まったく、六時までには折り返し電話すると言っていたのはどこのどいつだ。こっちの都合を考えろ、といってもあとは帰るだけなのだが……まったくあいつはこちらが忙しいときに限ってどうでもいいことで電話をかけてきて、それで中尉に怒られるのはわたしなのだ。ぶつくさと小声で文句を垂れながら(「なにかおっしゃいましたか、大佐?」「……なにも」)、ロイは執務室の受話器を持ち上げた。短い呼び出し音のあと、事務的な若い女の声。 「はい、中央司令部軍法会議所、第三執務室の少尉です」 「東方司令部のマスタング大佐だ。ヒューズ中佐に代わってくれ」 「は……マスタング大佐。お話はヒューズ中佐から伺っています。中佐はただいま席を外しておりますので、わたしが代わりにお伝え……」 声はそこで、途切れた。眉をひそめ、電話線の向こう側にいる相手へと口を開きかける。そのときロイの耳に届いたのは、親友の軽快で軽薄なあの笑い声だった。 「よう、ロイ! 悪いな、ちっと将軍殿から呼び出し食らっちまっててさ」 「何かやらかしたのか?」 「おいおい、人聞きの悪いこと言うなよ。こないだの将軍殺し、ホシはまだなのかってネチネチネチネチな……え、なんだ? ん? おい、そんな目で睨むなよ」 「?」 わけが分からずロイは電話越しに首を捻ったが、どうやらヒューズはそばにいる部下に話しかけているらしい。ヒューズはそのあとも何やらそちらに向けて不服そうにぶつぶつと呟いてから、ようやくロイの存在を思い出したかのようにあっけらかんと言ってきた。 「んーと、半年前の強盗事件の裁判資料だったっけか?」 「そうだ、明日までには欲しいと言ってあっただろう、大丈夫なのか?」 「任せとけって。午後でいいんだろ? 明日非番のがいるからそいつに持っていかせる」 「……非番なんだろ、そいつは」 「心配無用! 明後日の昼飯で手を打った!」 「ずいぶん安いな。半日丸々潰れるんじゃないか?」 「いーから気にすんな! 必要なんだろ、明日までに? 悪いと思うなら次からはもっと余裕持って連絡してほしいね、マスタング大佐?」 「……すまん。こちらも急な話だったんでな」 「よし、決まりだ! そうだな、埋め合わせに今度こっち出てくるときはエリシアの新しいワンピースでも……えっ? あ、あー……ああ、まあ、ああ……ああ、分かってるよ、うるせーな。だから執務室でロイと電話すんの嫌なんだ……あー、ああ……うん、ああ」 やはりぶつぶつと、受話器の向こうでヒューズが心底気だるそうに何者かに応じている。口を挟もうと軽く顔を動かしたところで、再びヒューズの意識がこちらへと戻ってきた。 「悪い、ロイ、まだまだ話し足りねぇんだが、口うるさい部下が隣で山のような書類積み上げて威圧してくるんで今日はこのへんで切るわ」 「ほう、それはいい。ようやくお前にも真っ当な部下がついたんだな。仕事を放り出して娘自慢の電話にかまけるお前に喝を入れられるようなまともな部下が」 「言ってくれるな? こんなやついなくったって俺は真面目に働いてるよっと……だから、おい、そんな目で見るなって」 いちいち反応しているところを見ると、これは相当口うるさい部下らしい。思わずちらりと正面のホークアイを盗み見たが、ロイは急いで彼女から目を逸らした。 「んじゃ、少尉、これ帰りに曹長に渡しといてくれ。じゃあな、ロイ、明日の四時にはアラドって曹長が東方司令部に着くはずだ」 「ああ、よろしく頼む。じゃあな」 そして静かに、受話器を置いて。 「あら。大佐、珍しいですね。ヒューズ中佐とのお電話が五分で済むなんて」 手元の作業から顔を上げて、ホークアイが不思議そうに聞いてきた。ロイは革張りの椅子からゆっくりと立ち上がり、後ろの壁にかかった外套へと腕を伸ばして取る。 「ああ。あいつにもようやくしっかりした部下がついたらしい。頼もしいよ」 「そんなこと言って、ほんとは中佐の娘さん自慢もっと聞きたかったんじゃないんスか? 大佐、電話切ったときちょっと寂しそうでしたよ」 「馬鹿者。わたしはあいつの家族自慢に付き合っているほど暇ではないんだ。お疲れ」 「お疲れ様です、大佐」 今夜は約束があるので、最低限の業務だけをこなして切り上げる。そのしわ寄せが明日に訪れることを覚悟しながら、ロイはホークアイとハボックを残して執務室をあとにした。そして待ち合わせの場所でアリスを拾った頃には、先ほど電話に出たヒューズの部下の名前などすっかり頭の中から消えていた。 『主』はだれだ!
ゆらゆら、揺れる。遠いようでそう遠くはない、目を閉じれば、おぼろげながらに蘇る「。お前にはこのメイフェンの血が流れている。何があっても母上を守れ」 何があっても。父の口から紡ぎだされるとき、それは文字通りの意味を表した。何があっても。何に懸けても。父が、友が、そうしてきたように。 「……ごめんね。守ってあげられなくてごめん、こんな思いをさせることになって……本当に、ごめんなさい。お母さんを、許して」 どうして。母を守れと、そう言いつけられたのは自分のはずだ。謝らなければならないのは自分だ。いや、どれだけ頭を下げても 埃っぽい茂みから身を屈め、対象物へと冷たいライフルを構えながら自問する。 どうしてわたしはこんなところでみっともなく生き延びているんだ? アメストリス国軍中央司令部軍法会議所。その名のとおり、軍法に則って裁きを下すための機関である。下らない瑣末な揉め事から、国を震撼させるようなクーデタ事件まで。もっとも、後者はこの百年、アメストリスとは無縁だが。が、だからといって会議所の仕事が楽になるわけでは、当然、ない。こなすべき職務は今日もまた。 「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜の! く、そ、中佐!!!!!」 場所は、男子トイレの前。怯えきった様子で縮こまる部下を前に、怒り狂った・は脇に抱えた書類の山がぐしゃぐしゃになるにもまったく気付かなかった。青ざめたバートルが必要以上に 「その、あの……ぼ、僕は逃がさないようにって細心の注意を払ってたんですよ? でも、あの、個室の窓から逃げられてしまったので……そ、そこまでついてくわけいかないじゃないですか、少尉……」 「甘い!! 中佐を個室なんかに行かせて帰ってくるとでも思うの? 何回同じ手に引っかかれば気がすむのよ、仕事はまだ山ほど残ってるのに!!」 「で、でもだってあんな青い顔して『漏らしたらお前が責任とってくれんのか』って……」 「漏らしたいなら漏らさせておきなさい、恥をかくのは本人なんだから」 因みにここは、五階である。バートルが持ってきた十数メートルの縄を片手でがっしりと回収し、は嘆息混じりに無人の通路を見渡した。 「もういいわ、曹長。これを持って先に戻ってて」 「え? 少尉、どちらに」 角はずれ、しわになった書類を腕の中に受け止めながら、バートル。そのときはすでに踵を返し、部下とは逆方向に足を踏み出したところだった。首だけで振り向いて、告げる。 「首に縄かけてでも連れ戻してくるわ」 ……冗談になりませんよ、というバートルの囁きは、とうに歩き出した彼女の耳には届いていなかった。 こういうとき。あの人はただ単にサボっているわけではない。もっとも、場所を替えて働いているという意味ではないが。あの人が仕事を抜け出して向かう先は、大抵。 「あら、少尉。中佐でしたらエドワード・エルリックさんの病室ですよ。101です」 「……だろうと思ったわ。どうもありがとう」 顔見知りの受付に軽く挨拶をして、それなりに混み合ったロビーを抜ける。と、顔を上げたその先には目標の人物を見つけて声をあげた。が、反応は相手のほうが速かった。 「げっ、もう手が回っちまったか」 「中佐! もう逃がしませんよ……あなたがきっちり仕事をしてくださらないと、部下たちに示しがつかないじゃありませんか。まさか、中佐のデスクに置かせていただいたあの書類の山が目に入らなかったとでも?」 「や! ま、待て待て待て、誤解するな、俺は決してサボっていたわけではない、断じて、神に誓って!」 「たった今『手が回ったか』とおっしゃったのはどのお口でした?」 「待てって話を……つーかお前、なんつー物騒なもの持ってんだ……」 「あなたが脱走用に準備なさったロープですが?」 それを両手に巻いてきつく引き伸ばしながら、声を低める。縫い付けられたかのようにその場で動かなくなった上官へと一歩一歩近付いていくと、ようやくヒューズは思い出したように上擦った声をあげた。 「まっ、待てって! 俺は立派に仕事をひとつこなしたぞ! ほら、見てみろ、この嬢ちゃん、すっげー特技があるんだってよ! これからすぐ会議所に戻って採用の手続きしようと思ってたところだ!」 「……は?」 何を言っているのだ、この人は。だが上官の後ろからおずおずと顔を覗かせた眼鏡の女を見て、は縄を構えていた両手をひとまず下に下ろした。彼の長身に隠れてこれまで姿が見えなかったらしい。助かったとばかりに安堵の息を吐く上官と困惑した様子で瞬く女とを交互に見やりながら、・は状況が理解できないままに眉根と唇とをきつく引き結んだ。 |