奥村燐の処分が、保留された。
正十字騎士團ヴァチカン本部オペラ座法廷における、日本支部支部長メフィスト・フェレスの懲戒尋問。そこでメフィストの持ち出した『賭け』が採用され、ひとまず半年後の祓魔師認定試験を待つこととなったらしい。

「引き続き、奥村燐およびメフィスト・フェレスの監察を任されることになった。お前も、なんか不審な点があればすぐ俺に言ってくれ」
「……うん」
、聞いてるか?」
「……うん」

盛大に嘆息する宇田川の傍らで、は中腹部から見下ろせる学園町の様子を眺めていた。いくらなんでも、半年後の認定試験なんて。十一歳から祓魔術を学びはじめた、ロシア支部の重鎮バレンチン・エギンの一人娘ユリは、五年かかった。 史上最年少で称号を得た天才、奥村雪男でさえ六年の歳月を要した。
単純に考えて、寿命が半年延びただけだ。その間に、一体何ができるというのか。

そっと目を閉じて、思い返す。ごまかすように笑う燐、涙混じりに声を荒げる杜山。

(どうして、わ……笑うの……なんにもおかしくなんかない!!)

同じだ。この子は、わたしと同じなんだ。
何でそうやって笑うの。そんなところまで、あなたは藤本に似なくていい。
いっそあのまま、悪魔に戻ってしまえばよかったのに。

「まさかサタンの仔に情でも移ったか?」
「は? なに言ってんの意味分かんない」
「藤本の育てた子供だろ。この一ヶ月見てきて思った、頭は空っぽだがあいつによく似てる」

顔を背けて、は口を閉ざした。そんなこと、よく分かってる。雪男が母親の『静』を受け継いだとすれば、燐は父親の    藤本の『動』をよく体現している。
だからこそ、つらい。あの双子のどちらを見ても、大切なひとたちを思い出すから。
後ろから進み出て視界を塞いだ宇田川が、冷淡に告げる。

「他人の感情に踏み込めるなんて思ってねぇよ。でもな、同窓として一言言っておくぞ。変な気起こしてみろ、俺はお前でも告発するぞ」
「取り越し苦労。わたしだってこの紋章に忠誠を誓ってる」
「だったら奥村燐のことを知った時点で何で本部に報告しなかった。いくらでも機会はあっただろ」
「だから……フェレス卿に始終監視されてたの、通報しようとすれば脅された。情けないけどそれはあんただって見てたでしょ」
「本当にそうか? 藤本が死ぬ前からずっと、お前はエギンのことも知ってたんじゃないのか?」

突きつけられた問いに言葉を失うから視線を外し、宇田川は軽い調子で自らその話題を切り上げた。

「まぁいいわ。何にしてもお前はユリ・エギンとも藤本獅郎とも『関わり』が深かった、俺たちの監察対象にお前も含まれてるってことは覚えとけよ」
「わたしを監視しても何も出てこないわよ、時間の無駄」
「無駄かどうかを決めるのは俺たちだ。お前は普段どおりやってればいーの。んじゃ」

背中を見せて去っていく宇田川を見送って、は再び街のほうへと視線を下ろす。どうせ誰かしらには常に見張られているのだ。同じ状況がこれからも続くというだけ。

「杜山さん」
「あっ、はい!」

実戦訓練で負傷した勝呂、志摩、三輪、さらに奥村燐を欠いた三人だけの授業を終え、最後に教室を出たは後ろから杜山を呼び止めた。大袈裟なまでの反応で振り向いた彼女に、神木、宝の後ろ姿が完全に視界から消えてから、声を落として話しかける。

「あれから奥村くんには会った?」
「あ、えっと……さっき、授業前に教室に来て……でもすぐに雪ちゃ、奥村先生に連れてかれて……」
「そう」

何のつもりなのだろう、わたしは。
けれどもこれだけは、言っておかなければならないと思った。

「男って、ほんと。何でも自分ひとりでできると思ってる」
「えっ?」
「誰にもこんなこと背負わせたくないって、全部ひとりで抱えて。話してほしいって思うこっちのことなんかお構いなしの、独りよがり。かえってそれで傷付けるなんて考えもしない」

戸惑いながら見上げる杜山の顔を、見ることができない。
一呼吸を置いて、ようやくその大きな瞳を覗き込んだ。

「でも、あなたに今も彼のことを思う気持ちが少しでも残ってるなら、切り捨てないであげてね。このまま何も聞かずに終わったら、きっと後悔するでしょう?」

はっと見開いた杜山の眼に、涙がにじんで反射する。そして歯を食いしばりながら、はいと大きく頷いた。

わたしが杜山のように素直であれば。
ねえ、藤本。
もしかして何かが、変わったのかな    
バベル
Дальше с глаз - ближе к сердцу
「藤堂先生!」

正十字学園町、北正十字    
日本支部所属のすべての医工騎士にかけられた緊急招集に応じ、もまた授業を中断して現場へと駆けつけていた。原因不明の魍魎大量発生、一般人にも広がる汚染。本部の監察官である宇田川でさえ応援に加わっている。
『左目』を盗まれた『最深部』の責任者は、も祓魔塾で宇田川らと共に教えを受けた、元・魔法印章術担当の藤堂三郎太だった。

「おお、くん……すまない、手間をかけさせて」
「なに言ってるんですか! それより早く処置を、」
「いや、いいんだわたしより先に、他の者たちを……」
「瘴気を浴びたんですよ! おとなしくしててください!」

追いつかない。ひとまず藤堂の応急処置を終わらせて、は宇田川らと一般の汚染者の救護に回った。
遅れて到着した霧隠と雪男に状況説明をする途中で、乱心でもしたように声を荒げる藤堂を、後ろ目に見やる。傍らを通り過ぎた宇田川が、他人事のような声音でささやくのが聞こえた。

「あの堂々たる藤堂が十五年でこの様か。あーあ、年は取りたくねぇもんだな」
「軽口叩いてる暇があったら手動かせば?」
「動いてますよ」

あっさりと切り返して、宇田川が離れていく。はそちらから視線を外し、汗だくで横たわる女性に魔除薬を注射することに全神経を集中させた。
が、宇田川の言うとおりだ。悪魔を使役するには強靭な精神力を必要とする。十五年前のあの頃、藤堂はそれに相応しい風格を持っていた。年月が彼を衰えさせたのか。
いや、ちがう。藤本は最後まで強く、そして最後まで本当に優しい男だった。

「藤堂先生が……裏切り者?」
「ええ、『左目』は彼の手引きで盗まれたと考えてまず間違いないでしょう。現在、霧隠先生の使い魔が追跡しています」

あの藤堂先生が、悪魔落ち。
人は誰しも心の中に弱さを持っている。そのことを認められなければ、奴らに付け込まれる余地はさらに増すだろう。彼はその典型となってしまったのかもしれない。けれど。

(いいぞ、。よくやった)

わたしが努力できたのは、他でもない藤本のおかげだ。けれども当然、ただそれだけではなくて。

先生には『右目』警護の増援部隊に参加していただきます。そうそう、候補生たちも同行させますので授業のほうはご心配なく」
「……分かった。話がそれだけならわたしはこれで」
「ヴァチカンの宇田川くん、同期だったんですねぇ。ずいぶん仲がよさそうだ」

いつものように自らのデスクに肘をついて微笑むメフィストに、そっけなく告げる。

「今は本部の監察官と、単なるその対象です」
「監察対象とじかに接触するというのはなかなか、感心しませんねぇ」
「わたしに言われても困るし、監察されてるあなたが言うことじゃないと思うけど」
「わたしはわたしの仕事をするだけですよ。宇田川くんがこちらに残るか京都遠征についていくかはわたしの与り知るところではありませんが、まあ、決して羽目を外さないようにお願いします」

はっ? 最深部に秘められた、それだけで最悪の凶器になりうる不浄王の『右目』。その警護に駆り出されるというのにそこで羽目を外すとはどういう意味だ。
聞き返す気にもならず、嘆息混じりに踵を返すの背中に、メフィスト・フェレスの静かな声が届いた。

「お気をつけて」

面食らって、思わず振り向いた。彼はいつものようにすました顔で微笑むばかりで、それ以上は何も言わない。居たたまれなくなって、は急ぎ足で理事長室を出た。

無人の廊下をしばらく歩き、角を曲がってようやく足を止める。いつどこにあの悪魔の目が潜んでいるか分からなかったが、その場で深呼吸し、乱れた呼吸を整えざるをえなかった。馬鹿みたい。 何をされたわけでもないのに    ただ一言、気遣いの言葉をかけられただけで。
いつもよりほんの少しだけ、その声が優しく聞こえたから。

(ばかみたい。ほんっと、ばかみたい!)

わたしなんて、あの男にとってそこいらに転がっている玩具のひとつと変わらないのに。
あの男は、いつだって気分ひとつでわたしの首をへし折れるのに。
ほんの一瞬でも、恐怖とも侮蔑とも嫌悪とも異なる感情を抱いてしまった自分が恥ずかしい。

(どうかしてる)

よくもこんなふらついた人間が、上級祓魔師になど居座っていられるものだ。
このままではいつか、本当に悪魔の食い物にされてしまう。

宵闇の中、冷たい墓標の前にたたずんでひとり泣き崩れた。

(俺が死んだら寂しいくせに)

さみしいよ。さみしいよ、藤本。
わたしはまだ、あなたに何も伝えていないのに。
写真素材(c)mizutama
(11.10.18)
Дальше с глаз - ближе к сердцу(目から遠ざかれば、心に近くなる)