(もし万が一、奥村燐が『人』として生きられなくなった場合……あなたが彼を殺して) サタンの仔を育てるなど、物質界の歴史上、まず初めての試みだろう。前例がない以上、吉と出るか凶と出るか、それは誰にも分からない。たとえ悪魔にさえ。 だからきっと、それが人類の脅威となることが明確になれば、藤本は彼を殺すだろう。避けられないことが分かれば、彼自身の手で始末をつけようとするだろう。 だけどわたしは、そうさせたくはなかった。これ以上、藤本ひとりに負わせたくはなかった。 綺麗事と言われても構わない。どのみち悪魔の仔ひとり殺すのに、メフィストは躊躇などしないだろう。 使えるものは、悪魔でも使えばいい。人間だって所詮、あの道化の玩具なのだ。 だが、藤本が死んだ今 (君も恨んでいるはずだ、憎んでいるはずだ。サタンさえいなければ、あのサタンの仔さえいなければ、あんな形で親友を失うこともなかった) ああ、認めよう。恨んでいないと言えば嘘になる。奥村雪男だってそうだ。あの夜、血の海に倒れ込んだまま魂でも抜けたかのように微動だにしなかったユリ。実際、それはたとえでも何でもなかったかもしれない。 おぞましい臭気に包まれ、屍の山と化したロシア支部。その中で、彼女が数少ない生き残りだった。が、それだけだった。共に学んだ親友は、駆け寄ったわたしのことを認識することもなく倒れた。 死んだと思っていた。誰がお前たちの誕生を望んだ? サタンの憑依した聖騎士に犯された (ねえ、裁判はどうなったの、ねえ!) (お前には関係ねぇ) 関係ないって。それ、本気で言ってんの? あの頃はただひたすらに、藤本の背中を口汚く呪った。 けれど、今ならば分かる。彼はわたしに、何も背負わせないつもりだったんだ。 すべてを打ち明けてほしかっただなんて。それでわたしに、一体なにができたっていうの? (お願い……ユリを……ユリを、殺さないで) 最後には、泣いて縋った。その背にしがみついて声を嗄らして泣いた。 思い出せるのは、振り向いた藤本の冷ややかな眼差しと、払われた手のひらと。 (じゃあお前は、生かして産ませろっつーのか? それがサタンの力を継いでりゃどうせ殺さなきゃならねぇ、もしエギンが正気を取り戻して何もかも思い出しちまったら……それこそ残酷だとは思わねぇのか?) 藤本の言うとおりだった。ユリの命が続くとして 終わらせてやることこそが、もしかしたら。 (分かったら、候補生の分際でヴァチカンの決定に口出しすんじゃねぇ) 恨んだ、憎んだ。遠ざかるその背中に思いつく限りの暴言を吐いた。でも、本当は分かってる。それこそがきっと、すべてを収めるための最善策なのだと。藤本だって、好きで教え子を手にかけるはずがない。 これが祓魔師という世界なのだ。このまま塾へ通い続けるのなら、この世界に身を投じることを覚悟しなければならない。 すぐに割り切れるはずがなかった。けれども時間をかけて、藤本のようになることを決意した。手騎士の称号を得て祓魔師となったそのときには、私を殺して組織のために尽くすことを誓った。 わたしには、他に何もないから。 それなのに藤本が、本当はユリを庇って世話し、その息子たちの後見人まで務めていたということは。 (もっとも、奥村兄弟の件に関してはあなたも無関係ではありませんがね) (フーン。なんだ。そんじゃ俺が勝手に期待してただけなんだな) 大事にされてることくらい、知ってた。ただ、自惚れてしまうことがこわかっただけ。 かけがえのないあなたを手に入れ、そしていつの日か失ってしまうことをおそれただけ。臆病だった。だからこの仕事にしがみつくしかなかった。 奥村兄弟の生存に、わたしが無関係でないのなら。 わたしにはせめて、その存在が世界を壊してしまわないよう見届ける義務がある。 彼が藤本の息子なのだとはっきり見せ付けられた今は、なおさら。 だけど 青い炎が燃え上がる森林区域を中腹部から見下ろすの右手には、ひらいたケータイが握られていた。 (もう、だめ……これ以上は、抑えられるわけない) やっぱり無理だったんだよ、藤本。あのとき終わらせておけばよかったんだ。 ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい。 だが震える親指でキーを押すの背後から、唐突に接近した気配が抱きすくめて彼女のケータイごと包み込んだ。 ぞわりと身震いすると同時、後頭部に載せられた顎の上からメフィストが甘ったるい声でささやく。 「どちらへ?」 「……もう無理。ヴァチカンに通報する」 「もう少し待っていただけませんか。あれもようやく本気を出せるようになってきたところです」 「あんたがけしかけたの? あれだけの炎を……本気で飼いならせるとでも?」 「相手は魔神サタンですよ、これでもまだ足りないくらいだ。もう少し、長い目で見てはいただけませんかね」 「無理よ。あんな化け物が人前で暴れでもしたら、取り返しのつかないことにな 捲くし立てるを抱き締めるメフィストの腕に、有無を言わせぬ力が込められた。思わず声が途切れ、息を呑む彼女の顔を後ろから覗き込み、その耳朶にゆっくりと唇を這わせながら、メフィスト。 「藤本が十五年も育てた息子ですよ。そう簡単にヴァチカンに引き渡してよいのですか?」 「……関係ない。物質界を犠牲にしてまであれを庇護したところで、何の意味があるっていうの」 「あなた、言いましたね。奥村燐を守ることができなければ、藤本の死が意味を失ってしまうと」 「藤本だって自分の死を有意義にするために物質界を犠牲にしろなんて言わない! 絶対に言わない!!」 「……妬けますねぇ。あなたの中から藤本を消し去るにはまだずいぶんと時間がかかるようだ」 すらりとした長身に抱きすくめられて萎縮していた身体に、熱が戻ってきた。せめてその顔を頭から引き離すためにかぶりを振って、吐き捨てる。 「奥村燐を生かした時点であんたとの賭けはとっくに破綻してるの。つまらないこと言ってないでその手を放して」 「ええ、おっしゃるとおりですね。ですがあなたを欲しているというわたしの気持ちに変わりはありませんよ」 こんなところでこの男と悠長に話している暇はない。怒鳴りつけようと息を吸ったところで、不意に肩を掴んで無理にからだを反転させられた。 正面から向き合った道化がその長身を屈め、ぞっとするほど顔を近付けてきて、ささやく。 「お忘れなく。わたしは自らに課した節度を守っているだけで、いつでもあなたのくちびるを噛み切ることも、眼球をくり抜くことも、はらわたを引きずり出すことさえできるのですよ」 その底知れない瞳の暗さに、闘志が削がれた。肩を放されると、脱力した足から崩れ落ちてそのままその場に座り込んでしまう。 腰が立たなかった。サタンの産み落とした上級悪魔といえ 曲がりなりにも上級祓魔師を名乗る、このわたしが! 「さて。そろそろ弟たちを宥めに行ってやらねば、学園が消し炭になってしまう」 「ま……まって!」 やっとのことで絞り出した呼びかけに、立ち去りかけたメフィストが振り向く。声を詰まらせ、涙をにじませながらも、は物質界に棲みついた白い悪魔を見やった。 「あなた……ほんとうは何がしたいの。あの青い炎を抑えられるんなら……奥村燐を必要とするのはなぜ?」 メフィストはしばらく、表情ひとつ動かさずに黙っての眼を見ていたが。 やがて小さく笑みをもらし、あっさりと答えた。 「わたしはただ、わたしの玩具箱を邪魔されたくないだけですよ」 そしてあっという間に、の視界から消えた。 知らないうちに落ちていたケータイに手を伸ばすこともできず、ただがっくりと肩を落とす。 藤本のようになりたかった。愛するひとのそばにいたかった。 わたしはこの十六年、一体なにを学んできたというの? 俯き、涙をこぼすの上に、不意に暗い影が差して傍らにしゃがみ込んだ。 「驚いたな。お前、支部長といい仲だったのか」 「はっ? あ、はぁ?!」 顔を上げて、気付いた。眼前に屈み、彼女のケータイを拾い上げたのは、先ほどまさに電話をかけようとしていたその相手だったのだ。 ヴァチカン本部勤務の上一級祓魔師、宇田川聡は苦笑混じりに肩をすくめてみせた。 「冗談だよ。ありゃどう見てもラブラブイチャイチャな感じじゃなかったしな」 「あんた……多分それもう死語」 「んなことどーでもいいよ。立てるか? いや、別に立たなくていーや」 「何なのよ立てるわよ馬鹿にしないで」 思わず言い返したものの、支えにしようとついた腕さえも力を失ってぐらついた。すぐさま伸びてきた宇田川の手に掴まれて、再び地面へと項垂れて落ちる。 情けない。こんなの、祓魔師の称号を返上しろと言われたって逆らえない。 「……ねえ」 「うん?」 「何でこんなとこいるの」 「うーん。何でだと思う?」 考えられるのはひとつ。ふたりして、学園の下腹部に広がる森林地帯に燃え上がる青い炎を眺めた。 「こんな形で帰ってきたくなかったな」 かつての同窓はまるで当時を思い出すかのように、遠く、目を細める。 その場に座り込んだまま、彼の横顔を見上げて、聞いた。 「あんたもヴァチカンから監察官として派遣されてた?」 「ま、俺がこっち来たのは一ヶ月くらい前だけどな」 一ヶ月も監視されていたなんて。こうなると、霧隠、宇多川の他にもまだ何人か監察官が送られているのかもしれない。 遊園地の一件は何とか切り抜けられたとしても。こうなってしまった以上、わたしが通報するまでもなく奥村燐の正体は明るみに出てしまったらしい。 徐に立ち上がった宇田川が、コートの裾を払いながら独り言のようにつぶやいた。 「あいつ、エギンを生かしてたんだな」 「………」 「聖騎士が来てる。消火作業がすんだらお前も事情を聞かれることになるだろう」 「パ……聖騎士!?」 上擦った声をあげるを見下ろして、宇田川が瞼を伏せる。 その影を浮かび上がらせる光は、下界の炎を受けてほのかに青色を帯びていた。 「藤本獅郎が死に、メフィスト・フェレスも処分は免れないだろう。日本支部は終わりだ」 「そんなこと、」 「俺の気持ちは変わってない。ヴァチカンに来い、。俺が口でもなんでも利いてやる」 宇田川がヴァチカンに引き抜かれたのは、称号を得て五年と経たないうちだった。 あのときも、今と同じことを言われて。 そしてまた、は当時とまったく同じ答えを返した。 Кошке игрушки, а мышке слёзки |