「ひさしぶり」

それが、自分へと向けられたものだと気付くのには一定の時間を要した。いつもより少しだけ早めの昼食。ざわついた、食堂にて。
顔を上げると、机を挟んだちょうど正面に、トレイを手にした女軍人がひとり立っていた。

「ここ、いい?」
「どうぞ。わたしはすぐに行きますけど」
「相変わらず忙しないわね」
「くつろぐような場所ではないと思いますけど」
「それもそっか」

あっけなく同意して、ロスはの向かいの席に座った。まずはカップの茶を口に含んで、ふうと息をつく。

「ここのところ市内も騒がしくて。そっちも忙しいでしょう?」
「ええ、まあ」
「ま、会議所が暇なことなんてないか」

ひとりで納得して、黙々と食事を進めていく。その間に、は残りのスープをすべて飲み干した。
椀をトレイに戻したとき、不意にロスが口をひらいた。

「少佐、この間、大総統について南部の視察に行ってたんだけど。帰ってきたときボロボロだったの。向こうで一騒動あったみたい」
「そう……ですか」
「少佐はいつも、下のわたしたちに信じて仕事を任せてくれて。何かあったときには必ず庇おうとしてくれる。わたしが士官学校を出てからずっと。あんなに強くて、あんなに優しい人は他にいないわ」

は答えなかった。何も言わず、ただ黙って手元のトレイを眺めていた。
ぽつり、と、ロスがつぶやく。それは騒がしい食堂においても、なぜかはっきりとの耳に届いた。

「もっとあの人の、力になれたらいいのに」
「わたし、行きますね」
「戻ってこないの?」

振り切るようにして立ち上がったを、ロスの強い口調が呼び止める。
彼女は神妙な面持ちで、言ってきた。

「少佐もあなたのこと、心配してるわ」
「わたしには今の部署でやらなければならない仕事があります」

見つめるロスの表情が、緩んだ。それは諦めの嘆息だったのかもしれない。

「そう……ごめんなさい、余計なことを言って」
「いえ。お気遣い感謝します、少尉」

騒々しい食堂を抜けて、いつもの廊下を、執務室へと戻る。何も変わらない景色。ただ上座のデスクに陣取る上官が、入れ替わっただけのこと。こなす仕事が変わるわけではない。
何も変わらないのだ。何も。
所詮わたしがあの人の下にいたのは、たったの一年でしかない。
ただひとつ、あの頃と違うのは。

そっと三番書庫の鍵を持ち出したは、人目を避けるようにして奥の通路へと急いだ。
幸せだった、とても。時折さらされる悪意からも、守ってくれる人たちがいたから。

「俺は反対だね。いくらメイフェンの娘といえ、得体の知れない異国人の子どもを若君に近づけるなんて」
「そのことはルーイン様も了承済みではないか。彼女が異国人であることを理由に苦境に立たされるようなことはあってはならぬと仰せられた。そもそも奥方様の見出された娘にケチをつけるつもりか?」
「俺はただ! 仮に若君の身に何かあったとき、その責任は誰が負うのかってことだ! ようやく生まれた貴重な皇子だぞ!?」

生まれたところは、多くの人々が暮らす大きなお屋敷の一角だった。正確に言えば、国の首長と、その一族、そして彼らの世話をする下々の者たちが居住することを許された、邸宅。
だが彼女は、主君の世話をする人間でも、ましてや決して首長の一族などでもなかった。

「キーラ」
「ルーイン様!」

物心ついた頃から、年に数回わたしたち親子の部屋を訪ねてくる、煌びやかな衣装に身を包んだ美しい女性。
母は赤が映えるその人のことを、ルーイン様と呼んでいた。

「元気そうね。よかった」
「ルーイン様も、お変わりなく」
「代わり映えがしなくて退屈だったわ。だからまた、面白い話を聞かせてね」

奥の椅子にゆったりと腰かけながら、その人はいつも、穏やかな表情でわたしを見る。

「ね、

母の膝の上でこくりと頷くわたしの心臓は、奇妙に高く脈打っていた。
その人がこのお屋敷でとても偉い人なのだということは分かっていたけれど、何十もの民族をまとめる強力な君主の妾だということを知ったのは、もっと大きくなってからだ。

妾として召された各民族の首長の娘は、一年の半分を都で過ごすことが義務付けられていた。裏返せば、一年の半分は故郷で暮らすことができる。 この時間が何よりも愛おしいのだと、奥方様はいつも母に語りかけていた。

「皇帝陛下のこと、好きじゃないんですか?」
!」

子どもというものは、なんと無神経で、なんと、残酷なものだろう。
鋭く制された母の傍らで、思わず頭を庇ったわたしを奥方様はカラカラと笑いながら見た。

「あなたは、母上のように、本当に好きな人と一緒になるのよ」

母は少し頬を赤く染めながらも、静かに微笑む奥方様のことを、実に複雑そうな表情で見つめていた。

わたしはその頃、何も知らなかった。国を束ねる人たちの苦悩。ただ身軽に生きていればいい、わたしたちとは生まれ持ったものがまったくもって違う。
父もまた、その一端を担う血筋に生まれた人間だった。

「わたしはメイフェン。ヤオを名乗ることを許された、ヤオを守るためだけに続く一族の人間だ」

父は自らのことを何も語らなかった。奥方様が一族待望の皇子を身ごもり、都での療養が決定するまでは。
父と初めてふたりきりで向き合ったそのとき、わたしはまだ六歳だった。

「万が一のことがあれば、わたしは必ずヤオを選ぶ。お前たちを捨てることになったとしても、仮にこの手にかけねばならぬ状況に陥ったとしても。それでもわたしはヤオを選ぶ」

心のどこかで、分かってはいた。そうではないかと感じてはいた。
それでもやはり、ショックだった。何かあれば、父はわたしたちを捨てると言っているのだ。
俯くわたしの肩をつかんで引き戻しながら、父は小さなわたしをまっすぐ覗き込んだ。

「だから、、母上のことはお前が守れ」
「……え?」
「お前にはこのメイフェンの血が流れている。わたしに何があったとしても、お前は母上を守れ」

わたしが、母を?
こんな子どもに、父は一体、何を期待しているのだ?
自分はこれから、奥方様に従って何ヶ月も都に行ってしまうくせに。

父は行ってくるの一言もなく、屋敷からいなくなった。
父はいつもそうだ。わたしたち親子のことなど顧みない。
ただ、ヤオを守るためだけに続く一族の人間だから。

幼い頃から同じ一角で育ったユーシャンは、一日の大半を武術の稽古に費やしていた。 わたしは奥方様の計らいもあり、学問を学ぶ機会を多く与えられたが、それでもしばしばユーシャンと組み手の真似事をしたものだ。もっとも、一勝も取れるはずさえなかったが。

「型がなってねえんだよ」

ユーシャンの剣術指南をしているクーロンは、時折ふたりの様子を覗いては、鼻で笑ってのけるのだった。

「これがあのメイフェンの娘か。堕ちたもんだなあ」
「わたしは! 父とは、ちがう……」
「あーそうだろうな。同じでたまるか。どこの馬の骨か知れねえアメストリス人なんざ連れ込んで、双璧の血もここまでってか?」
「うるさい! 母を悪く言うな!!」
「お前かーさん大好きだもんなー。こんなとこで遊んでないでさっさと母上の膝にでも帰れ、甘ったれの小娘が」

母はいつも、心無い悪意からわたしを守ってくれた。たったひとりで。だからわたしが、今度は母を何に替えても守るんだ。
クーロンは近くの塀の上からひょいと身軽に飛び降りて、何も言わずに立ち尽くすユーシャンに冷ややかな一瞥を投げた。

「お前もあんまわけ分かんねーやつと関わるな。ヤオの血が鈍るぞ」

そして腰の長剣を揺らしながら、悠々と遠ざかっていく。
怒りで焼け付きそうな喉に唾を流し込むに、ユーシャンはあっけらかんと言いやった。

「気にすんな。急に外国からひょっこり現れた人間に奥方様の信が集まって面白くない連中がいるってだけだ。平気だって。メイフェンの選んだ人だ、敵ばっかりじゃない」
「ユーシャンは」

疑問は自然と、湧き上がってきた。いや、いつだって、ずっと前から。同じことをぐるぐる、考えていた。

「こんな血筋に生まれなかったらって、考えたこと、ないの?」

彼もまたそうだった。父と同じように、ただ、ヤオを守るためだけに生まれたのだと。ユーシャンの祖父と、わたしの父は、ふたりしてヤオの双璧と呼ばれる強力な武人だった。

「ないよ」

彼の返答は早かった。ぱっと顔を上げて見やるも、その瞳には、迷いさえない。
その輝きが、とても、まぶしかった。

「考えたこともない。ずっとそうしてきた祖父様を、父様を見てきた。俺もそう在るんだ、当然だろ?」

祖父の、父の、その背中を見てきたから。
だから、自分もそうなるのだと、一片の疑いもなく?
そんなこと、わたしには。

「お前はそうじゃない」

蔑むでもない、あしらうでもない。ただ当たり前のことを、当たり前のように口にするのだとばかりに。

「お前はそんな型にはまる必要なんかない。全部決まったことを決まったように進めてく、それじゃあつまんねえから奥方様だってキーラ殿を召し上げたんだろ。お前まで型通りになっちまったらつまんねーじゃん」

分からない、分からないよ、ねえ。
だけど、ユーシャン。本当はあなたも、自分の運命を呪うことがあるんじゃないの?
ただ、これが自分なのだと諦めてしまっただけで。

あの人が成長していく姿をそばで見ていくまでは、わたしだってずっと、分からなかった。

ああ、そうか。
これが、己の運命を受け入れる、という覚悟なのだ。

十四歳の春、もう一度だけ同じことを尋ねたに、彼はやはりまっすぐなあの瞳で、こう答えた。

「俺があの人を守る理由はただひとつ。俺があの人を慕ってるからだ」

そうね、ユーシャン。
避けられない運命だとしても。それを己の中で消化することは、きっと。

そしてわたしは、いざというときは自分たちさえ捨てると明言する父のことを、なぜ母があんなにも愛しているのか、ほんの少しだけ、分かったような気がした。
写真素材(c)NOION
(13.07.04)