士官学校時代は、正直に言って、いい思い出がない。 にとってそれはアメストリスでの初めての生活といってよかった。しかも四人一室の共同生活。習慣、考え方、嗜好、すべてが異質なは集団の中で浮かざるをえなかった。なぜ、どうしてそういった結論に至るのか。すべてに理由を求める彼女が候補生たちの中でも厄介な存在として遠巻きにされるのも、言ってみれば仕方のないことだったのだ。 (どうして……受け止められないのかしら) 彼は違った。あの地で出会った彼だけは違った。わたしの話を熱心に聴いてくれた。何十分も、時にはそれこそ、何時間も。時が経つのを忘れるほどに語り合った。 まだまだ子どもでしかなかったわたしの話に、彼だけは一生懸命、いつまでも耳を傾けてくれていた。 ねえ。 いつかまた、同じ空の下で笑い合うことができる? ぼろぼろの本を前にして、何時間でも互いの意見をぶつけ合うことのできる日が。 いつかこの軍服を脱ぎ捨てて、またあの地に立つことができたとしたら、そのときは。 だからそれまで、どうか、無事でいて。 そんなささやかなことをひっそり夢見ることくらい 両腕で極限まで大きく伸びをして、ヒューズが背もたれにどっかりと体重を預ける。はそれを横目で一瞥しただけで、紙面から顔も上げず短く「お疲れ様です」と言った。 聞こえよがしに嘆息して、ヒューズ。 「少尉ー、お前まだ残んの? もう九時だぜ?」 「これだけ済ませて上がりますので、お気遣いなく」 「って、それ何回目だよ。定時からずっとそれしか言ってねえじゃねーか」 「そうですか?」 「仕事熱心なのは結構なこったが、上官がそれじゃ下のやつらだって帰りづれぇだろ、それくらい察しろよ」 「分かってます。でも、これだけ……本当にこれで最後にしますから」 資料の束を十秒おきに捲りながら、告げる。三ヶ月前の記録に目を通しているところで、机に影がさしてヒューズがいつの間にやら後ろに立っていることに気が付いた。 「なんだ? パークスのジジイの事件か?」 「はい。大佐の経歴も含めて今一度洗い直しを。一連の事件の発端ですから、ここに遡ることで今後の『傷の男』の動向を予測できればと……」 今年だけで国内で十人。いや、先日のバスク・グラン准将、ショウ・タッカーを含めれば十二人か。国家錬金術師ばかりを狙う連続殺傷事件の糸口をつかむべく、幾度となく当たってきた資料ではあった。けれど。 ヒューズがアームストロングと共に、タッカーの身柄を引き取りに赴いたまさにそのとき、『奴』はイーストシティに現れた。 奇しくもまったく同じとき、まったく同じ場所に居合わせた三人の国家錬金術師 絶対に、失うわけにはいかない人だ。だから。 「大丈夫か?」 しばし黙り込んだと思ったヒューズが、出し抜けに、そんなことを言ってきた。 書類から顔を上げたは 「何のことですか」 彼の言いたいことは、分かっている。そして彼もまたきっと、こちらの気持ちを理解している。 そう信じられるほど、言葉は、少なかった。 「じゃ、悪いけど先帰るわ。また明日な、少尉。お前もぶっ倒れない程度に帰れよ?」 「ご心配なく。わたし、体力だけが取り得ですから」 「ばーか。お前だって不死身じゃねーんだ、若いからってあんま無理してっとあとで痛い目みるぞ?」 「おっしゃるとおり、わたし、中佐と違ってまだまだ若いですから」 「ハッ、可愛くねえ。長生きするぜ、お前みてえな図太いやつはな」 「光栄ですね」 フンと鼻を鳴らし、デスクの鞄を引っつかんだヒューズが扉へと歩いていく。はそこでようやく彼の広い背中を見た。呼び止める。 「中佐」 「んあ?」 めんどくさそうに振り向いて、ヒューズ。 やや控えめに、は言った。 「ありがとう……ございます」 隙あらば抜け出そうとするヒューズにきつい言葉をかけることも多い。だがそれは、彼を信頼しているから。信頼されているそれだけの自信があるから。 けれども、時々はこうして。 わたしは心から、あなたを、慕っているから。 (俺があの人を守る理由はただひとつ。俺があの人を慕ってるからだ) 守るべき人がいる。 その人を、自らの意思で守りたいと思えること。それはこんなにも、信じがたいほど強い力になる。 この国で。こんな気持ちに、なれるなんてね。 目を細めて優しく微笑みながら、ヒューズが執務室をあとにする。ひとりになった部屋のなか、冷たいコーヒーを一気に飲み干したは残り少ない資料に丁寧に目を通した。 イシュヴァールの民 イーストシティから戻ってきたヒューズがに真っ先に告げたのは、国家錬金術師連続殺人事件の容疑者、『傷の男』の素性であった。褐色の肌にサングラス、額に大きな傷跡。それ以上でもそれ以下でもない、ただそれだけの情報しか知られていなかった。 だが今回の戦闘で、サングラスが外れたらしい。突き刺すような赤い瞳。それを聞かされたは、自分の中で燻っていた疑問がスッと解消されていくのを感じた。 そうかもしれないと、予想していたわけではない。褐色の肌、それだけでは何の特徴にもなりはしない。ただ確実に言えることは、最前線を経験した屈強な錬金術師さえ破る、 ヒューズに言わせれば『それだけやばい奴』がこの国にいるということだ。それが 「大丈夫か?」 そうだ、あのときも。 彼はそう言って、俯くわたしの傍らに立っていた。 雨が降っていた。 「……大丈夫です」 わたしはこの国の軍服を選んだ。軍の命令とあらば、それがいかなるものでも従わねばならない。 イシュヴァールは、『粛清』された民族だ。今はまだ、自分にどうすることもできない。 ただ。 (少佐が言うには、奴自身が錬金術師って話だ。神の道に背くだのなんだの、偉そう言っときながら自分がその道に『堕ちて』る そこまで一気に喋り、ようやくこちらの変化に気付いたらしい。呆然と立ち尽くすの顔を覗き込んで、訝しげにヒューズが聞いた。 「少尉、どうした?」 「あ……いえ、何でも……ありません」 曖昧に首を振って、目を逸らす。確実に速まる鼓動を抑え込むようにして、そっと拳をにぎった。けれど。 「少尉」 この人の追及からは、逃れられない。 「……イシュヴァールで錬金術の話なんて、聞いたことがありませんでしたから。彼らの、信仰から考えても……一体どこで、そんな術を身に着けたのか」 「それだけか?」 「………」 憎らしいほどに鋭い、この人は。 それともわたしが、自分で思っているよりも分かりやすいだけかしら。 涙のにじんだ瞳で見上げ、ははっきりと言い切った。 「それだけです」 「……そうか。ならいい」 眉根を寄せて、ヒューズ。 すべてを打ち明けると約束した。そしてそれは決して偽りではない。今も確かに、同じ思いだ。 けれど、これだけは。どうしても、これだけは。 生きていてほしい。 でも、もし仮に、『彼』が『傷の男』だったとしたら 「タッカーの報告書、とりあえず今日中にまとめといてくれ」 「……はい。承知しました、ヒューズ中佐」 自分のこの目で確かめるまでは。 たとえ、中佐、あなたにもこれだけは言えない。 |