「上への報告は一旦保留にする。そいつを寮に帰してやれ」

大監房から出てきた霧隠シュラは、首根っこを掴んでいた奥村燐を猫のようにこちらへと投げて寄越した。はぐらついた彼の制服を乱暴に引き上げ、転びそうになったところを無理に立たせてやる。十五歳の少年の身体はずっしりと重く、両の脚がついていなければ一緒に転倒してしまうところだったろう。
燐はハッとしたようにこちらを仰ぎ見、の拘束を解いて慌てて距離を取った。

「ハッ。嫌われてんな」
「生徒にいちいち好かれなければならない理由が?」
「べっつに。ほらほら、さっさと連れてけ」
先生。兄は僕が連れて戻りますから……」
「どっちでもいーや。メフィスト、お前には今から話がある。部屋のほう案内しろ」
「喜んで」

双子の兄を引きずって奥村雪男が先に基地を離れ、次いでメフィストに導かれた霧隠が剥き出しの背中を見せて歩き出す。ひとり残されたは、その場で彼女の後ろ姿へと声を張り上げた。

「ヴァチカンから派遣された監察官なら、なぜ奥村燐の報告を保留にするんです。あれの炎を見たんでしょう。我々祓魔師の手に負えるものだとお考えですか?」

ふたりの歩みが、止まる。幾ばくかの沈黙を挟んで振り向いたあと、霧隠はくちびるだけで笑ってみせた。

「なら聞くが、、あんたもサタンの仔のことは知ってたはずだな。なぜヴァチカンに報告しなかった?」
先生は何度もそうしようとしましたよ。させなかったのはこのわたしです」
「お前に聞いてんじゃねぇよ、黙ってろハゲ」
「ハゲ……」

傷付いた顔をしたメフィストは無視し、霧隠の鋭い瞳がじっとこちらを見据える。自分にも分からなかった。けれどこうして張り詰めた空間のなか、ただ耳を澄ませているだけで聞こえてくるものがあった。

「藤本獅郎は奥村燐のために死にました。奥村燐を守ることができなければ彼の死が意味を失ってしまう」

言葉にした途端、胸の奥底にくすぶっていたわだかまりが少しだけ楽になったような気がした。メフィストは珍しく面食らった顔をし、一方の霧隠は隠しもせずに失笑する。

「ハッ、あんたも藤本信者か。くだらねぇ。奴はサタンの仔を武器と妄信して戦いから逃げたんだ。あの冷徹な、超一級の祓魔師が……もうろくして夢を見た、それだけのことだ」

冷徹な、超一級の祓魔師。
妄信して、夢を見ていたのはむしろ    

「な、なんだよ」

思わず見つめるに、初めて霧隠がたじろぐ。素知らぬ様子で眺めるメフィストには構わず、の唇は無意識にその言葉を継いでいた。

「あなたは……藤本の何を見てたの」
「んあ?」
「あなたは藤本の弟子って聞いてた。なのにあなたは、藤本の一体なにを見てたっていうの?」
    おい。何が言いたい」

険悪に眉をひそめる霧隠に、冷ややかに告げる。

「藤本は神じゃない。ましてや悪魔でもない。妄信して何でもできると信じていたのはあなたのほうでしょう」
「なに? お前こそ、何様のつもりだ。奴は最強の祓魔師・聖騎士だった、常に強さを求められるのは当然のことだろう。違うか?」
「彼は最強の祓魔師だったかもしれない。でもそれだけじゃないということは当然あなただって知っていたはず」
「奴がサタンの仔を隠し武器として育てていたことは不自然じゃないとでも言うつもりか?」

話が通じない。嘆息を挟んで次の言葉を探しているところへ、今の今になってメフィストの仲裁が入った。

「まぁまぁ、ここで藤本の話をしていても不毛です。またの機会にしませんか」
「ハッ。そいつと獅郎の話なんか二度としたくないね」
「それは結構。先生も、あまり熱くならないでください」
「……は?」

あんたにあれこれ指図される謂れなんかないし。
思い切り睨みを利かせると、メフィストは肩をすくめてそれを流すように笑った。

「あなたにとっての藤本はあなたにとっての藤本でしかない。それを他人に求めるのは酷というものですよ。彼が強さの象徴ともいえる聖騎士という立場であったことは紛れもない事実なのですから」
「………」

彼が最強の祓魔師であったことを否定するつもりは毛頭ない。力を持つ者の宿命として、時に手を汚すことさえ厭わなかったことも。
だからあのとき、藤本はそれを実行したのだと思った。信じたくなかった。だがそれはユリの友としての一感情でしかない。サタンに身体を使い捨てられた先の聖騎士に代わって、新たにその称号を賜った彼の初仕事としてそれを受諾したのだと。
けれど、ほんとうは。

「行きましょうか、シュラ」
「フン」

こちらを冷たく一瞥して去っていく霧隠とメフィストの後ろ姿が見えなくなってから、はようやく詰まっていた息を吐いた。わたしにとっての藤本。わたしの前での、藤本。
耳に響くのは、あの日のメフィストの戯言だ。

(もっとも、奥村兄弟の件に関してはあなたも無関係ではありませんがね)
(……どういうこと)
(『表向きには』ユリ・エギンの処刑執行が決定したあの日、あなた、藤本に泣きついたそうじゃないですか)

なんで、そんなこと。
子供のように、泣いて縋ったあの日。思い出すだけで顔から火が出そうになる。後先のことなど何も考えていなかった。ただ友を失うことだけが    愛する男がそれを為すことだけが、恐ろしかった。

(それが何なの。まさか、そのせいで藤本がユリを殺さなかったとでも言いたいの? わたしなんかの、泣き言のために?)
(ふむ……あなたは、自分が藤本獅郎という男にどれほどの影響を与えているか理解していないようだ)

意外そうに瞬いて、メフィストが広々したアームチェアからゆっくりと腰を上げる。思ってもみなかったことを聞かされて目を白黒させるに一歩ずつ近付きながら、彼はさらに言葉を続けた。

(彼の祓魔師としての実力は、世界的にもかねてより定評があった。無論あの性格ですから、常に賛否両論は付きまといましたが)
(……知ってる。わたしだってその評判を知ってたから、だから)
(そう。あなたは藤本の祓魔師としての立場を知っていた。とてもよく知っていた。にも関わらず藤本に対するあの不遜な態度……いやぁ、わたしもずいぶん驚きましたねぇ)
(それが何なの、クソ生意気なガキで悪かったわね。今さらそんなことほじくり返されたって)
(それが藤本にとってどれほどの救いとなるか、あなた分かりますか?)

とても背の高いメフィストが、傍らに立った。ただそれだけのことで圧倒されて、思わずその場から二、三歩後ずさる。彼が覗き込むだけで、ぞくりと背筋が寒くなった。

(彼は正真正銘の、最強の祓魔師ですよ。それが故に常に求められ続ける肖像がある。『あれ』はそれに応えられるだけの能力を持っています、ですが    誰だって、息抜きしたいじゃありませんか)
(それが……なんだって……)

反駁しようとしても、脳裏に次から次へとかつての藤本が思い浮かんで。
意識が目の前の男から離れたとき、不意に手首を掴まれて脇の壁へと背中から押し付けられた。
瞬時に冷えた鼓動のなかで目を見開くの、鼻先数センチのところで悪魔の道化がうっすらと笑った。

(藤本はわたしが認めた唯一の人間だ。その藤本を虜にした、わたしはあなたがほしい)

戦慄して冷えきった身体に、ゆっくりと熱が戻ってきた。馬鹿みたい。ほんとに、この男もわたしも。

(賭けをしませんか)

そっとこちらの手を放しながら、出し抜けにメフィストが切り出す。

(あなたの心が藤本にあるうちは、わたしはあなたに手は出しませんよ。ですがあなたの気持ちがこちらへと向くようなことがあれば、その魂ごとすべてをいただきます)
(……馬鹿じゃないの。その賭けに乗って、わたしに何のメリットがあるのよ)
(言いませんよ。藤本には決して    あなたの気持ちは)

一瞬、心を掴まれたような気にはなった。けれど、何を交わさずとも、この男は明かさないような気がした。

(それが脅しになるとでも思ってんの?)
(脅しだなんてとんでもない。これはゲームです。乗っていただけないようでしたら、『今ここで』あなたをものにしてしまうこともできるのですよ)
(……最低)
(自信がないのですか?)
(調子に乗ってんじゃないわよ。あんたみたいなの、わたしだいっきらい)
(それは結構。そのほうが賭けの甲斐があるというものです)

何を言ってもいつも、悠然と構えて。
だがその暗い瞳は一寸の隙もなくこちらの視線を捕らえて離さなかった。

糸でも切れたように吹き出して、は笑う。

(物好きね)
(よく言われます)
(いいわ、乗ってあげる。ただしひとつ、条件がある)
(何なりと)

閉じていた目を再びひらいたとき、の視界には正十字学園地下、騎士團日本支部基地の物々しい造りが映った。胸に掲げた紋章に触れて、自らに言い聞かせるように唱える。すべては騎士團のため。これを受け取ったそのときに覚悟した。 藤本のようにならなければいけない。時には命さえ手にかけなければならないのだと。
その藤本はもういない。世界中で最も強く、最も優しい男は息子を守るために自らを捧げた。
だからわたしは、彼が炎を制する術を会得するまで    何があっても。

神に祈るなんて、柄じゃない。ただ胸の紋章だけに誓いを立てて、はひとり残された回廊をあとにした。
バベル
Спорь до слёз, а об заклад не бейся
写真素材(c)mizutama
(11.10.13)
Спорь до слёз, а об заклад не бейся(泣くまで議論しろ、だが賭けはするな)