前にだ」
「は?」

格子越しに、霧隠が燐に何かを手渡したようだった。こちらには彼女の露出した背中しか見えないが。

「さっき勝呂のお父さんからお前に渡してほしいって頼まれたんだよ」
「なんで俺に……」
「まぁいいから読んでみろ」

手紙、か。だが。
封書を破る音がして、やがて、燐の呆然とした囁きが届いた。

「読めん」
「はぁ? ったく、字ィ読めんやつだとは思ってたけどのっけからかよ! 最近のゆとり世代ってやつは!」

呆れた様子で手紙を取り上げた霧隠だが、彼女はそれを覗き込むや否や燐よりも早く悲鳴をあげた。

「うっそ、あたいも読めん!」
「お前もじゃねーか!」

霧隠はそのあともしばらくは、唸りながら勝呂達磨の手紙を睨み付けていたが。
やがて観念したように顔を上げ、渋面でこちらを振り返った。

「これ、あんたなら読めるか?」
「はぁ?」

いい大人が、手紙を読めない意味が分からない。
が、格子に近付いて差し出された手紙を受け取ると、そこに書かれたのは流れるような草書体だった。
すべてを読み終えたとき、監獄には京都へ駆けつけた奥村雪男の姿もあった。
勝呂達磨は燐のことを知っていた。藤本が育てたサタンの仔の存在を。
すべてを知った上で、明陀の抱えてきた『秘密』を断ち切ることを懇願してきた。

雪男は当然、そのことに反対した。が。

「燐。これはお前に宛てられた手紙だ。お前はどうしたい?」
「シュラさん! そんなことを聞いてどうするんです!」
「俺は……」

は檻の中で達磨の手紙を掴んだまま、眼前のやり取りを眺めていた。
俯いたまま、だがはっきりとした声で燐が言う。

「俺は助けたい」
「兄さん! 今の自分の立場が分かってるのか?」
「俺もジジイに命を助けてもらった……だから、俺が何かの役に立つっつーなら戦いてぇんだ」

藤本。あなたの息子は、本当に馬鹿。
だけど、わたしはそれ以上に。

(俺はこれでガキを殺すぞ)

でもあなたは殺さなかった。

(奥村兄弟の件に関してはあなたも無関係ではありませんがね)

とんだ見当違いね、メフィスト。
わたしが縋ろうが縋るまいが、藤本はきっと殺しはしなかった。
これだけの時間が過ぎてもなお、わたしはあなたを知らないままなのね。

燐の答えを聞いた霧隠は、鼻歌混じりに胸の刻印から降魔剣を取り出した。呆気にとられた様子で、雪男。

「な! シュラさん、何を……」
「戦うってんなら状況も分からず許可できにゃいにゃろ〜? 今ここで抜いてみてもらう」
「シュラさん!」

霧隠が監獄の燐に差し出そうとした剣を、雪男は大慌てで掴んで引き戻した。

「つい今しがた炎を出して暴れたばかりの兄に降魔剣を握らせるなんて正気じゃない! 次に何かあれば今度こそ確実に処刑される!」
「ハッ! なに悠長なこと言ってんの」

鼻で笑い飛ばしたのはだった。弾けたようにこちらを振り返る雪男に、そっけなく告げる。

「次なんてないわよ。あれが最後のチャンスだったんじゃない。ちょうど今頃ヴァチカンで最終決定でも出てるんじゃないかしら」
先生、」
「処刑が覆せないなら、動けるのは今しかないわ」
「同感だね。ヴァチカンは温情なんて期待していい場所じゃない」

の言葉にあっさりと頷いて、霧隠はあとを続けた。

「それに不浄王が復活して今まさに存在してるとしたら、現時点で燐なんかより危険な存在なんだ。お前もさんざ見てきたろーが、こいつの炎は今まで悪魔に有効だった。試す価値はある」

ヴァチカンで最終決定が下されれば、それを覆す方法はただひとつ。この空前の大危機を、燐の力で鎮めるしかない。サタンの炎が騎士團に有益であると、結果で示すことしか。
だが、燐は降魔剣を鞘から抜くことができなかった。

「燐、お前、怖いんだろ。『今度この剣を抜いたら俺はどうなってしまうんだ?』、『また我を忘れてしまうかもしれない』、『今度こそ誰かを傷つけるかも分からない』」

次々と突きつけられる霧隠の言葉に、剣を握る燐の顔から血の気が引いていく。

「お前、完全に自信を失くしたな」

自信。
そんなもの、わたしだってどうやって持てばいいかなんて分からない。
だけど、わたしはあのときからずっと。

と、そのときどこからか「やれやれ」と呆れた声がして、通気孔からスカーフを巻いた小さな犬が姿を現した。

「よいしょ。どうも皆さん、グーテン・アーベント!」
「フェレス卿!?」

あっという間に変身を解いて、メフィストが場違いなポーズを決める。何の用だと息巻く霧隠に、彼は相変わらずの芝居じみた仕草で肩を竦めてみせた。

「ずいぶんな言い草ですね。わたしだって久々の登場がブタ箱なんてがっかりです。まったく、あなたたちの尻拭いに来たというのに」
「え?」
「まぁ、先生が拘束されているのは少々予想外でしたが」

言いながらメフィストはこちらを一瞥したが、すぐに燐のほうへと向き直ってその悪趣味な傘を一閃した。
すると彼の独房の扉が大仰なブリキ製に早変わりし、改めてその中へと燐を掴んで閉じ込めてしまう。
息を呑むたちの前で、メフィストは不気味に笑いながら淡々と言葉を継いだ。

「先ほどヴァチカン本部から連絡がありましてね。不特定多数の面前で自制心を失い、炎を出したという監察の報告により、グレゴリ以下査問委員会賛成多数で奥村燐の処刑が決定しました」
「ちょ……ま、待ってくれ」

分かってはいた。免れないだろうということは。だが。
こんなにも、はやく。
たちが何も言えずに固まっていると、独居房の入り口からカツカツと一人分の足音が近付いてきた。

「これはこれは、フェレス卿、お早いご到着で」
「わざわざ監察のお手を煩わせることはないと思いましてね。ご覧のとおり、奥村燐の身柄はこちらに捕らえてありますのでご心配なく」
「ダス・シュタルクステ・ゲフェングニス……カルチェーレか。これはこれは、お気遣いに感謝しますよ」

有り難いなどとは露にも思っていないような口振りで、宇田川。だがそれを軽く受け流し、メフィストは腰を折ってヴァチカンの監察官へと一礼した。

「ではこれ以上京都出張所の邪魔をするわけにはまいりませんので、わたしはこれにて失礼いたしますよ」
「な、ちょ、お前ここまで来たなら手伝えよ! こっちは今大変なことになっ……」
「あーあー、残念ですがそれは無理です、わたしアレルギー持ちで、すでに鼻が」
「はぁ!? なに言ってんだお前、ふざけてんじゃ……」
「健闘をお祈りしています!」
「待て、おい、コラ!」
「いい、シュラ、放っとけ」

一瞬で煙のように消え去ったメフィストに霧隠は牙を剥いたが、宇田川はどうでもよさそうに右手を振った。

「どのみち悪魔なんざこっちの頭数に入ってねえ。奥村燐の処分については聞いた通りだが、今はそれより不浄王討伐が優先だ。俺ら監察も応援に入る。シュラに、奥村雪男、ふたりともさっさと隊に合流しろ」
「ハッ……京都で何が起ころうが知ったこっちゃないんじゃなかったのか?」
「状況が状況だからな。ヴァチカンの人間が居合わせながら知らぬ存ぜぬじゃ、京都だけで処理しきれなかった場合こっちの責任も問われる」
「……ご立派な本部の判断だ」

霧隠の皮肉など、まったく意に介した様子もない。宇田川は腰のホルスターに触れながら、首だけで振り向いて獄中のを見やった。

「頭、冷えたか?」
「は?」
「さっきの愚行を心底反省してるってんならお前のことはヴァチカンに報告しないでやるよ。そーだな、反省文十枚でいいや」
「……なに言ってんの」
「俺らは所詮、組織の犬だ。それとも、上に楯突くってのがどういうことか身をもって体験してみるか?」

宇田川は、笑ってなどいない。ただその暗い瞳でまっすぐにこちらの心臓を突き刺してくる。
いつから変わってしまったのだろう。いつから。それとも。

「誰にでもそうなの?」
「……は?」
「ヴァチカンの宇田川聡上一級祓魔師は、誰にでもそうやって猶予を与えるの?」

ただ、素直に湧いた疑問を口にしただけだ。が、宇田川の表情が一変して険しいものになった。

「わたしのしたことは、今あなたがやってることと何も変わらないと思うけど」
「……そうか。そうか、よく……分かった。お前のことは不浄王討伐を終えてから本部に報告する。それまでそこでおとなしく待ってろ」

見たこともないような顔だった。見損なったと言われたあのときよりも、ずっと。
共に学んだ宇田川が、荒々しく踵を返して離れていく。

「シュラ、奥村、行くぞ」
「だから! あたしに命令すんなっつーの!」

霧隠はその背に歯を剥いて喚いたが、牢獄の前で立ち尽くす雪男に気付いて躊躇いがちに声をかけた。

「雪男……おい、大丈夫か?」

だが雪男はそれには答えず、よろよろと振り返って宇田川のあとに続いた。
遣る瀬無い面持ちの霧隠が、横目でこちらを見やる。
その腕にいつの間にか幾重もの布地が抱えられていることに、は初めて気が付いた。
写真素材(c)mizutama
(11.12.01)
Старый друг лучше новых двух(一人の旧い友は二人の新しい友より良い)