雪が降っていた。 珍しく一日空いたオフがクリスマスでも、自分にはまったく関係がない。部屋の掃除でもして過ごそうと思っていたが、目覚めれば昼の一時でどうでもよくなってしまった。日常の細々した買い物は学園内のスーパーで事足りる。 櫛を入れた髪だけまとめ、はすっぴんのまま宿舎を出た。 思えば高等部に入学してからというもの、一年の大半をこの学園で過ごしてきた。祓魔師の称号を取得したのは入塾三年目の冬。 すでに同期は全員クラスを去ったあとだったが、希望コースを途中で変更した点を加味すればむしろ優秀な成績だと担当の藤堂には褒められた。 ほんとうは。ほんとうに、わたしが欲しかったのは。 目的だったはずのスーパーを通り過ぎて、雪のちらつく校庭をひとり歩く。冬休み中はほとんどの生徒が帰省しているので、学園内は実に静かなものである。彼女と歩いた道筋をたどり、並んで掛けたベンチへと座った。 あの黒猫を見なくなったのはいつ頃だったろう。 自分のことしか見えていなかった。ちやほやされて、自惚れることにすっかり慣れきっていた。ひとりで行動しがちなユリに構う自分に、まったくエゴがなかったと言えるか? けれど彼女が教えてくれた。地に足をつけるということ、その大地に根ざす命の美しさ、そして優しさを。 思い出すだけで、涙が溢れそうになった。振り切るようにして、立ち上がる。 足は自然と、街のほうへと向いていた。年に何回か、買い出しに出る。ほとんどは美容院も含め学園内で済ませられるが、服や靴などそういった類は年中同じというわけにいくまい。はアパレルショップの並ぶ大通りをぶらついて、セーターだけを二着買った。 街はカップルと家族連ればかりで、そうそう長居する意味も、その必要もない。 そして学園へと戻る自分の爪先が、修道院を向いていることには気付いていた。 (合わせる顔なんかない) ユリが『処刑』されてから、意図的に避けていた。だけではない。祓魔塾生の誰もが藤本を遠巻きにするようになった。直接ユリを知る世代が卒業してしまうと、そのこともすぐに忘れ去られたが。 それでも藤本は、それまでと変わらず塾生たちに接した。にさえ何事もなかったかのように声をかけた。が、にはすぐに分かった。彼だって傷付いている。それをひとりで抱えていつも通りに振舞ってみせる。だからこそつらかった。その顔を見てはいられなかった。 けれど。 五年ぶりに訪れた南十字修道院は、門から見える位置に誰の姿もなかった。もとより会いたかったわけではない。騎士團で顔を合わせても、いつも自分から逸らして逃げる。会いたいわけではない、話をしたいわけでもない。 ただ 踵を返してそのまま立ち去りかけたの耳に、突然小さな子供の声が届いた。 「父さーん! 早くしないと兄さん待ってるよー!」 「おいおい待てって雪男! 靴くらいちゃんと履かせろ、あとお前、マフラー忘れてんぞ、ばか」 呼吸さえ、忘れた。 振り向いたの眼に映った、ふたりの人間の姿。黒いコートを着込んだその男はまだ幼稚園ほどの子供へと駆け寄り、屈んで彼の首に青いマフラーを巻きつけてやる。そしてクシャクシャとその頭を撫でながら顔を上げ、そこで初めてこちらの存在に気付いたようだった。 子供へと向けていた男の笑顔が、波のように引いていく。ふたりはしばし、無言のまま見詰め合っていた。 「なんだお前、来てたのか! そんなとこに突っ立ってねぇで声かければよかったのに」 「………」 「あ、こいつ? こいつはいま俺が後見人やってる雪男っつーんだ。なかなか利口そうな顔だろ? もうひとりやんちゃなのがいるんだが、俺たち今からそいつ迎えに行ってやらねぇと」 「……なんで」 絞り出した声が、かすれた。藤本の情けない笑みも、ぴたりと動きを止める。 ひらいた修道院の門に手をかけたまま、は嗚咽を呑み込んで叫んだ。 「なんで、わらうの……何もおかしいことなんかないじゃない!!」 一目見ただけで分かった。その瞳を見るだけですべてのことが分かった。 何も知らずに 「、」 「そうやって、全部ひとりで抱えて……もういい、あんたにとってわたしが何でもないことなんて最初から分かりきってたのに。期待したわたしが馬鹿だったんだ、親子ごっこでも何でも、好きにすれば!? 全部ひとりで抱えて……全部ひとりで墓場まで持ってけばいい!!」 背中を向けて駆け出したの耳に、一度だけ藤本の呼び声が聞こえた。けれども、それだけだ。しばらく走り抜けて、呼吸が乱れたところで足を止める。追ってくるわけがない。たとえ追われたって、わたしには逃げることしかできない。 その場にしゃがみ込んで、抑えることなくむせび泣いた。 何も知らなかった。勝手に分かった気になっていて、わたしは藤本のことを何も知らなかった。 あいつは五年間も、聖騎士という重い称号を背負いながら、たったひとりで。 そしてこの先もずっと、たったひとりで。 (おい、シカトしてんじゃねーよ) (してないし。目に入ってなかっただけだし、すみませんでしたフジモトセンセ!) どうやって、顔を合わせろっていうの。平然と話しかけてくるそっちの神経がおかしいし。 あれはちょうど、桜の時期だったろうか。横目に見る彼の背景に、淡い桜色が舞っていたように思う。 頑なに目を合わせようとしないに歩み寄って、藤本がしれっと言ってのける。 (あ、そっか。ここんとこ俺が任務でちょいちょい外すから寂しいんだろ) (は? ちょっと意味分かんない何言ってんの死ね) 反射的に飛び出した文言に自分でも驚いたが、藤本はそんなことはおくびにも出さず、同じような軽い口振りで言ってきた。 (だってお前、俺のこと好きだろ?) ぱっと顔を上げて、初めて藤本の眼を見た。冗談とも本気ともつかないその瞳としばらく見詰め合ったあと、ようやく口に出せたのは胸中とは正反対のいつもの憎まれ口だった。 (ばか言ってんじゃないわよ、自惚れんのも大概にしなさいよ! 誰があんたみたいなテキトーな親父……) (フーン。なんだ) さほど拘りもない様子で視線を逸らす藤本の横顔に、傷付く自分がいる。 彼はくわえていた煙草に火をつけて、すでに踵を返していた。 (そんじゃ俺が勝手に期待してただけなんだな) (……え) 遠ざかるその背中に、呼びかけることなんてできない。 おかしいって思ったんだ。あのときからもう、彼はたったひとりで抱えていくって決めてたんだ。 それなのに、わたしは。その違和感に気付いてあげられなかった。あのとき呼び止めて、問い詰めなければいけなかったんだ。 今さら悔いたってもう遅い。彼はひとりでここまで来た。そしてこれからも、たったひとりで進み続けるだろう。 「風邪をひきますよ」 眼球に流れ込んでくる雫が沁みて、空を仰ぎながら目を閉じた。と、不意に感じた気配と共に、叩きつけるような雨が治まる。校庭のベンチに座り込むの上に、白く映える衣装に身を包んだメフィスト・フェレスが、いつもの派手なピンク色の傘を差しかけていた。 「奥村燐は?」 「修道院にいますよ。ご心配なく、弟がついています」 「殺すの?」 「当然。藤本の意に反し、彼は降魔剣を抜いてしまった。二度と『人間』には戻れない。わたしの勝ちです」 「……そう」 言葉少なに俯くの隣に浅く腰かけ、メフィストがさらりと言う。 「約束ですからね。万が一、奥村燐が悪魔として目覚めてしまったら 「当然でしょう。あなたにも責任はあるのよ」 「心外です。わたしは『親友』として藤本の頼みを聞いたまでだ。感謝こそすれ、責任の一端を担わされる謂れはありませんね」 「ハッ……親友? 面白いから乗っただけだと言ってたじゃない」 「それとこれとはまた別の話です。まぁ、もう一日だけ待ってください。わたしもただの『悪魔』ではない、父と慕った男の最期くらいは見送らせてやりましょう」 「……その間に何かあったら、全部あんたのせいだからね」 「何も起こりやしませんよ。言ったでしょう、彼には弟がついています」 奥村雪男。二年前、史上最年少で祓魔師の称号を得た、対悪魔薬学の天才。 世界最強の医工騎士の、息子。 「好きにすれば」 「送りますよ」 「いらない。ついてこないで」 「レディーに風邪をひかせる趣味はないもので」 「こんなんで寝込むほど柔じゃないの、ばいばい」 「それならばせめて、これを」 すっくと立ち上がった彼女を見上げて傘を差し出すメフィストに、はあっさりと拒絶の言葉を返した。 「そんな悪趣味なもの、恥ずかしくて差す気にもならない」 そしてそのまま背中を向け、大降りのなかへと飛び出す。何もかも洗い流してほしい。後悔も未練も、何もかもをすべて。 一体いつまで巻き戻せばいい? そうすれば大切な人たちを、こんな形で失わずにすんだの。 せめてあのとき、愛していると伝えていたら。 Что с возу упало, то пропало わたしの封じた心臓だ。鼓動を感じればすぐにそれと分かる。血まみれで横たわる藤本を見下ろしながら、メフィストは静かに囁きかけた。 「どうやらわたしの勝ちのようですね。残念です」 お前はあれを『人』として育てたかったのだろうが、所詮無理な話だったのだ。いつかは抑えきれなくなるだろうと思っていた。その瞬間が訪れたとき、お前がどのような手段に出るかが見ものだと思っていた。 が、そうなる前に、お前は逝ってしまった。こんな形で。『息子』などを持ってしまったばかりに。 賭けに勝ったというのに、こんなにも面白くないのは (あのときと同じだ) 今際の際に満ち足りた顔をしてみせた、あの男と。 なぜ勝者であるはずの自分が、こんなにもむなしい? 藤本の葬儀を終え、その墓標の前に立ち尽くす奥村燐の寄る辺のない後ろ姿を、見ていた。 これがこの世界に生まれ落ちた、サタンの落胤。これが。こんなもののために。 予想していなかったわけではない着信を受けながら、メフィストはついにその目の前に姿を現した。 「初めまして、奥村燐くん。わたしはメフィスト・フェレス、藤本神父の友人です」 こんなもののために死ななければならなかったとは。 藤本獅郎。お前はもっと、面白みのある人間だと思っていたよ 「あなたに残されている選択肢はふたつ。大人しく我々に殺されるか、我々を殺して逃げるか……おっと、自殺という選択もありますな? さあ、どれが一番お好みかな?」 せめて散るときくらいは、わたしを楽しませてくれよ。 だがこちらをじっと見据えた奥村燐が発したのは、彼の想定したどの台詞とも異なった。 「仲間にしろ!」 意味が分からず瞬くメフィストのことなど構わず、奥村燐は歯を剥いて一方的に捲くし立てる。 「お前らがどう言おうが俺はサタンとか、あんな奴の息子じゃねぇ! 俺の親父は……ジジィだけだ!!」 「……祓魔師になるということですか? それであなた、一体どうするつもりです?」 「サタンをぶん殴る!!!」 何を言い出すかと思えば。 ようやく思考の追いついたメフィストは、抑えることなく声をあげて笑い飛ばした。久しく、こんなにも笑ったことはなかった。サタンの息子が、祓魔師だと? 藤本。お前という奴は……ほんとうに。 「面白い! いいでしょう」 「ちょ、フェレス卿!?」 (ただしひとつ、条件がある) 思い出されたのは、あの日のの言葉だ。 (もし万が一、奥村燐が『人』として生きられなくなった場合……あなたが彼を殺して) もちろん、そのつもりだったさ。わたしはこの物質界が欲しい。その妨げとなりうるサタンの息子など、生かしておく義理はない。 が、気が変わった。どのみち藤本が死んだ時点でこの契約は破綻しているといっていい。わたしはそれ以上に、興味深い材料を手に入れた。 「ただし、あなたが選んだのは荊の道。それでも進むとおっしゃるのならば」 「俺はもう、人間でも悪魔でもない。だったら なるほど、これは面白い。 藤本、引き続き、お前との賭けを楽しむとしようか。 そしてお前の愛した女も、いつか必ず手に入れてみせる。 |