「少尉、頼まれていた1908年度の資料お持ちしました……」 「あら、早かったわね。どうもありがとう」 分厚い書類を抱え、息も絶え絶えに現れたシェスカに労いの言葉をかけて、はそれをデスクに置くようにと促す。ヒューズが会議所に彼女を連れてきてから、早二週間が経過していた。 まだまだ慣れないことも多いだろうが、彼女は本当によくやってくれている。自分が誰かの役に立てるということが、この上なく嬉しいようなのだ。 一番うえの資料にざっと目を通しながら、告げる。 「ご苦労様。今日はもう上がっていいわよ」 「え、でも……」 「おいおい、勝手に決めんな少尉! シェスカにはまだつくってもらわなきゃなんねー裁判記録が五万とあるんだぜ? 何のために連れてきたと思ってんだ!」 「分かってます。ですが! この忙しいときに無理やり半休をもぎ取った誰かさんのせいで昨日もまともに寝ていない部下をたまに定時に帰らせることがそんなにいけませんか? 今日もすでに一年分の記録をあげてくれた彼女をこれ以上拘束し今日中につくらなければならない資料が? それでシェスカが倒れたらその埋め合わせは中佐が責任をもってしてくださるんですね? 分かりました、それなら 書面から顔を上げることもなく、つらつらと続けるに、上座のヒューズは頭を抱えてがなり立てた。 「あーーーーーはいはい、分かったよ!! 俺が悪うございました!! シェスカ、今日はもう帰ってさっさと寝ろ、俺はまだまだ帰れねえけどな……」 「自業自得です。ご自身のその立場で今この時期に休みを取ることがどれほどのことかお分かりになっていないようですね?」 「だーーーーっ!! しょうがねえだろ、娘の誕生日は一年に一回しか来ねえんだからな!!」 分かっている。分かっているのだ、そんなことは。だから昨日だけは目を瞑った。ヒューズがどれほど家族を愛しているか、この司令部において知らない者などいない。 ふたりの傍らで戸惑うシェスカに、はもう一度まったく同じことを告げた。 「ご苦労様。上がっていいわよ」 「は、はい……ありがとうございます。それじゃあわたし、失礼します……」 「俺より少尉の言うこと聞くんだな、シェスカ……」 「これ以上新人を困らせないでください」 「ちぇ」 子どものように口を尖らせるヒューズに、は厳しい一瞥をくれて息をついた。まったく、何かっていうといつも文句ばかり。隙あらば執務室を抜け出して誰かしらを訪ねている。これだから目が離せない。 もっとも、彼に言わせれば、まったく逆の理由で自分もまた彼にとっては目の離せない部下なのだそうだが。 大きなお世話だ。 わたしには他に、何もないのだから。 いくらでも、いかなることでも被ろう。この人を支えるためならば、わたしは何だってできる。 軍法会議所に勤めて、早一年になる。 この一年は、それこそ士官学校を出てからの一年より、さらに矢のように通り過ぎていった。 年をとったから、単純に仕事量が激増したから。 きっとそれ以上に、この国での生き甲斐というものを見出したから。 今日もまた定時の一時間前に出勤したは、軽装に着替えて軍のトレーニングルームを訪れていた。 予想に反し、部屋には先客がいた。 「あ……おはようございます、少佐」 「うむ、少尉」 他のトレーニングルームと異なり、この部屋には器機の類が一切ない。純然たる体術を磨くためだけの空間は、主に銃器を重視するアメストリス国軍において、自ずと使用者も限定されていた。 その数少ない顔ぶれのひとり、アレックス・ルイ・アームストロング すでに汗だくの彼からさり気なく視線を外し、部屋に踏み入りながら声をかける。 「お久しぶりですね。そういえば、先日東部に行かれていたと聞きましたが、鋼の錬金術師の故郷へ?」 「うむ。なかなか風情のある落ち着いたところであったぞ」 確か、リゼンブールだったか。イシュヴァールからそれなりに離れてはいるものの、軍服に使用する羊毛の産地としてテロの被害を受けた町だ。 軍人が幅を利かせるイーストシティを除けば、東部のかなり広範囲があの内戦で何かしらの影響を受けていた。 部屋の隅でパーカーを脱ぐの後ろ姿に、アームストロングが言ってくる。 「久しぶりにお主と手合わせをと思ってな。どうかね?」 「そんな。おっしゃっていただければご自宅まで伺いましたのに」 「いや、会議所が慌しいことは我輩も心得ておる。ここに来れば、会えると思ってな」 「……恐縮です」 距離を置いて向き合い、僅かに目線を下げる。はしばらく、彼の大きな革靴を見ていた。 静かに顔を上げ、目の前の大男の澄んだ碧眼を見やる。 「よろしくお願いします、アームストロング少佐」 この人は優しい。とても、優しい人だ。 だからこの人では、だめ、なのだ。 マース・ヒューズなる人物を知ったのは、何も初めて呼び出しを受けたときではない。まだ若いが、軍法会議所きっての切れ者として知る人ぞ知る存在 もっとも、そんなことは彼女にとって瑣末な情報でしかなかったが。 「・、階級は少尉です。中央士官学校を13年に卒業しました」 「へえ。書類を見る限り、士官学校での成績は奮わなかったようだな? この一年なにがあった?」 「……ヒューズ中佐に申し上げるようなことは、何も。日々の鍛錬を怠らなかった、それだけです」 「『日々の鍛錬』とやらであのミレー中尉を負かすなんざ、並大抵のことじゃねえなぁ」 「恐縮です」 淡々と切り返して、次の言葉を待つ。一刻も早く、この密室から解放されたかった。 はその日、定時より少し遅くに仕事を切り上げようとしていた。ところがぎりぎりになってなぜか担当の異なるアームストロングから雑用を言い渡され、すべて終える頃には執務室の最後のひとりになっていた。 どのみち早く帰りたい部屋ではないけれど。 ようやくまとめた書類を届けると、アームストロングは出し抜けにこう言ったのだ。 「ご苦労。このままこれを持って軍法会議所の第三執務室に向かうように」 「……はい?」 軍法会議所? 司令部の中でも最も重要な部署のひとつだが、なぜ、そんなところに? この計上報告書が必要なのか? 得心しがたく口ごもるを見て、アームストロングは付け加えた。 「軍法会議所のマース・ヒューズ中佐を知っておるか? 先日行われた格技選手権でのお主の活躍を目に留められてな、一度話をしたいそうだ」 「……はあ」 ブラッドレイ大総統のひょんな思い付きで、先日行われた中央司令部実技選手権。実戦経験の浅いアンダー三十を対象としたその格技部門で図らずも優勝してしまったは、職場での風当たりが強くなるのをひしひしと感じていた。優勝を確実視されていたミレー中尉は、司令部でも幅を利かせているパークス大佐の姪に当たるからだ。 観戦にきていたブラッドレイは決勝戦を大いに楽しんだようで、「これからも鍛錬したまえ」と高笑いしながら去っていったが、そのあとの空気の重苦しさといったら。 それでも、故意に負けるなどということはにはできなかった。 軍法会議所の第三執務室はの職場よりも広かったが、書類を持って訪れたそこにはヒューズ中佐の姿しかなかった。 「試合、見てたぜ? やー、スカッとしたな! パークスのクソジジイ、怒り狂ってただろ、大総統の手前、下手なこと言えなかったみたいだけどな」 「わたしはただ、目の前の勝負に取り組んだだけです」 「いいねぇ、あとのこたぁ考えもしねえその姿勢。ぶっちゃけあの後いろいろやりづらいだろ、どうだ?」 「……そのようなことは」 「聞いてるぜ、アームストロング少佐のとこで指導受けてんだってな。少佐の目に狂いはなかったってか」 カラカラと笑いながら、ヒューズは彼女の記録とおぼしき書類をデスクの上に落とした。そのまま腕を組み、 「だが、お前さんの技は少佐のもんともかなり違って独特だ。あんな動きは俺も見たことがねえ、一体どこの流儀なんだ?」 慣れている。自分のやり方がアメストリスのそれと異なることは分かっているし、むしろそのことを強みにすると決めた。だから。 「わたしは東部の出身です。あちらは大砂漠の影響で国境線が他に比べて不明瞭ですから、流れ者も多いんです。子どものとき体技を教えてくれた知人が、このやり方でした」 「不法入国者だと?」 「さあ……子どもの頃のことですから。彼の出自は知りません」 このやり取りには慣れている。わたしは、何も知らない無垢な子どもを演じればいいだけ。 何とはなしに顔を上げると、ニタリと歯を見せたヒューズの切れ長な瞳と目が合った。嫌な予感がした。 「なあ。軍法会議所に来ねえか?」 「………… は?」 あまりに突飛な提案に、そう、声を出すのがやっとだった。眉根を寄せて、不可解の意思表示をする。だがヒューズは、あっけらかんと続けた。 「お前さんみてぇな逸材、さっさと唾つけとかねーといつ誰に持ってかれるか知れたもんじゃねえからな」 「はい? あの、中佐、買いかぶりですしそれにそれ以前に、わたし、デスクワーク向きじゃないですから会議所なんてとても」 「安心しろ、肉体労働だってちゃんとある」 「そういう問題じゃ……とにかくそんな、わたしの一存ではとてもあれですし、その、」 「心配すんな、ホスキンズには俺から話つけといてやるし」 「なんでそんな話に……とにかく、そんな、急な話ですし、わたしそんな、」 「今の部署でやりたいことでもあるのか?」 問われて。初めて、勢いを削がれた。やりたいこと。わたしの本当に、やりたいこと。 メガネのおくで、ヒューズの眼差しがするどく光る。 「悪いな、話は少佐から聞いてんだ。少佐はお前さんのことえらく評価してるぜ? 何度も一緒に仕事してるが、俺はこれでも奴さんのことをけっこう買ってるんでね」 彼の言葉に、体温が一気に冷えた気がした。なぜ、どうして、そんなことを。 ヒューズは滔々と、つづけていく。 「少佐があそこまで言うお前さんに興味がある。どうだ、試しに俺の下で働いてみないか? 決して暇な部署じゃねえが体力だけは自信あるだろ。給料もそれなりだぜ、悪い話じゃないと思うが」 どうして、そんなことを。 何のために、そんな、余計なことを。 答えは、意地だった。意地でしかなかった。 「分かりました。こちらで働かせてください、ヒューズ中佐」 男の満足げな顔を半ば睨みつけながら、声には出さずに言い放つ。 |