「……中佐?」 「おまえ……………………外人だったの?」 「えっ?」 ちょっと待って。瞬間、最悪の可能性が脳裏をかすめ、どっと嫌な汗がふきだした。 「中佐、ご存知なかったんですか?」 「いやぁ……変わったやつだとは思ってたが、まさかそんなまるっきりの外人たぁな……」 「だ! だって少佐から、話は聞いてるって!」 「俺が聞いてたのはお前が頭も腕も立つってことだけだよ! 士官学校時代は調子が振るわなかっただけでほんとはできるやつだって自分は知ってるってな。試しにそばに置いてみたらどうだって」 「そ、そんな……」 何も知らない人間に、自分の出自を話してしまった。自分は本来、ここにいてはいけない人間だ。それを、みすみす暴露してしまった。おしまいだ。いくらこの人でも だがヒューズは、不意に表情をゆるめて力なく微笑んだ。毒気を抜かれて、は上官の視線がその足元に落ちるのを見ていた。 「そうかそうか……おまえシン人だったか。道理で、おかしなやつだと思ったよ」 「中佐……」 「そんじゃ、ついでに俺の話も聞いてもらおうか」 咎める様子などまるでない。ただ単純に、驚き、そして合点がいったとでもいうように。ヒューズはこちらを見なかった。膝の上で組んだ自分の両手を見つめながら、静かに話しはじめた。 「俺はもともと中央の人間だが、親父と折り合いが悪くて早くからうちを飛び出した。俺が軍人を目指したのもそもそもは自活するためだ、志なんてなかった。 だが士官学校で知り合った同期がなかなか青くさいやつでな、大真面目にお堅く美しい理想なんか語りやがる。恥ずかしいことに、感化されちまったよ」 クッ、と、可笑しそうに笑う。は上官がその同期のことを心から認めているのだと分かった。 その笑みをすぐに消し去って、ヒューズ。 「士官学校を出て、すぐ中央司令部に配属された。あのキング・ブラッドレイのお膝元だ、平和なもんだ。ぬくぬくと生きてたと思うよ。だが卒業後何年か経って、中央の俺たちも戦地に借り出されることが決まった。 イシュヴァールだ。圧倒的に人手不足だった。上の馬鹿な指揮官のせいで次々死んでくもんだからな」 ヒューズが殲滅戦に参加していたことは、記録から知っていた。だが彼の口からそのことを聞かされるのは初めてで、とても、胸が騒いだ。多くのイシュヴァール人が死んだ。 そして、また、アメストリス人も。 「最終学年で西部の戦地に行ったことはあったけどよ、あそこまでひどい戦いは初めてだった。見渡せば死体の山、山、山……俺の隊も、数え切れないほどの連中が死んでったよ。 あんなに自分の無力さを思い知らされたことはない。民族が違うっつっても、同じ国の、国民を殺して。自分の部下さえ守ってやれなくて。何のための武器なんだ、何のための戦いなんだ。 前線で士官学校の同期にも再会したよ。あんなに目ぇキラキラさせてた純朴なやつが、すっかり人殺しの目になっちまってた。俺も同じだ、みんな同じだ。それでもあいつは、理想を語ることをやめなかった。 正義もくそもない、血まみれの戦場を経験してもなお。ゴミみてぇな俺たちも、ほんの一握りを守ることくらいはできる。今は逆に、それくらいのことしかできねえ」 上官の話を、黙って聞きながら。胸が締め付けられるようだった。ヒューズだけではない。きっと誰もが、悩みながらも引き金を引いて。 それでも事実、多くのイシュヴァール人が命を落とした。中にはわたしの知る人間もいたかもしれない。ひょっとしたら、殺された者の中に、あの人もいたのかもしれない。 分からない。そんなことは、きっと分かるはずもない。わたしにできることはただ、信じることだけだ。 そして同様に確かなことは、恐らくそのときと同じ思いで、この人がわたしを守ってくれたということ。 その事実は一生、変わることはない。 「焔の錬金術師を知ってるか?」 ようやく顔を上げたヒューズに問われ、は身体をこわばらせた。知らないはずがない。多くの国家錬金術師が殲滅戦に投入された。その中でも、圧倒的な力を見せつけ、多大なる戦功をあげた若き士官。 「奴は俺の士官学校の同期だ。昔っから馬鹿みてえにまっすぐな野郎でな。戦場で現実に打ちのめされてたが、それでも前を向くって決めたんだ。ゴミはゴミなりにできることがある。 そのゴミがこの国丸ごと守るには、この国のてっぺん目指すしかねえよなって」 「……………、えっ?」 この国の、てっぺん。 それって、もしかして。 口をあけて固まるを見て、ヒューズは疲れたように口角を上げてみせた。 「焚きつけたのは俺だが、奴にはそれだけの力も信念もある。あいつの青くさい理想がこの国を作り変える様を見てみたい。二度とあんな理不尽な戦争を起こさなくていいように。 俺はあいつがこの国の頂点に立てるなら、何でもやってやると思ったんだ」 それって、つまり。 あのキング・ブラッドレイを玉座から引き摺り下ろし、焔の錬金術師、ロイ・マスタングが大総統の地位に就くということか。 そんな危険な話を、この人は。心臓が否応なくやかましく脈打ちはじめた。 ヒューズの眼差しは苛烈な戦場を生き抜いた強い戦士のものだ。だが確かに、美しい色を宿しているとはそのとき思った。 「だから俺はあいつが目的を果たすまで可能な限りのサポートをする。そのために会議所にいる。ここには国中のあらゆるデータが集まってくるからな」 「……それを、わたしがもし、上に話したら。マスタング大佐はもちろん、あなたも反逆罪ですよ。大切な家族を路頭に迷わせることになると、お考えにならなかったのですか?」 「ハッ! 密入国者のお前が言うか?」 心底おかしそうに声をあげて笑い、ヒューズ。あまりの正論に口ごもるを見て、彼は不意に優しく目を細めた。ゆったりと腕を組んで、言ってくる。 「バラさねえよ、お前は。そうだろ? 俺を信用に値するとみなしたから秘密を打ち明けた。違うか?」 「それは……あなたは、ご存知だと思っていたから。でも改めて、自分の口からお伝えしたかったんです」 「同じだよ。俺だって自分の身は可愛い。信用できねえ人間にこんなことは絶対に話さねえ」 「……あなたが可愛いのは、ご自分ではなく、周りの人間のほうでしょう」 言って、逃げるように目を逸らす。心を許すつもりなんて、なかった。この国でそんなことは、決してできないと思っていた。アメストリス人が憎い。彼らを滅ぼした軍人が憎い。 だからあえて内側に飛び込んで、何かを変えたいと願った。願っただけだった。 けれども現実は、目の前の雑務に追われるばかりで。 会議所への異動を承諾したのも、自分の秘密を第三者に漏らした でも、全部。全部、全部。 甘ったれた、子どもの考えでしかなくて。 ああ、あの憎らしい、クーロンの言うとおりだ。 実際にこの軍服を着て、アメストリス人と仕事をしていくうちに。もちろん、どうしようもない人間も腐るほどいる。軽蔑する上官の、なんと多いことか。だが決して、それだけではなかった。 現にこうして、進んで自分のことを話したいと思える上司に出会えたのではないか。 とっくの昔に、気付いていたはずだった。 続いて聞こえてきたヒューズの声は、実に、静かなものだった。 「少佐の人の良さに付け込んだな?」 「……はい」 「それがどういうことなのか、自覚はあるな?」 「……はい」 「ならいい。使えるもんは何でも使う。俺たち軍人には必要なことだ。それができねえやつは戦場には向かねえからな」 「………」 だからアームストロングは、戦場にはいられなかった。 あの人は、優しすぎるから。 だから時には、進めなくなってしまうことがあるだろう。 父も、故郷の旧友も。それでは生きていくことができないから。 程なくして、後部のヒューズが口にしたのは、にとって突拍子もない提案だった。 「なあ。正式に俺の補佐官にならねえか?」 「……… は?」 「ま、ぶっちゃけもう実質的には似たようなもんだけどな。上には俺から推薦状出しとくから、辞令が届いたら適当に取っといてくれよ」 「はい!? そんな、無理です! わたしデスクワーク向きじゃないって言ったじゃないですか!」 「馬鹿言ってんじゃねえよ。この半年でお前がただの筋肉オタクじゃねえことなんてとっくに分かってら。少佐の見立てどおり、頭も腕もなかなかのもんだ」 「買いかぶりです! それに、大尉たちを差し置いて、わたしのような新米が佐官の補佐なんて、そんな馬鹿な話……」 だが慌てふためくの言い分を、彼はあっさりと一蹴した。 「知ってるか? ロイの補佐のホークアイ中尉。あの子がマスタング『中佐』の副官に任命されたのは卒業直後だぜ?」 「……よっぽど優秀な方だったんでしょう。一緒にしないでください」 「お前だって格技選手権で優勝したろ。謙遜も度が過ぎれば嫌味ってな」 「ああ言えば! こう言う!! 第一、そんなもの……何の役にも立たないって、つい先日、証明されたばかりじゃないですか……」 今でも鮮明に、思い出すことができる。 鈍い銃声と、通りの陰から倒れ込む人影。そちらに銃口を向けた上官の、必死な形相。 死ぬまできっと、薄れることもない。 やれやれと息をつき、まるで聞き分けの悪い子どもでも相手にするようにして、ヒューズ。 「あの場面じゃ役に立たなかったってだけだろ。お前の体術はいつか必ず役に立つ。信じろ。少佐の技が一度も実戦で役立たなかったとでも思うのか?」 「……いえ。そのようなことは、決して」 「それにお前の情報収集力、推論の立て方は一般人の域を超えてる。よくもまあ何の手がかりもない十五足らずの外国からのガキが少佐までたどり着いたな?」 「それは……結果論で……」 「これ以上反論は許さねえぞ」 ぴしゃりと切り捨てて、ヒューズは表情を険しくした。声のトーンもひとつ、下がったような気がする。 「お前、殲滅戦の直前にイシュヴァールにいたんだろ?」 「……はい」 「あそこは俺たちにとって、現実を思い知らされた特別な場所だ。何も知らねえガキだった俺たちが語り尽くした未来なんてどこにもありゃしなかった。 それでもあいつは理想を語ることをやめなかった。俺はあいつに懸けるって決めたんだ。あのとき、あの場所で誓ったんだ、何があってもこいつを大総統にしてやるって。 こいつならいつか、この国を『美しく』塗り替えることができる」 心から、信じている顔だった。疲弊しきっている、その中でも。輝きを決して、失ってはいない。 この人に出会えて、本当に、良かったと思った。 「お前は短期間とはいえあそこにいたんだ。イシュヴァール人の生きた日々を知ってる。さっきの提案は俺が純粋にお前の腕を買ってるってのもあるが、でもそれだけじゃねえ。 イシュヴァールを直接知ってるお前が、見ててくれ。二度とあんな戦場を生まなくていいように。俺はここからあいつを支える。あいつが大総統の地位に就くまで、中央からあいつを支える。 俺の片腕になってくれ、少尉。何年かかっても、必ずこの国を変えてみせる」 「………」 国軍を許すことは、決してできない。自らがこの軍服に身を包んだ今でも、その思いが変わることはない。彼らを根絶やしにした国軍を、わたしは死ぬまで恨みつづけるだろう。 彼の笑顔を、わたしはきっと死ぬまで忘れることができないから。 でも、それでも。わたしは、この人に出会えたから。 「……はい。承知しました。謹んでお受けいたします」 「やっと言ったな! まったく、お前もロイも頑固で困るぜ!」 満足げに笑いながら、ヒューズはこちらの肩を軽く叩いた。たったそれだけのことで、は胸の中に、不思議と温かいものが流れ込んでくるのを感じた。 焔の錬金術師、ロイ・マスタングがどういった人間なのか、わたしは知らない。 彼の語る人物像を鵜呑みにすることは容易い。けれどもそれでは、いけない気がした。 イシュヴァール人を殺したのは、当然、マスタングだけではない。数え切れない軍人たちがその命を奪っただろう。目の前のマース・ヒューズもそのひとりだ。 けれどもやはり、大量破壊兵器として戦場に送られ、圧倒的な力を振るった国家錬金術師たちに対する感情は、単純に割り切れるものではなかった。 いつかお前にも引き合わせてやると、彼はそう、言ったけれど。 そんなことは彼女にとって、どうだってよかった。 (わたしが信じるのは、あなただけ) 幼い頃から共に過ごしたユーシャンは、ヤオを守る一族の末裔として、若君と過ごす時間が多かった。そしてもまた、奥方様の意向で、皇子の話し相手として部屋に呼ばれる機会に恵まれた。素直な人だった。そして何より、幼いときから民を思う心を持っていた。 ヤオを離れる前、思い切って尋ねたに、ユーシャンは淀むことなくこう答えた。 「俺があの人を守る理由はただひとつ。俺があの人を慕ってるからだ」 ねえ、ユーシャン。わたしも、やっと分かったよ。 守るべき人だから。だからではない。何に代えても守りたいと、そう、思える人だから。 焔の錬金術師が大総統になろうがなるまいが、そんなことはわたしには関係がない。 ただこの人を、慕っているから。 この人の望みを叶えるためならば、何でも賭したいと心から思う。 そしてこの国が大きく変わるのだとしたら、それをこの人のすぐそばで見ていたい。 この人は、周りの人間のために命を懸けられる人だ。 だからそんなあの人を、わたしが何に代えても守る。 それ以外に、わたしのなすべきことなんてない。 マース・ヒューズのいない世界で、ひとり、ぼんやりと、空を見上げる。 木々の切れ間から落ちる夕日が、すでに薄暗く、彼女の瞳をひっそり潤ませていた。 |