国立中央図書館、第一分館の焼失からすでに二週間だが、ひょんな巡り合わせからヒューズ中佐に拾われてきたシェスカ・ホイールストンのおかげで、徐々にではあるが軍法会議所の業務にも円滑さが戻ってきた。
とはいえ、分館に所蔵されていた記録の膨大さを思えばシェスカに何年仕事を与えても追いつかないほどだろうが、すべては彼女の頭の中にある。手書き故、複写に時間はかかるものの、
必要な情報を的確に取り出すことのできる彼女の能力には会議所の誰もが舌を巻いていた。 「シェスカ? 頼んでた98年の裁判記録なんだけど 執務室のドアを開けたの目に真っ先に飛び込んできたのは、この時間にはいつも見られる泡を噴いたようなシェスカと、その傍らでコーヒーをすするフォッカー大尉の姿だった。 「おお、少尉、お疲れ」 「ただいま戻りました、大尉。シェスカ……大丈夫?」 「ああ、98年の記録なら上がってるよ。はい、これ」 「あ、どうも……ところで中佐はどこですか? 例の第五研究所の件、上がもっと詳しい報告を寄越せと」 まさか、面倒事を下に押し付けて、自分はさっさと退勤したなんて、そんなこと。だがこちらの顔を見て苦笑したフォッカーが、中佐は資料室に向かったと教えてくれた。 「書庫へ?」 「ああ。なにか、古い調べ物があるとかで」 「………」 ここ何日か、中佐が会議所の仕事とは別に調べ物をしていることには気付いていた。通常業務に差し支えないぎりぎりの一線をうまく保っていたので、何も言わずに放っておいたのだが。 (人に狸ジジイの相手させといて、一体なにやってんのよ) 声には出さずに毒づいて、は足早に地下の書庫へと向かった。利用する者は滅多にいない、奥まった通路。慣れない扉を、ゆっくりと押し開ける。 ヒューズは入り口近くの低いテーブルに資料と地図を広げ、青ざめた面持ちで何かをたどっているようだった。はっと顔を上げ、慌てたように振り返る。 「なっ、少尉! こんなとこで何やってんだ!」 「あら……ご挨拶ですね。誰かさんの指示で、ブリノフ将軍のお小言付きでさらに詳細な報告書の提出を求められて戻ってきたんですけど」 「そいつぁ悪かったな、だが後にしてくれ、今はそれどころじゃねえんだ!」 「はい?」 将軍の嫌味が堪えないとでも思っているのだろうか。思わずカチンときて反抗しかけたが、慌しく手元の資料を隠すヒューズを見て、怒りよりも別の感情が芽生えた。 「中佐、何かあったんですか?」 ぎくりと身を強張らせて、ヒューズが押し黙る。その額に脂汗さえ浮かぶ様を見つめながら、もまた信じられない思いでその場に立ち尽くした。彼の下について一年、そんな顔を見るのは初めてのことだった。何か深刻な事態が起こっている。それだけは嫌でも分かった。 「中佐」 彼がそうするように。もう一度、強く、呼びかける。唇を引き結んだ上官は、何かを思い切るようにパッとこちらを向き、言い放った。 「何でもねえ」 「中佐……」 「何でもねえ。いいから戻れ、報告書のことはあとでいい、今日はもう帰れ」 「中佐!」 「いいから戻れ! 命令だ!」 「………」 ショックだった。どうしようもなく腹が立った。でも。 彼がこんな言い方をするときは、自分ではない、誰かのことを思っているとき。 あのときもそうだった。だから。 その場から動かないに業を煮やしたようなヒューズが再び口をひらきかけたとき、遮るようにして彼女は声をあげた。 「鋼の錬金術師と何か、関係があるんですね」 ヒューズの表情が、一瞬にして引きつる。ぴくぴくと小刻みに動くその目尻をきつく睨み付けながら、はさらに続けた。 「彼が中央に来てからです、おかしなことが連続して起こるのは。第一分館の不審火も、第五研究所の倒壊も。何か関係があるんでしょう、リオールの暴動も一連の事件に関係しているんですか?」 「やめろ!!」 「何でも話すって! 言って、くれたじゃないですか……わたしのこと、全部聞いても受け入れてくれたあなたが。だから補佐官に任命してくれたんじゃないんですか、わたしじゃ……あなたの役には、立てませんか?」 「やめろ!! 関係ねえ!!」 執務室を出て行く前、ヒューズが見ていたという新聞。開いていたのは、東部の街リオールの暴動がようやく鎮静化されたという記事だった。 何が起こっているのか。『傷の男』とも関連があるのか。一体なにが、起ころうとしているのか 俺の片腕になってくれと言ってくれた。 嬉しかった。この国でも、生きていけると思った。 抑えることのできない涙で視界がにじみかけたとき、思い詰めた顔をしたヒューズは、小さく息をついて、疲れ果てたように口をひらいた。 「お前がいてくれてどれだけ助かってると思ってんだよ。お前が信用できねえとか、そういう問題じゃない。そういう次元の話じゃねえんだ」 「………」 「少し時間をくれ。これは……俺だけでどうこうできる問題じゃねえんだ。いつか話す、お前にも必ず話す。だからそれまでは、何も聞かないでくれ。頼む」 必死に頭を下げる上官を見て、とてつもなく、切ない気持ちになった。わたしは、何をしているのだろう。これが、『主』にとらせる態度なのか 「……出過ぎたことを申しました。無礼を、お許しください」 臣下は、主のためにこそ在る。それが主に強いるなど、あってはならないことだ。 なにかを履き違えていた。 深く頭を下げ、素早く踵を返すの背中に、ヒューズの静かな声が届いた。 「少尉」 ノブに触れた手をそのままに、振り向く。 ヒューズはひどく困憊した面持ちではあったが、それでも確かに、微笑んでいた。 「これからも頼んだぜ」 それだけで、冷え切った心に懐かしい風でも吹き込んだかのようで。 「……はい」 それが、軍法会議所勤務、マース・ヒューズ中佐を見た最後となった。 「つまり中佐が襲撃される前、最後に会っていたのは君ということだな?」 「なっ、少尉を疑ってるんですか!?」 「いかなる可能性をも考慮して捜査に当たるのが我々の仕事だ。ところで少尉、軍支給の拳銃は現在所持しているかね?」 「……はい」 「弾数を確認したい。渡してもらおう」 「なっ! なぜ少尉が中佐を殺さなければいけないんです!」 「いいの、曹長。いいのよ。わたしは何もしていないんだから」 中央司令部で見ることは滅多にない、憲兵の黒い制服。 彼らを率いるダグラス大佐は、自分たちと同じ青の軍服だった。 こちらが手渡した銃の弾数を手早く数え、淡々と言ってくる。 「ふむ、使用弾数はゼロか」 「銃は使いませんもので」 「今日はひとまずこれで帰るが、また来る。そのときはより協力的な姿勢を望むね。では、失礼する」 ダグラスを筆頭に、ぞろぞろと物々しい憲兵たちが去ったあと。水を打ったように静まり返った執務室の隅で、憤慨したアラドが捲くし立てた。 「よりにもよって、少尉を疑うなんて! 見当違いもいいところです!」 「彼らは疑うのが仕事よ。それで犯人が見つかるのなら……いくらでも手を貸すべきだわ」 「でも!」 かぶりを振って部下の怒声を遮りながら、後ろを振り返る。の視線を追うようにして、第三執務室所属の誰もが上座のデスクを見やった。 いつものように、大量の書類が積み上げられた机。 小振りの写真立がひとつ、こちらに背を向ける形で立っている。 それを覗き込んで締まりのない笑みをこぼす上官の姿が、ありありと瞼に思い浮かんで。 それが誰のものだったのか、今となっては分からないが。 誰かの嗚咽をきっかけに、執務室にしめやかな啜り泣きが溢れかえった。 だが、は、決して泣かなかった。 |