やっぱり    そうだ。棚にぎっしりと並ぶ資料の背表紙をそっと指でなぞりながら、独りごちる。わたし以外にも、この書庫を利用している人間がいる。
プライベートルームではないのだから当然と言われるかもしれないが、ここはかなり古い資料を扱った三番書庫であり、軍法会議所でも、二、三ヶ月に一度使用すればいいほうだ。
数回は、たまたまだと思った。だがこうも、回数を重ねられれば。

(どうして?)

彼女はまだ勤務一ヶ月の新人であり、そもそもが事務採用だ。こんな使用頻度の低い書庫を整理している暇があるのなら、他にこなすべき仕事は山ほどある。

(それとも何か……目的が?)

考えたくはないが。あのエルリック兄弟に見出され、ヒューズが会議所に引っ張ってきた彼女が、もし仮に何らかの目的を持っていたのだとしたら。
純朴そうな顔をして、それがもし鉄壁の仮面だったとしたら。
だが程なくして、自分の考えに呆れかえる。

(まさか、ね)

本という本すべてを愛する彼女は、資料の揃え方も他の人間とは明瞭に異なる。どこかの間者であれば、その分かりやすいやり方で、あえて痕跡を残したりはしないだろう。
悩んだ挙句、はある朝、軍法会議所の廊下で急ぎ足の彼女を呼び止めた。

「ねえ、シェスカ」
「あ、少尉、おはようございます!」
「おはよう。ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、三番書庫の    

言いかけた矢先、シェスカの顔色がさっと青くなった。

「あ、あの! ごめんなさい今そのものすごく散らかしててそれであの申し訳ないんですけどもあとにしていただけないですかごめんなさいほんとにすみません!!!」
「……わたしまだ何も言ってないんだけど」
「えっあ、あ、その、書庫、使われるってことじゃ……?」
「今、使ってるわけ?」
「いえ!! とんでもないです、でもあの! 昨日ちょっと整理してたんですけどあのその散らかしたまま帰ってしまってそれであの、今とにかくひどい状態なのでできればあとにしていただきたくてその!!!」
「……昨日はわたしが定時から九時まで使っていたんだけど?」
「えっ……、あ!!!」

墓穴を掘ったと気付いたらしい。青ざめた顔で冷や汗をかきながら、シェスカは沈黙してしまった。
どうやら今、見られては困るものが三番書庫にあるらしい。
有無を言わさずそちらに向かおうとしたの腕に、ほとんど涙混じりのシェスカが泣きついた。

「少尉! ごめんなさい、その……ほんとにごめんなさい、でも、お願いです、今は……今は、勘弁してください、お願いします……」
「………」

まったく、こんなところで泣かれては人目を引いてしまうではないか。
彼女の背にそっと手を回し、は小声でささやいた。

「分かったから、ついてきなさい」
「え、あ、はい……」

まだ緊張した様子の彼女を連れて、書庫とは反対方向へと歩き出す。
中庭から吹き込んできた晩夏の風が、シェスカの抱え込んだ書類の束を波立たせて流れた。
ロイ・マスタング。アメストリス国軍大佐。つい先日、東部から中央へと赴任してきたばかり。
国家錬金術師、『焔』を操る妖術使い。イシュヴァールに関わる人間であれば誰もが知っている、『英雄』。
    殺戮者。

久しぶりに定時に上がったは、アパートとは反対方向のとある公園へと立ち寄っていた。外はまだじゅうぶんに明るい。子どもたちの無邪気な笑い声も聞こえてくる。
そこはマース・ヒューズの自宅にほど近い、小さな公園の一角だった。

(何やってるんだろ、わたし)

会議所内に置かれていたヒューズの私物を整理し、遺族のもとへと送り届けて。以来、家族とは会っていない。だがこうして時々、自然とそちらに足が向いてしまうのだった。
仕事は、滞りなく、進めている。新しい上官は、ヒューズほどではないにせよ、必要な仕事はそれなりにこなす人間だ。むしろ口うるさく焚きつける必要がない分、手がかからないと言っていい。
だが、それでは、意味がない。

(わたしは……何の、ために)

何のために、会議所に移ったのだろう。一体なんのために、この一年、走り続けてきたのだろう。
全部、あの人を支えるためだった。

(何年かかっても、必ずこの国を変えてみせる)

信じた。あの人だから、信じられた。
ただひとりの部下を守るために、全力を懸けられる人だから。
勝手に無茶をしたただひとりの部下を、本気で叱ることのできる人だから。
信じて頼れと、腹の底から怒鳴ってくれた人だから。
あの日、あのとき、あの人が殺さなければならなかったのは、わたしの、せいだから。

「あーあー、あとで上にも憲兵にも報告書出さねぇとな……」

拳銃をホルダーに仕舞いながら、ヒューズは、何でもないことのように言ってのけたけれど。
何でもないわけがない。この人は、本当は、とても、優しい人だ。平気で人を殺せる人じゃない。
わたしが、独断で。迂闊な行動を取らなければ。
射殺は已むを得なかったと、後日、憲兵からも正式な見解が届いていたけれど。
わたしがひとりで、勝手なことをしなければ。
覚悟が足りなかった。この国で、軍人として、生きていくための覚悟が。

「中佐。聞いていただきたいお話があります」
「ん? なんだよ、あらたまって」

出張帰りのヒューズを駅まで迎えにいった車内で、は静かに語りはじめた。

「もうご存知だと思いますが、わたし、シン国の人間なんです」

後部座席に乗っている上官の表情は、ミラー越しにもちょうど見ることができない。滅多に運転することのないハンドルを慎重に切りながら、は滔々とつづけた。

「正確にはシンとアメストリスのハーフですが。母は旅先のシンで、縁あって皇族の奥方と出会いました。そのままひどく気に入られて、居座ることになったそうです。父と出会ったのもそのときでした」

街の中心に近付くにつれ、道もやや混雑してくる。信号待ちの列の後ろにつけて、ハンドブレーキを上げた。

「父は代々皇族の護衛を務める一族で、わたしも自然と高貴な方々のそばで育ちました。不自由はありませんでしたし、そのままその街で暮らしていくことに、何の疑問も持っていなかった。 でも十五歳のある日、母のもとに、一通の知らせが届きました。祖国アメストリスの、東部内乱の知らせでした」

車の列が動きはじめる。再びブレーキを下げて、ゆっくりとアクセルを踏む。

「もともと治安は良くなかったそうですが、東端のイシュヴァールというところで国軍と先住民族が大きく衝突したと。母の故郷は、そこからそう遠くないヘルトルという町でした。 両親と喧嘩別れをして飛び出したそうですが、もし彼らに何かあったら、そのとき自分は、悔やんでも悔やみきれないと。そして帰国を決意したんです」

周囲は猛反対した。勝手すぎる。だから殿舎に入れるべきではなかった。けれども奥方様は、一切聞き入れなかった。キーラの人生だ、好きに生きればいい。

「出国の際、申請していた滞在期間を母は優に過ぎていました。正規ルートではその手続きに時間がかかります。一刻を争う。だからわたしたちは、商人の助けを借り、イシュヴァール経由で入国しました。 そのときはまだ殲滅戦の前でしたから。ヘルトルまでのルートを検討する短期間だけでしたが、わたしは確かに、イシュヴァールにいました」

掠れてしまった声をごまかすように、は少しだけ声量を大きくした。

「すでに国軍による死傷者が多く出ていました。生々しい彼らの声をじかに聞きました。正直、国軍に対する嫌悪感を抱くにはじゅうぶんな時間でした。わたしは彼らに、逃げようと言いました。 一緒に行こう、逃げ延びる道はあるはずだと。彼らは、なんと言ったと思いますか? ここが、自分たちの居場所なんだと」

あの地がすべて、焼き尽くされてしまった今。
どこにいるかも、分からない。それどころか、その、生死さえも。

「わたしたちは何とか国軍の目を掻い潜ってヘルトルへたどり着きました。でも、もう遅かったんです。母の両親は、すでに帰らぬ人となっていました。 イシュヴァール人による放火に巻き込まれて、命を落としたそうです。母はイシュヴァール人を恨みました。そして失意の中、亡くなりました」

もともとそこまで丈夫ではなかった母が、砂漠越えで無理をした挙句、両親を悪意によって奪われていたという衝撃。持ちこたえられるはずがなかったと、今ならば、思う。

「でもわたしは、イシュヴァール人を憎むことはできない。会ったことのない祖父母より、差し迫った状況下で共に過ごしたイシュヴァール人に対してのほうが思いは強いです。 それからすぐに殲滅戦がはじまり、わたしは彼らが皆殺しにされたことを知りました。この国でたったひとりになって、どうすればいいか分からなくて。しばらく当て所なくさまよったあと、思いついたのは、自分が国軍に入ることでした」

ヒューズは何も言ってこない。も前を向いたまま、淡々と、先をつづける。

「理由はいくつかあります。まず現実的に、先立つものがなかったから。国で不自由のない生活を営める程度には融通してもらっていましたが、母が亡くなったとき、最低限のことはしてあげたかったですから。 手元に残ったのは僅かなものです。国軍の給料はかなりいいと聞いたもので。そして何より    何もできない自分が、どうしようもなく、歯がゆかった」

思わず昂ぶってしまった感情を、何度かゆっくり呼吸することで、和らげる。母を守ると、約束したのに。弱っていく母を、ただ心細い思いで見ているしかなかった。 そしてあの灼熱の地で、語り合った褐色の人たちを。彼らが滅ぼされると分かっていて、何もできずに逃げ出した自分がどうしても許せなかった。

「わたしは戸籍のない自分が軍人になる方法を必死に模索しました。結果、自力でその手段を得ることは不可能と判断しました。誰かの力を借りなければならない。でも、その伝手があるはずもない。 調べていくうちに、わたしは、ある軍人にたどり着いたんです。それがアームストロング少佐でした。彼のイシュヴァールでの噂を耳にしたんです」

司令部までは、あと五分もかからない。それでもは、話をやめなかった。

「『人間兵器』として戦場に送られた国家錬金術師であるにも関わらず、軍令に反して帰還。戦うことを拒否。この人であれば、わたしを軍人にすることができる、 この人でだめならば、望みはどこにもないと直感しました。そしてわたしの読みは当たりました。イシュヴァールを知っている自分が、だからこそ軍人になりたいと話すと、 あの人は戸籍を用意してくれました。士官学校の資料も揃えてくれました」

でもそれは、おんぶにだっこだった。優しすぎるアームストロングを利用して、すべてを頼りきっていた。自分ひとりでは所詮、何もできやしなかった。

「力がほしかった、何かを成し遂げられるようになりたかった。力があれば大切な人たちを守ることができた、自分が非力だからすべてを失った。覚悟はできていたつもりでした。 でも本当はずっと、甘えていただけだったんです。士官学校に入ったあとも、卒業したあとも。あの人が気にかけてくれていることは分かっていました。そしてそれを、疎ましくさえ思っていた。 子どもだったんです。ひとりでは何もできやしないのに」

タイミングよく、中央司令部が見えてきた。守衛に許可証を見せて、西門から乗り入れる。会議所にほど近い場所に車を停めて、はエンジンを切った。

「わたし、これからは射撃の訓練に努めます。強みがひとつあれば、それでいいと思っていました。でも違った。浅はかでした。 銃器が普及しているこの国で、拳銃さえ使えないということはただそれだけで大きく後れを取ります。突出することはできなくても、せめて人並みには扱えるように努力します。お約束します」

キーを抜き、シートベルトを外して。いつまで経っても上官から反応がないので、怪訝に思ったはそこで初めて後部座席を振り返った。
ヒューズは普段切れ長の瞳を、これでもかというほどに見開き、呆然とこちらを見ていた。
意外な反応だった。

「……中佐?」
「おまえ……………………外人だったの?」
「えっ?」

ちょっと待って。瞬間、最悪の可能性が脳裏をかすめ、どっと嫌な汗がふきだした。
写真素材(c)NOION
(13.08.28)