「藤本獅郎ともあろう男がたったひとりの女子生徒に入れ込むとは、らしくないな」 笑い飛ばして冗談にしてしまうことだってできた。が、意味がないと思った。いつ知った、どこで知った、そんな問いはこの男にとって無意味だ。 くわえた煙草の先に片手で火をつけると、メフィストは隠しもせずに顔をしかめてみせる。 「この部屋で吸うなと何回言わせる?」 「小さいこと気にしてんじゃねーよ。ほら、あれだ、今度パブリーズ買ってきてやるから」 「要らん。帰れ」 「これだけ吸ったらな」 「かえれ」 いつも涼しい顔で何でも受け流してみせるメフィストだが、こういうところは潔癖症と言いたくなるほど神経質である。獅郎は懐から取り出した携帯用灰皿にこぼれた灰を落としながら、深く長く、白い煙を吐いた。 そのまま目を閉じて、自らに語りかけるように、つぶやく。 「俺だって不思議だよ。でもさ……なるべくしてなったって気もどっかでしてんだ」 まるで昔から知っているかのような、気安さで。 構ってやるのが楽しみで仕方ない。 あいつと一緒にいるときはまるで、子供の頃にでも戻ったような感覚だった。 頭で先のことなど考えず、ただただ感情に突き動かされて駆け抜けた子供時代に。 求められる理想像を、演じなくてもよかった。 あの日のクリスマス、ムードってやつに流されて、もしあのままキスしていたら。 何が自分を引き止めていた? 講師という立場か、四大騎士としての見栄か、大人の理性か? そんなものは打ち捨てて、自分に惚れている女の唇を奪うことくらい容易くできたはずだろう? この俺に、あの澄んだ眼差しを受け止めることができたか? 本当は、あいつにこんな仕事はさせたくなかった。引き返してくれるのなら、それがいちばんよかった。 彼女と他愛ないことで言葉を交し合った一年、忘れそうになっていただけだ。 俺にはどうせ、こんなろくでもない生き方しかできやしない。 『青い夜』を恨んだこともあった。だがそんなものは、ひとつのきっかけに過ぎない。 どのみち俺に、あいつを引き止めるだけの資格はなかった。 あとどれだけ、夢の中に彼女の涙を見るのだろう。 「……、」 一升瓶を片手に仰向けに横たわる獅郎の胸に乗って、クロがニャーニャーと聖服を掻いた。 Смерть решает все проблемы 二年の訓練生に薬草採取と調合を手伝わせた湯液を、夜の点滴後に服用させ、ようやく一息つく。 「先生、お疲れさまです」 縁側に腰かけ、ひとりでぼんやり夜風に当たるの背中に、医工騎士志望の訓練生・豊泉が声をかけた。 「これ、夕食だそうです。先生まだですよね?」 「ああ……ありがとう、いただくわ」 正直それほど空腹を感じていたわけではないが、応援で来ている自分が体調を崩すわけにはいかない。いかにも上等そうな弁当箱と緑茶のペットボトルを受け取り、その場で割り箸を開けようと思ったが、用を終えたはずの豊泉が立ち去る気配を見せないので、はさり気なく隣に座るよう促した。 「京都は初めて?」 「あ、いえ……中学の修学旅行で」 「そう。わたしは初めてなの。今度は仕事でなくゆっくり遊山に来たいわね」 単なる繋ぎの台詞だ。京都それ自体に興味などない。は旅館の弁当をつつきながら、豊泉が自ら切り出すのを気長に待った。 もともと口数の少ない彼女が、やがて、ぽつぽつと消え入りそうな声で話しはじめる。 「さっき……厨房で奥村燐に会って」 「………」 「わたし……何があったわけでも、何をされたわけでもないのに、ただ……ただ、足がすくんでしまって」 はそれまでどおり、ゆっくりと箸を動かす。俯いた視界の片隅で、抱き抱えた豊泉の膝が震えていた。 「これまで、何度も実戦に参加して……覚悟してきた、つもりでした。なのに……こんなとき、ただ怯えてるしかできないなんて」 食欲が、湧かない。半分ほどをなんとか胃袋に押し込んで、は弁当のふたを閉めた。 「この間の火事……わたし、寮から見てました。あれだけの炎……青い炎……近くにいるって考えただけで、わたし、怖くてたまらないんです……」 「誰だってそうじゃない? あなただけじゃない、プロの祓魔師でさえ、奥村燐にはできる限り関わらないようにしてる」 「でも先生は違うじゃないですか! わたし……もうどうしていいか分からなくなって……これまで何のために勉強してきたのか、わたし、ほんとにこの世界でやっていけるのかって……」 (そんなんだったらやめちまえ。候補生のくせにそれくらいの覚悟もねぇんなら 脳裏をかすめたのは、あのときの藤本の。 は緑茶を喉に流し込み、それが器官を滑り落ちるのを他人事のように感じ取っていた。 「悩むのは当然だわ。わたしだって今でも、考えることはよくある」 「……でも、」 「努力すれば必ず報われるなんて、そんな気休めを言うつもりはないわ。前にも言ったと思うけど、我々祓魔師の世界は結果論、悪魔に弁解なんて通用しない。次に奥村燐が我を失えば、あの炎による犠牲が出ないとも限らない。それは誰にも保障なんかできない」 豊泉の息遣いさえ、生々しく肌に感じるほどだ。それでもは、自分の膝を見つめつづけた。 「わたしだって悪魔は怖い。でも、奥村燐は……泣くことしか知らないただの子供じゃない」 実際に奥村燐が泣いている場面を目撃したわけではない。 彼は泣いてなどいない。 ただ父の背中を追って、がむしゃらに駆けるだけの。 泣くことしか知らなかったのはわたしのほうだ。 「……先生?」 恐る恐る呼びかけられて、初めて視界が潤んでいることに気付いた。こぼさないよう、そのまま顔を背けて、 「悩んでいるのは、それだけあなたがこの仕事を真摯に考えているから。それでもこの世界に身を置き続けるのなら、悩みながらも、足を止めては駄目よ」 「……はい」 「先へ進んでいるのか、後退してるのか。脇へ逸れてはいないか。そんなこと、誰にも分からないもの。でも決して立ち止まっては駄目、その隙を悪魔はいつだって突いてくる。歩みを止めてしまうくらいなら、そのときは潔く手を引きなさい。命を失ってしまってからじゃ遅いのよ」 失ってから気付いたって。 ユリは、藤本は。どこを探したって、見つかりはしないもの。 それとも 「……でも、でも、それでも藤本先生は、」 泣きながら絞り出された豊泉の言葉に、跳ね上がる鼓動と共に顔を上げる。彼の急逝は、公には事故死として報じられたはずだった。が、日本支部の上層のみならず、彼に教えを受けた祓魔塾生の間にも、サタン襲来の噂が流れていることは知っていた。 「藤本神父は」 豊泉の嗚咽を消し去るように、前を向いたははっきりと声を出した。 「とても強い人だった。死を恐れるような人じゃなかった。だから、彼を思って泣くことなんてないのよ」 喜んで死にに行ったなんて思わない。 だけどあなたは、後悔なんてしていないでしょう? サタンの仔を養い育てると決めた時点で、何も恐れることなんてなかったんでしょう? 「……先生は、どうして祓魔師になったんですか?」 躊躇いがちな豊泉の問いかけが最後まで聞こえないうちに、背後から突如、地響きのような震動が伝わってきては息を呑んだ。豊泉とふたり、緊張した面持ちで一斉にそちらの方角を見やる。 といっても、ここからは虎屋の小さな庭先が見えるだけだが。 「地震、じゃなさそうね」 「な、なに……」 「見てくるわ。あなたはすぐ部屋に戻って他の候補生たちと合流しなさい」 「は、はい」 戸惑う豊泉を縁側に残し、は磨かれた廊下を全速力で駆け出した。 出張所が襲われたらしい。 『右目』警護の増援部隊が、とんだザマだ。 が、今はそれよりも。 「やめろ、燐!!!」 あいつ、くそ こんな、大勢の前で 燐の身体から噴き出した青い炎は、もはやごまかせる次元の話ではない。 「燐!! コラ、お座り!!!」 犬でもあるまいし。 だが、犬とおんなじだ。 出張所に殺到した京都支部の人間を掻き分けて、一刻も早く燐のところへ。 しかしシュラが人だかりの中心に到達するよりも前に、勝呂の胸倉をつかむ燐の両手を、駆け抜けた閃光が弾き飛ばした。 咄嗟に手を引っ込める燐の傍らを舞って、朧ろげに女の形をした悪魔が戻ったのは、シュラとちょうど反対側の人垣から現れた。 あいつも、悪魔に付け込まれやすいタイプだと思っていた。涼しい顔をして、本音というものをまるで口にしない。 が、誰もが注視する中、捲り上げた袖の印章をそのままに、が唐突に燐の頬を平手打ちした。 駆け寄るタイミングを失って、シュラは呆然とその光景を眺める。 身じろぎひとつせず立ち尽くす燐の正面で、は厳しい顔をして泣いていた。 あのが、唇を噛み締めて涙を流していた。 どういうことだ。 。 なぜそんな眼で、燐のことを見る? あんたは一体、なんなんだ。 そのとき、沈黙を破って出張所に響いたのは一発の銃声だった。 |