大総統はときどき、ひょんな思い付きから軍部を振り回す。 今回の実技選手権もそうだ。もっともこれは、なかなか実戦に恵まれない(その善し悪しは別として)中央司令部に勤める、取り分け若い世代の士気を高めるのが目的ということで、 執務室の連中を何人か送り込んでおけば事足りるのだが。 「中佐は出られないんですか?」 「俺に実戦不足っつってんのか?」 「……とんだご無礼を」 ばつの悪い様子で目を伏せるフォッカーに背中を向け、マースは読んでもいない資料の次の頁を繰った。背もたれにぐっと深く身体を預け、目を閉じる。 実戦なら嫌というほど積んだ。 守れなかったものが、数え切れないほど、ある。 試合を観に行ったが、執務室の若人はあっという間に敗退。情けねえぞ! と唾を飛ばしながらも、ま、そんなことよりたまってる書類の山を片づけてくれ、と奴らの背中を押した。 それで終わる、いつも通りの日々が戻ってくる。たったそれだけの、はずだった。 あの日どうして、競技場へと足が向いてしまったのか。 訪れた試合は、格技部門の決勝戦だった。 異様な光景だった。 「なんだぁ……あの動き?」 「初めてですか、ヒューズ中佐? あれが噂の異端少尉ですよ」 「はあ?」 競技場が奇妙な空気に包まれているのは、決勝戦まで勝ち残ったひとりが、国軍大佐ヘイデン・パークスの姪ヘザー・ミレー中尉であるため 「さあ、大佐の姪っ子と知ってて、あの少尉がどう出るか」 結果は見るまでもないと思った。 あの見慣れない動きに、明らかにミレーは戸惑っている。 果たして結末は、さほど長引くこともなくその通りになった。 パークスは満足そうに高笑いするブラッドレイと共に競技場をあとにしたが、残されたミレーの剣幕は凄まじかった。もちろん手など出しはしないが、何事かを例の『異端少尉』にぶつけている。 よくもまあ観衆の目の前であんなみっともない真似ができるもんだ。ったく、血は争えねぇな。 「あーあー、やっちまったな、少尉。こっからが大変だぞー」 たまたま隣り合わせて観戦していたマクラフリン中尉が声を弾ませる。嘆息混じりに口を挟もうとしたところで、マースは相手の台詞の中に妙に引っかかる単語が含まれていることに気付いた。 「ん? 確か、『』って言ったか?」 実況の声はマイクを通して変に反響し、はっきり言って聞き取れない。適当に聞き流していた名前を耳にして、はたと思い出す出来事があった。 振り向いたマクラフリンが、意気揚々と言ってくる。 「ええ、少尉ですよ。本部の。確か、アームストロング少佐の秘蔵っ子って話ですけど」 「ああ!」 思い出した。どこかで聞いたことがあると思った。 だが、それにしては。 「少佐の秘蔵っ子にしては妙な動きしやがるな」 「そーなんですよねー。だから初戦から注目の的でしたよ。噂じゃ少佐がイシュヴァールから拾ってきたんじゃねぇかって……おっと」 こちらの表情の変化に気付いたのか、マクラフリンが慌てて言葉を切る。 「すみません、中佐」 「くだらねえ。イシュヴァール人なら黒いだろ。第一ありゃイシュヴァールの動きでもねえよ」 あの灼熱の大地で、褐色の肌の武僧を何十人も撃ち殺した。の奇妙に揺らめく動きは、記憶に残るそれらとも異なる。だが。 「あ、少佐」 マクラフリンの声で、マースの意識は競技場へと引き戻された。振り向くと、近くで観戦していたのだろう、こちらに気付いたらしいアームストロングがあの巨体で歩み寄ってくる。 「中佐、おいででしたか」 「よう。見てたぜ、お前さんの『秘蔵っ子』、なかなかいい試合するじゃねえか」 すると少佐は、単純に驚いたようだった。瞬きながら、 「秘蔵っ子など……我輩はただ、ときどき稽古の相手をしておるだけで」 「でももっぱらの噂だぜ、あの豪腕の錬金術師が、ここんとこやけに目にかけてる新人がいるってな」 「それは……ご覧のとおり、あれだけの腕の持ち主ですので。我輩も楽しませてもらっております」 「言うねえ、絶賛じゃねーか」 アームストロングはもともと褒めて伸ばすほうのタイプだが、体技に関してここまで評価している人間は珍しい。それだけで興味を惹かれたのは事実だが。 「これからも精々しごいてやれよ。んじゃ」 軽く手を振って、先に競技場をあとにする。 ただそれだけで、終わるはずだったのだ。 もうこんな時間か。腕時計に目をやり、深く、長く、息を吐く。これは士官学校を出た翌月に購入した、それなりに値の張る代物だ。アメストリス国軍の給与ははっきり言って、かなり良い。 もともと恵まれた環境に生まれ育っただが、短期間ながら東部の一角に暮らした経験から、そのことはよく分かる。給料や待遇を目当てに軍人を志す者が少なくないことも、殊この中央においては致し方のないことと思えた。 だからといって、そういった連中と分かり合えるとは思わないが。 書庫の鍵をかけて、静まり返った廊下を歩く。常に慌しい軍法会議所も、夜の十時を過ぎればほぼ無人だった。確実にゼロとは言えないが。 鍵を所定の位置に戻して外に出る。会議所から東門に向かう道すがら、後ろから声をかけられた。 相手は分かっていた。 「少尉。ずいぶん遅いな」 「少佐こそ、こんな時間までお仕事ですか?」 「うむ、処理に長引いてしまった案件があってな」 「それは、お疲れ様です」 どうということのない口振りで、話す。軍人として一般的な速度で、歩く。 次に発せられたアームストロングの声は、それまでよりやや、低いものとなっていた。 「准将のことでいろいろと調べておるようだな」 「何のことですか?」 聞かれることは、分かっていた。そのために、屋敷の稽古場に呼ばれても、多忙を理由に断り続けていた。 隣を歩く歩幅を変えることもなく、アームストロングの声だけが強くなる。 「やめておけ。お主ひとりの力でどうこうできるものではない」 「では、あなたにならどうこうできるのですか? このまま、犯人を野放しにしておけと?」 東門までは、もうあと五分もない。その先は、逆方向のはずだった。 ただまっすぐに前方を見据えて、取り乱すことなく、歩く。 「わたしは、主君と、その主君を命懸けで守る臣下のそばで育ちました。准将は、わたしにとってこの国の主です。すぐそばで主が殺されたというのに、何もできなかったのに。 それなのに、憲兵が後手に回っているのをただ黙って見ていろと、少佐はそうおっしゃりたいのですか?」 「ここはお主の国ではない」 相手の視線を感じて、顔を上げる。点々とした街灯に照らされ、大男の小さな瞳が、厳しくこちらを見下ろしていた。 「ここはシン国とは違うのだ、命を懸ける必要などない。まずは、己の身を案じよ。准将はお主を信頼し、数々の仕事を任せた。准将のためにも、これからも、あの人の遺した仕事を全うしなさい」 東門は明るかった。この時間でも煌々と明かりがともり、守衛がふたり、控えている。 その数歩手前で足を止めて、は正面からアームストロングを見た。 「少佐は何か、ご存知なんですね」 「………」 「わたしには、話してくださらないんですね」 彼は何も、言わなかった。表情を変えることもなく、ただ黙ってこちらを見返すだけ。 一呼吸をおいて、は言った。 「中佐は約束してくださいました。いつか必ずわたしに話すと、それまでは何も聞くなと。だから引き下がったんです、その結果がこのザマです」 少佐の目元が、僅かに動いた気がした。 「お話しいただけないのなら結構です。自分で調べます。失礼します」 軽く頭を下げて、歩き出す。守衛の傍らを通り抜けて、左へ折れる。 アームストロングが追ってくる気配は、なかった。 |