「知ってたの? 藤本がサタンの仔を秘密裏に育てていると」
「ええ、まあ。彼の『悪魔の心臓』を降魔剣に封じたのは他でもないこのわたしですから」

臆面もなく言ってのける道化風の男に、舌打ちしながら視線を突き刺す。メフィストは広いデスクに肘をつき悠然とこちらを見返すばかりでそれ以上何も言わないので、引き結んだ唇を再び上下へひらいた。

「どうしてそんなこと……ユリ・エギンの処分は受胎が確認された直後にヴァチカンで決まったはずだった」
「表向きは、その通りですね」
「表向きって……ちょ、待ってよ」

まさか。まさか、わたしはそんなところから。
突如として聞かされた事実に混乱するのことなど構わず、メフィストは淡々と言葉を続ける。

「藤本が三賢者を説得し、処分を保留させたのですよ。悪魔の生ませた仔が物質界で天寿を全うした例は過去に少なくない、サタンは前例がないというだけで、その可能性を切り捨てる理由もないと」
「……じゃあ、ユリは? ユリはどこにいるの、あの子供のことは、ヴァチカンも把握してるのね?」
「ひとつずつお答えしましょう」

腹が立つほどのんびりとした口調で、メフィスト。紫色の手袋に包まれたその長い指を、まずは一本だけ立てて、告げる。

「ひとつ、ユリ・エギン下二級祓魔師は出産と同時に亡くなりました。我々が看取っています。元来サタンの干渉した物質は心身共に多大なる損傷を受ける、出産まで彼女はよく持ちこたえましたよ」

まるで天気の話でもするかのように、気楽に。今すぐこの男の心臓を抉りたいという衝動を押さえ込んで、は呼吸を宥めながらふたつめの回答を待った。

「生まれた双子のうち、ひとりはサタンの青い炎を継ぎ、ひとりは炎を受け入れられなかった。青い炎を抑える術は『我々』物質界にはない、即座にヴァチカンより処分の命が下りました」
「……その命に背き、あなたが悪魔の心臓を封じた。サタンから産み落とされた上級悪魔のあなたになら可能ってわけね、なぜそんな真似をしたの」

怪しく微笑むメフィストの瞳に差す影が、よりいっそう深くなる。そしてやはり緩慢な動きで両腕を広げながら、何かに魅せられたかのように天井を仰いだ。

「だって、面白いじゃありませんか。藤本は言ったんですよ、『人』の子として育ててみせるとね。 ククッ……サタンの炎を受け継ぐ悪魔が、いくら心臓を封じたといえ、果たして物質界に馴染むことができるのか? 何事も起こらず『死』を迎えることができればわたしは負けを認めましょう」
「……ゲームか何かのつもり? あなたが望むという『物質界の平和』を脅かしてまで?」
「わたしは藤本の賭けに乗っただけですよ。言いたいことがあるのなら彼に言ってはどうです? 知らない仲ではないでしょう。わたしなどよりずっとね」

含みを持ったその物言いに、隠すことなく歯噛みする。先ほど修道院で目の当たりにした藤本の顔を思い出して、血がにじむほど拳をきつく握り締めた。
もう二度と、わたしがあの男に問いかけることはないだろう    決して。

だって。
わたしが知っているあいつのままだって、知ってしまったから。
だから。

「お前さ」

その頼りない背中を、ただ呆然と見つめる。

「親父が大好きだったんだろ? だから、ただ悲しかっただけなんだよな」

やめて。
あなたのせいですべてを失った。
それなのに、どうしてその背中にあいつの後ろ姿が見えるの?

「俺もお前と一緒なんだ。仲直りしようぜ」

理由なんか分かってる。
あいつが十五年もかけて育てた    命を懸けても守ろうとした、息子だったから。
どうやって憎めばいいかなんて、分からないよ。

先生?」

上二級の新巻にかけられた声を無視して、は早々に南裏門を離れた。これ以上は見ていられない。
今はただ、痛いほどに藤本の気持ちが分かるから。

(分かるって……言わせてよ)

ずっと好きだった。疑ったことなんかなかった。
だから許せなかった。すべてをひとりで抱え込もうとする藤本のことがどうしても許せなかった。
何でも話してほしかったなんて、そこまで思い上がってはいない。
だけど。

「ねえ。面白い男でしょう、奥村燐は」
「最悪。悪魔に頭突きなんて、この三ヶ月なにを学んできたのよ」
「型通りの戦い方など弟に任せておけばいいではありませんか」
「型のない人間にできることなんて限界がある」
「では、型さえあれば不可能なことなどないと?」
「揚げ足を取らないで。あなたのそういうところ、大嫌い」
「恐縮です。が、これが性分ですから」
「最悪」

心が揺らいだそのときいつも、ふらりと現れては傍らに立つ男。それは文字通り、人の心の空隙に巣食う悪魔か。それとも。
どうせ使い魔かなにかに監視させているだけなのだろうけど。

「どのみち手に負えないのなら、このさい型など問題ではないじゃありませんか」

先ほど離れた南裏門のほうをふと振り返ったメフィストが、独り言のような声音でささやく。は思わず足を止め、その白い横顔にじっと見入った。

「なにか?」
「……べつに」

少し、驚いただけだ。物質界に留まり続ける最上級悪魔、かつ悪魔祓いの世界的組織『正十字騎士團』の上一級祓魔師。ただそれだけを聞けば、存在だけでも型破りこの上ない。
が、実際のメフィスト・フェレスというこの男はどこかで定石というものを守っているような節がある。少なくともは、そういった心証を持っていた。

(全部、そうやって着実に築いてきたものなんでしょう?)

彼の消えた大通りを、振り向き様に眺める。この学園も、いや、正十字と名のつく広大な街さえもすべて。
人間は何も知らずにただその手のひらで踊ってきた、と?

踊らされてきたというのならそれでもいい。それを許せないほど思い上がってはいない。けれど。
わたしに許せないことがあるとすれば    
バベル
Как волка ни корми, он все в лес смотрит
「あの女、なに?」

夏でもほぼ例外なく指定コートを身にまとう者の多い日本支部において、あの無意味な露出の多さ。
目を引くその人物まではまだかなりの距離があったが、それでも隣に立つ同僚の柘植は、慌てた様子で声をひそめた。

「ばか、ヴァチカンの上級祓魔師だよ。まだハタチにもなってないらしいぞ」
「ハッ……それはそれは、ご立派なことで。そんなエリートが何でまた日本支部に」
「なんだおまえ知らないのか? 藤本先生の弟子って話だぞ。たまに顔見せに来てる」

曖昧に浮かべた薄ら笑いさえ、嘘のように引いていった。知らないことが多いのは当然だ。教え子が自分だけではないことなんて、分かりきってる。この柘植だって数多いそのうちのひとりだ。 が、あの女は明らかに騎士團日本支部の祓魔塾出身者ではない。
落ち込んでいる自分に気付いて、胸中で吐き捨てる。何様なんだ、お前は。もう、忘れたはずだった。

「おい」

後ろから呼び止められ、さらに三歩動いたところでようやく立ち止まった。
振り向きはしない。その顔など、もう二度と見たくもない。

「お前、次の認定試験受けんのかよ」
「それが何?」
「ここんとこ授業も全然顔見せねぇじゃねーか。そんなんで大丈夫かよ」
「どうせ自由参加じゃない。自分のことくらい自分で何とかやってるわよ」
「あのなぁ……もともと苦手な薬学だろ、自力でどうにかできんのかよ。何のために卒業生も受け入れ可能になってると思って    
「天下の聖騎士様が気にかけるようなことじゃないでしょう。もうわたしに構わないで」

背中の後ろで、藤本が息を呑むのが分かった。何も聞こえずとも、すべてのことが分かった。
わたしだってつらい。あなたはきっと、もっとつらい。

「急ぎますので。失礼します」

足早に立ち去るわたしの胸元には、すでに正十字の紋章が輝く。
それが最後だった。最後だと思った。
修道院の前で、ユリの眼をした幼子を見るまでは。

奥村雪男    その成長した姿が、今わたしの目の前に立っている。

「なにか?」
「……べつに」

彼女に出会ったのは、ちょうどわたしたちがこの少年と同じ年の春だった。
遠い、遠い昔のことだ。

正十字学園遊園地における、霊の捜索任務。たまたま鉢合わせた奥村雪男と再び別れようと背中を向けたところで、不意に足元が揺らいだ。

「地震!?」

声をあげた雪男が瞬時に腰を落として周囲を確認するが、の意識はすでに一方向へと向いていた。大地はまだ、盛大に震えている。
治まりきらないうちに飛び出すの背中に、奥村雪男の悲鳴が届いた。

先生!」

待っている暇はない。常に数匹は使い魔として飛ばしている風狸の形跡をたどり、はボロボロになったジェットコースターの袂へとたどり着いた。雪男もそのすぐあとを追ってくる。
そこにいたのは顔面傷だらけの奥村燐と、杜山、そしていつも目深にフードをかぶった、一見みえないところで良い働きをこなす山田。
その山田が、駆けつけたたちを見て悠々と笑ってみせた。

「遅ぇんだよ。おい雪男、お前がもっと早く来ねぇからこっちが動くハメになったろーが」

何なの、こいつ。いつもゲームばかりで他の塾生とまともに口を利きもしない山田が、急に手のひらでも返したように。
だが呼びかけられた雪男のほうは、心当たりがあるようだった。

暗いパーカーの裾に突然手をかけた山田が、あっという間にそれを脱ぎ捨てる。
現れた肢体にはも見覚えがあった。

「あたしは上一級祓魔師の霧隠シュラ。日本支部の危険因子の存在を調査するために正十字騎士團ヴァチカン本部から派遣された、上級監察官だ」
写真素材(c)mizutama
(11.10.11)
Как волка ни корми, он все в лес смотрит(狼はどんなに飼いならしても森ばかりを見る)