同じだ、あのときと。 の眼は、あのときのジジイの眼と同じだった。 子供の頃から、さんざん怒鳴りつけられてきた。 でも手を上げられたのはたった一度、あのときだけだった。 あのときのジジイと同じ眼をして、たった今、は俺の目の前に立っている。 同じように、俺の頬を殴りつけた右手を握り締めて。 違うのはたったひとつ、が俺を見つめて泣いているということだけだ。 言いたいことは分かるよ。何も言わなくたって分かる。これまでがずっと同じことを繰り返してきてくれたって、今の俺にはよく分かる。 でも、今だけ。頼むから、今だけは。どうしても、勝呂に伝えなきゃならないことがあるんだ。 だが勝呂との間に立ち塞がったは、身じろぎひとつせず俺の目をまっすぐ見つめ返すだけだった。 と、そのときどこからか響いた破裂音と共に、俺の全身に痛みを通り越した凄まじい衝撃が襲いかかった。 「いぎゃああああああああああああああ!!!」 一瞬意識が吹き飛び、気が付けば床に転がっていた。急所をやられたらしい。尻を押さえてのた打ち回る燐の耳には、淡々と発される男の声など届かなかった。 「ヴァチカン本部の上一級祓魔師、宇田川だ。全員そこから離れろ。その悪魔の身柄はこちらで確保する」 Дурака учить - что мертвого лечить が駆けつけたときには、すでに内通者の宝生蝮と逃亡したあとだった。 「まさか蝮さんが」 「一体どこへ……」 「魔法瓶から抜かれてしもては」 「みんな、落ち着け!」 重度の魔瘴者だが、さすがに臥せっているわけにいかなかったのだろう。宝生蟒に支えられた志摩八百造がその場を宥めようと一喝し、だが京都出張所のざわめきは当分収まりそうになかった。 そんな中、一際大きく響いたのは勝呂の罵声だった。 「元はといえば、蝮が裏切ったんもこの有様も……なんもかんも全部、あんたのせいやろうが!!」 振り向くと、彼は人垣を挟んでやや離れたところに背中を向ける形で立っている。後ろから見ても目立つ髪色のおかげでそれは容易に見て取れた。 罵倒している相手の姿は見えないが、話を聞いているとどうやら勝呂の父親、勝呂達磨らしい。彼が今回の一件に関して、何事かを隠している 本当のこと。 それは、息子のお前にも『秘密』や。 そう言って困ったように笑う達磨が息子に背中を向ける様子が、人垣の隙から僅かに垣間見えた。 「とにかく今はそれどこやない。蝮を追わんと。竜士、お前はおかんや先生の言うことよう聞いて、おとなしくしとるんやで。ええな?」 「……… 親父面すな!!!」 勝呂の悲痛な叫びは、そのままの心臓を鷲掴みにして揺るがすようだった。 「このまま喋らんで行く言うんなら、あんたは金輪際、親父でも何でもないわ!!!」 きっと今ここで何も聞かずに離れたら。 わたしは勝呂のように、家族を呼び止めることさえできずに別れた。 息子にこれだけ引き止められても、勝呂達磨、あなたは何も語らずに行ってしまうのね。 だけどわたしに、それを諌める義理も権限もあるはずがない。 だが、人だかりのどこかに紛れていたのだろう、彼らを怒鳴りつける奥村燐の声がそちら側からの耳にも届いた。 そして彼の拳から僅かに閃いた、青い光と。 息を呑む、ざわつく京都の面々を顧みることもなく、燐は激しい口調で話し続けた。 「詳しい事情は知んねーけど、あとでお前が絶対後悔するから言っといてやる。いいか、父ちゃんに謝れ、今のうちに!!」 「か、関係ないやろうが! 黙っとけや!!」 「親父を簡単に切り捨てんじゃねえ!!!」 ずっと不思議で仕方なかった。 藤本は、世界が認めた最強の祓魔師だ。前・聖騎士の死後その称号を授かって以来、常にサタンの脅威に晒され、そして十六年もの間、決して屈することはなかった。 その藤本がなぜ今になって、サタンの憑依を許したのか。 後悔しているんだ。奥村燐は。父親を簡単に切り捨てたことを。 藤本が心を乱したとすれば、それは息子たちのことでしかありえない。 わたしなんかのことで、我を忘れるはずがないんだ。 言いたいことは分かる。 でも、それ以上あなたが興奮したら。 「まあまあ、燐くんも竜士もここらで仲直りや、なぁ」 燐と息子の口論に達磨がへらへら割って入ると、勝呂はカッとなったように声の調子をあげて切り返した。 「あんたはどこへでも好きに行ったらええやろ、二度と戻ってくるな!!!」 二度と。 その言葉がやけに引っかかって、前を向いていた視線が知らず知らずのうちに足元に落ちていた。 二度と戻ってくるな。二度と。 それが本音ならば、何も言うことはないけれども。 (好きにすれば!? 全部ひとりで抱えて……全部ひとりで墓場まで持ってけばいい!!) ねえ、藤本。 わたしがどれだけ後悔しているか、あなたに少しでも分かる? すべては自分の蒔いた種だって、分かっているからこそ。 我知らず回想に耽るの眼前で、とうとう危惧していた事態が起こった。 燐の全身から噴き出した炎が、祓魔師のひしめく出張所の深部を青白く照らし出したのだ。 「やめろ、燐!!!」 どこからか、霧隠の声がする。 つられるようにして、の身体もまた人垣を掻き分けて前へ前へと突き進んでいた。気持ちばかりが先走ってもどかしい。早く、早く退いて。 このままじゃ。藤本が、ユリが命懸けで守った子供が。 ふたりが守り抜いた、最愛の息子が。 こんな が人垣を突破してひらけた空間に出たとき、燐は青い炎をまとったまま勝呂の胸倉を掴みあげていた。 「俺だってなあ……俺だって好きでサタンの息子じゃねーんだ!! でもお前は違うだろうが!! 違うだろ!!!」 彼自身が、強くそう願っているかのように。 詰問する燐の後ろ姿を見据えながら、コートの袖を捲り上げたはすでにその腕の印章に錐で穴を開けながら唱えていた。 「水の女神、その御名に永久の賛美を希わん」 捧げ損ねた血が印章の外にこぼれ落ちるも、構わない。 噴き上がった水流が人の形を取るよりも前に、ルサルカは勝呂を拘束する燐の両手を弾いて引き離した。 傍らに水の悪魔を従えたままそちらに歩み寄ったは、呆然と目を見開く奥村燐の頬を、素早く手のひらで叩きつけた。 もう、どうにもならない。これだけの人間に目撃されてしまった。 藤本が、文字通り命を懸けて守ったのに。こんなところで散るしかないつまらない命だったのか? 涙混じりにこちらを見つめ返す燐の瞳が、縋るように何かを訴えてくる。だがには、ただ黙ってそこにいることしかできなかった。 宇田川か、もしくは他の監察官か。 いずれにせよ、この事実は確実にヴァチカンへと届けられるだろう。 今わたしに、できることがあるとすれば。 だが息を潜めて思案するの眼前で、一発の銃声と共に燐が悲鳴をあげてその場に崩れ落ちた。 瞬時に辺りを見渡すと、思いの外すぐにその人物を発見しては身体を強張らせる。 やや距離はあるが、ここを広く見渡すことのできる高所にたたずむ宇田川が、小振りの拳銃を構えてたちを見下ろしていた。 「ヴァチカン本部の上一級祓魔師、宇田川だ。全員そこから離れろ。その悪魔の身柄はこちらで確保する」 「ま、待て、聡、こっちは今それどころじゃねぇんだ、こいつのことより今は『右目』をどうにかしねぇと 「それはお前らの仕事だろ、シュラ。俺は聖騎士じきじきに奥村燐の監視を任されてる。その悪魔は俺に任せて、お前らはさっさと『右目』を追え」 「あたしに命令すんのか、コラ?!」 「別に。俺はただ、お前が奥村燐を庇うような真似をするってんなら聖騎士が喜ばないだろうと思っただけだ。おい、動くな」 最後の一言は、床から起き上がろうと身じろぎした燐に向けて発せられたらしい。宇田川は燐へまっすぐ照準を合わせたまま、淡々と言葉を続けた。 「無駄な抵抗はするなよ。言っとくが京都に来てる監察は俺だけじゃない。たとえサタンの仔であろうがお前ひとり拘束するくらいワケはねーんだ」 なんとか半身だけを起こした燐だが、宇田川を睨みつけ、そのまま動かなくなった。気味が悪いほどの静寂が支配する中を、躊躇いがちに志摩八百造が声をあげる。 「宇田川、さん、これは一体……ヴァチカンの監察ということは、その『悪魔』のことは本部も把握して……?」 「説明ならメフィスト・フェレスに聞け。お前らに付き合ってる暇ねーんだよ」 「何やとコラァ!?」 宇田川のぞんざいな物言いに、八百造のそばにいた金髪の若い男が反発するも、八百造が宥めると不服げな顔で引き下がった。宇田川は拳銃を構えたまま、悠然とこちらに近付いてくる。 自然と割れる人垣の通路を通り抜けて、ヴァチカンの宇田川聡はたちのちょうど数歩先で足を止めた。 「退けよ、」 彼の銃口は、今や奥村燐の前に立ち塞がるの膝頭を狙っている。 「……見てて分からなかったの? 友人との些細な諍いだわ。本部の監察が出張ってくるところじゃない」 「おい。お前、正気か?」 「奥村燐があの炎で誰かを傷付けたことがあるというのなら、言って。勝呂を殴ったのは彼の拳に過ぎない、サタンの力は関係ない」 「いい加減にしろよ。ただでさえそいつの存在は物質界の脅威だ。次に自制心を失って炎を出せばどうなるか。ヴァチカン法廷の決定に背く気か?」 (分かったら、候補生の分際で わたしはあの頃から、何ひとつ変わっちゃいない。 ただ、泣いて縋ることしか。 それでも。 腕に刻んだ印章を拭ってルサルカを消し去ったは、その場に身をなげうって額を地面へと押し付けた。 燐が戸惑いながら自分の名を呼ぶ声が、背後から聞こえる。 他のことなど、もうどうだってよかった。 「お願い。今回だけ……もう一度だけ、見逃して。お願い」 「なっ! おい、!?」 霧隠の素っ頓狂な声も、今の自分には関係がない。 衆目の中でひたすら土下座を続けるの頭上で、宇田川が独り言のようにして問いかけた。 「藤本のためか」 何と言われようと構わない。そんなこと、自分にだってよく分からない。 でも、どうしても。こんなつまらないことで、ふたりの息子を失うわけにはいかなかった。 「見損なったよ。昔はもっと骨のある女だと思ってたんだがな」 変わらないわよ、わたしは。何ひとつ変わっちゃいない。 それはあなたが、本当のわたしを知らなかっただけ。 さらに懇願しようと顔を上げたの背に、突然鈍痛が降り注ぎ、彼女はそのまま横殴りに倒れた。 「!!」 霧隠の叫びと、続け様に燐の悲鳴が響き渡る。 何かに殴りつけられたらしい背中を丸めながらなんとか首を巡らせて見やると、宇田川と同じ黒コートに身を包んだふたりの男がすぐ傍らに立っていた。内ひとりの左手には、鞘に入ったままの長剣が握られている。 「利き手でない配慮には感謝してほしいな」 軽い調子で指示を出す宇田川は、すでにその拳銃を腰のホルダーへと納めて踵を返していた。 「ひとまずここの監獄でも借りて二人とも放り込んどけ。俺はヴァチカンの指令を待つ」 「りょーかい」 「なっ、おい待てよ、聡! なにもまでぶち込むこたねぇだろ、血迷ったんだ、なぁ、そうだろ!?」 霧隠に庇われる意味がよく分からない。床に倒れ込んだまま思わず笑みをこぼしたの視界の隅で、振り向いた宇田川の瞳は微塵も笑ってはいなかった。 「黙れよ、シュラ。日本支部の監察要員で今現在全権を任されてるのはこの俺だ。お前はとっとと『右目』でも探しに行け。京都で何が起ころうが俺らの知ったこっちゃねえんだよ」 「何やとコラ、さっきから黙って聞いてりゃ好き勝手言いくさって!!」 「金造、やめい! 宇田川さんの言う通りや、今は『右目』の行方を追うんが最優先……これは我らの失態や、落とし前は自分らでつけなあかん」 「せやかて、おとん……さっきの炎かて、」 炎……。 そうだ、燐……。 ねえ、藤本。あなたに問いかけることを諦めたわたしに、今できることがあるとすれば。 だがうつ伏せのままこっそりと腰のホルダーに伸ばそうとしたの手の甲を、監察官のひとりが容赦なく踏みにじった。 そして再び降り注いだ剣の鞘を背中に受け、彼女は激痛の中で気を失った。 |